第十五話
遇津コーポレーション傘下のホテルの一階にある高級レストランの一室――上客用の個室に通された亘理は、中で待ち構えていた遇津雪野の姿を、久方ぶりに目にした。浮かんでくる嫌悪を押し殺しながら、大貫中佐の隣に座る。
大貫中佐は、亘理と遇津雪野の関係を知らない。遇津が関係を口にする事は無かったし、亘理はプライベートの話など、大貫には一切した事が無かった。
互いに挨拶と上辺だけの賛辞を述べあった後、豪華な料理が運ばれてきた。その血が滴る肉を見て、思わず亘理は目を伏せ俯いた。妹の現実の最後の体を見て以来、亘理は焼け焦げた肉を見ると胃が反り返りそうになる。同じものを見たはずだというのに、平気な遇津の神経の太さが、亘理には信じられない。己の神経が過敏である可能性もあるから、何も言わなかったが――ナイフを持つ手が震えそうになって、必死に堪えなければならなかった。
「もっと飲まんのかね? ほら」
大貫中佐がワインの瓶を手に取った。いつもならば壁際にソムリエが控えているのだが、本日は密談でもあるのか、三名しかいない。遇津のSPと秘書も外だ。だが、それらしい気配は特に無い。
「頂戴します」
グラスを差し出した亘理は、溜息を押し殺した。大した成果が期待できない以上、早く帰宅したかった。それに――先程から、酔いが回るのが早いように感じていた。昨夜眠っていないせいだろうと考えつつも、体から力が抜けていくような感覚に苛まれる。これでは帰宅しても通話をする体力が無いかも知れない。すぐにでも、寝入る事が出来そうだった。しかし上司の勧めであるから、断るわけにも行かず、グラスを煽る。
大貫中佐は、そんな亘理を艶かしい目で見ていた。
――亘理のグラスの内側に塗ってあった催淫剤の効果が楽しみでならないからだ。
遇津は何も言わず、いつも通りの微笑を浮かべ、そんな二人を眺めている。
薬を用意したのは、彼だ。無味無臭で、体を弛緩させ自由を奪い、そしてさながら獣のように発情させる効果がある。純粋に、性的な気配が一切しない亘理の痴態を見てみたいという思いもあったし、綺麗なものが醜いものに汚される姿を眺めたいという気持ちもある。遇津雪野は、醜いものが好きだった。例えば、芋虫のような。
「……ッ」
その時、亘理が唇を噛んで、吐息を殺した。
何も知らない彼は、襲ってきた眠気――だと彼が感じている体の弛緩と、酔いだと錯覚している意識を曖昧にさせる薬の効果に、何とか耐えようときつく目を閉じ、軽く頭を振った。綺麗な黒髪が揺れる。右手の指先で眉間に触れ、ツキンと響くような頭痛に似た目眩を振り払おうとした。
二人は、そんな亘理を楽しそうに見ている。しかし、亘理には既にその視線を気にする余裕が無くなっていた。
「亘理大尉、大丈夫ですか?」
「具合が悪そうだね。上官として、心配でならないよ」
「少し休んでいかれてはどうです? 上に部屋をお取りしますよ」
「遇津くん、よろしく頼むよ。部下が本当にすまないねぇ」
白々しい二人のやりとりは、ここに来る前から定められていたものだ。
「結構です。帰ります。ご迷惑をおかけするわけには参りません」
しかし亘理が、気力を振り絞ってそう答えた。すると二人が驚いたような顔をした。もう十分、薬が回り始めているのが分かる。そうである以上、本来ならば、意識がもっと不明瞭になっているはずなのだ。
実際には、亘理の意識は朦朧としていた。そうでなければ、大貫中佐の言葉に異を唱えるような事はありえない。単純に、仕事で醜態を晒すというのが、亘理の矜持に反していただけである。これまでの過去において、仕事の席で酒に酔った事など、一度も無かった。
「お先に失礼いたします」
「――送ろう」
「大丈夫です。大切なお話が残っておられると思いますので、大貫中佐殿はこのまま」
立ち上がった亘理は、目を細めた。本人は、必死に体を制しているつもりだったのだが、その鋭い眼差しに、大貫中佐は言葉に詰まった。少し涙に濡れて見える亘理の瞳は、大層色気を放っていたが、迂闊にここで手を出したら危険であるかも知れないと、大貫に疑念を抱かせた。薬が効ききっていない可能性を、彼は考えたのだ。
そのまま亘理は外へと出た。途中でコートを受け取ったのだが、エントランスホールに差し掛かった頃には、いつコートを着たのかすら分からなくなっていた。とにかく帰らなければとそればかりを考えながら、冬の外へと出る。暗い夜空には、星が瞬いている。すぐそばのタクシー乗り場へ、覚束無い足取りで向かおうとしたその時――亘理の前に一台の黒い車が停まった。
「乗りな、送るよ」
「……森永少佐殿?」
「どこに着くか分からない遇津のタクシーより、真摯な僕の車の方が、今は安全だと思うけどな」
ぼんやりとしながら亘理はその言葉を聞いた。倒れそうになったから、扉が開いていた森永の車の助手席に、そのまま乗り込む。
事実、タクシーには、遇津雪野の手配で、大貫中佐のマンションのひとつに行くようにという指示が出ていた。森永少佐は、それを傍受して、知っていたのである。
走り出した車の中で、亘理は目を伏せた。全身が震えていた。しかしそれは冬の寒さからではない。体が熱かったからだ。本当に風邪を患ったのだろうかと、蒙昧とした思考で亘理は考える。呼吸をするたびに、その熱は酷くなる。力が抜けた体を、すぐにシートから起こせなくなった。
「大丈夫?」
「っ、ぁ……」
森永の声に、返事をしようとしたら、体が震えて何も言えなかった。そして漏れた自分のものとは到底思えない喘ぐような声に、亘理は混乱した。常に冷静沈着であるから、混乱すること自体が久しぶりだった。何も考えられなくなっていくのも、悪い。左手で唇を覆う。
そんな亘理を、右手でハンドルを握りながら、信号で停止した時に、森永が一瞥した。
涙ぐんで、荒い吐息をこらえながら、震えている亘理は、森永から見ても扇情的だった。
元々麗しい見た目をしているとは思っていたが、ゾクリとしたのは初めての事である。
「何か盛られたみたいだね」
「っ……ン……」
森永の言葉を、亘理は必死に理解しようと務めた。だが、理解しても、すぐに曖昧模糊とした思考に、その事実は溶けていく。
「――じきに楽にしてあげるよ。薬のせいだ。君は何も悪くない……そして、僕も」
そう口にして、森永は小さく苦笑してから、車を発進させた。