【1】出会い



「千菊丸(せんぎくまる)、健やかに」

 母に送り出され、安国寺に受戒したのは、周建(しゅうけん)が六歳の頃の事だ。周建と名付けられたのも、時同じくしての出来事である。

 それから約十年の歳月が巡った。幼かった小さい手が、大人びた大きさに変わったものの、彼の黒い瞳の色は変わらぬままだ。

 母と別れる時には、泣かなかった。だが、安国寺まで道を送った紫峰の前では泣いた。紫峰(しほう)は、宮廷を追われた母の付き人をしている青年で、周建は見た事の無い父の代わりのように慕っていた。その紫峰は時折、母の手紙を携えて、周建の顔を見に来る。

 安国寺に入門してからも、年に数度は家族とのやり取りがあった。
 だからこそ、御仏の教えを学び、成熟した大人としての己を、いつか母達に見せたいという想いもある。その為に出来る事は、修行に励む事だけだ。

 ――では、御仏の教えとは、一体何なのか?

 周建には、これが常々疑問だった。安国寺は、幕府の庇護も厚く、裕福な寺院である。それも手伝い、臨済宗の僧侶達は、多くが賄賂を受け取り、私腹を肥やしていた。地位、名誉、世俗的な事柄に興味を抱く者ばかりが、幅を利かせている。

 その彼らが説く禅宗の教えを、周建は腑に落ちない思いで受け止めていた。
 自分は立派になりたい、早くきちんとした大人になりたい、そうした焦りと――彼らのようになりたいわけではないという思いが相反していた。何せ、安国寺で大人になるというのは、周建もまた汚職に手を染めるという意味合いに等しかったからだ。

 勿論、心優しい者もいる。同様に、賄賂を受け取っているからといって悪人とも限らない。人には、様々な側面がある。ただその多面性を、清く正しく修行に打ち込んできた周建は、生真面目さから受け入れられないでいるだけだ。

 これまでの間、飲酒をした事も無ければ、肉を食べた事も無い。女犯の禁を破った事はおろか、男色にも一切の興味を示さない。清廉潔白を絵に描いたような青年に、周建は育ったのだ。安国寺の僧を思い浮かべる時、人々は皆、若き周建を思い浮かべたほどである。

 優しげで少し垂れた大きな目に、柔らかい眉筋、よく通った鼻梁、見目麗しい好青年が修行に励む姿は、目を惹くとも言えた。

「おや……」

 中門のそばで周建が掃き掃除をしていると、一匹の黒い猫が通りかかった。薄い唇を持ち上げて、柔和に彼が微笑むと、その仔猫が近づいてくる。箒を持つ手を止め、周建が屈んだ。麗しい法衣が揺れている。

 もうすぐ十七歳になる彼は、まだ幼さの残る美を誇っていた。猫を見る瞳は純粋で、その部分だけ切り取るならば、子供と評して差し支えがないだろう。

「周建」

 そこへ声がかかった。周建が振り返ると、社僧の一人が微笑していた。

「鴨川の先にある茶屋に行って、そこの主人にこの手紙を渡してきてくれ」
「承知しました」

 姿勢を正して頷いた周建は、静かに手紙を受け取った。
 今は神無月の終わりであり、周建が誕生日を迎えるまでもう数日、雪が降るまではあとふた月は先だ。肌寒くないわけでは無かったが、そのまま周建は出かける事にした。

 絡子を揺らしながら歩いていくと、鴨川が視界に入ってきた。歩いている内に日が暮れ始め、空の紺に橙色が混じり始めている。それらの色が、雲の輪郭を際立たせていた。

「ん……?」

 その時、すすり泣く声が聞こえてきた。丁度橋を渡り終えた時の事で、足を止めて正面を見る。すると蹲り、一人の女性がきつく目を伏せ、涙を零していた。痩せこけ、髪は乱れている。

 別段珍しい町人の姿では無かった。安国寺は裕福であるが、民衆の暮らしは厳しい。

 布に赤子を包んで、抱きしめている女性は、こらえようにもこらえきれないといった様子で、頬を涙で濡らしていく。時折咳き込み、鼻水をすすっている。骨のような手で、強く抱きしめている赤子は、既に息絶えているようだった。

 衣食住はおろか、葬儀でさえ、満足に出来無い事は、決して珍しい事では無い。それを知るからこそ、安国寺における私腹を肥やす先達の姿が、どうしても重く伸し掛ってくる。彼らは言うのだ。大人になるというのは、見て見ぬふりをする事である、と。だが、大人になりたくても、なりきれない。遣る瀬無い思いを抱きながら、周建が女性に歩み寄ろうとした――その時だった。少し早く、一人の僧が手を差し伸べたのだ。

「私で良ければ、その幼い御霊のために、経文を」
「法師様……っ……お支払い出来るものが何も……」
「結構です。ただ、私が祈りたいだけですので」

 女性の元に屈んだ青年は、非常に質素な紺色の法衣に、地味な袈裟をつけていた。一見すれば雲水と呼ばれる行脚僧にも見える。薄い茶色の髪をしていて、その髪は長い。剃髪していない様相も、緩く髪を束ねている姿も、周建が知るいずれの僧侶とも異なった。

 嗚咽を漏らしている女性に向かい、真摯な表情で青年が語りかける。

「お辛かったですね」

 見守っていた周建は、彼の言葉が深く胸に突き刺さった気がした。青年には、歩き去るというような、見て見ぬふりをするというような、そんな選択肢は、最初から無かったかのように思えた。悲しい事がそこにあったから、ただ寄り添うと決めたように、周建には思えた。それは己がしたかった事でもある。

「有難うございます」

 青年が読経を終えると、涙声で女性が礼を述べた。死した赤子を手に、ゆっくりと彼女は立ち上がり、何度も深く頭を下げる。その時になって、青年が少しだけ唇の端を動かした。慰めるような笑みが浮かぶ。薄い端正な唇で、青年は女性に優しく声をかける。

「気を落としてはなりません。御仏がついているのですから」

 何度も頷くと、女性は墓地へ向かうと話して、歩き始めた。その背中を、青年が見据えている。眼前でのそれらの出来事を、呆然としたように、周建はずっと見ていた。ただ、見ていたのだ。動けなかった。

 くるりと青年が振り返ったのは、それから暫くしての出来事だった。

「見世物ではありませんよ」

 すると青年は、先程までとは打って変わって、意地の悪い顔で笑っていた。猫のような形の瞳の色もまた、薄い茶色だ。変わった色をしているなと考えるよりも早く、先ほどまでとの表情の違いに、周建は唖然としてしまった。青年が右の口角を持ち上げている。

「子を失った母親に、経を唱える私を眺めているのは、そんなに面白かったですか?」
「ち、違う……俺は深い感銘を受けて……」
「感銘? 通行の邪魔だと思っていたの間違いでは?」
「だから違うと言って――」
「冗談です。怒るなんて、まだまだ子供かぁ。随分と立派な身なりをしているから、てっきり高名な同業者かと思ったら……修行僧かな?」

 先程までとは一転し、真面目さの欠片も見えなくなった青年を見て、周建は眉を顰めた。

「俺は大人ではないかもしれないが、子供扱いをしないでくれ。確かに修行僧だけどな、俺はこれでも仏門に入って、御仏の心をしっかりと学んでいる」

 思わず語調を荒くすると、今度は青年が吹き出した。長い髪が揺れている。

「真面目なんだなぁ」
「馬鹿にするな、俺は――」
「名前は?」
「人の話を遮るな。全く……俺は、周建という。安国寺の僧だ」
「なるほど。それはまた裕福ですね。その上、純粋培養されたのかもしれない」

 青年の言葉に、周建が沈黙した。先ほどの感動が嘘のように霧散していく。

「私は、謙翁宗為(けんおうそうい)と言います。西金寺に住んでるんだ」
「……聞いた事が無い」
「これでも貧しいと評判なんですが」
「……あ、そうですか」

 謙翁とのやり取りに、周建は辟易していた。やはり、どこにも、自分が理想とするような御仏の教えを実践しているような人物はいないのだろうと考える。一瞬でも謙翁がそう見えたのは、気のせいだったに違いない。

 改めて周建は、謙翁を見た。伸ばした髪も、よく見れば解れている法衣も、ボロボロの袈裟も、全てが御仏の心から逆を向いているように思えてきた。身長は、謙翁の方が少し高い。年の頃は、二十代後半か、三十代前半か。どちらにしろ、周建から見れば、良い年の大人だった。その大人が取るにしては、言動が軽薄すぎると感じてしまう。

「本当は、分かっています。きちんと」

 その時、不意に謙翁が腕を組んで、そう述べた。周建が首を傾げる前で、彼は続ける。

「通行の邪魔だなんて思っていなかった事も、通り過ぎようとしたわけではなかった事も。君は、歩み寄ろうとしていたんだ。ただ、私の方が少し早かっただけでね」

 それを聞いて、周建は目を見開いた。見れば、再び謙翁の瞳が真剣なものへと変わっており、周建にはその眼差しが、澄んだ水のように見えた。

「君の気持ちも、きちんと御仏は見ていたと思います。それが、この世界の道理です」

 謙翁はそう言うと、再びくるりと踵を返す。

「一歩早く出てしまった私こそが、差し出がましい真似をしてしまった。お許し下さい」

 そしてそのまま歩き始めた。再び動けなくなった周建は、暫くの間、謙翁の背を見送っていたのだった。