【4】神無月(★)


 それから二度、二人で共に、春夏秋冬を経験した。宗純は、十九歳になっていた。既に幼さが以前より抜け、背丈も謙翁を越した。子供の頃、長らく親しんだ周建という名よりも、今では宗純と呼ばれる事に慣れていた。呼ぶのは専ら謙翁だ。

「宗純、今年も神無月が来たね」
「え? ええ。それがどうかしたんですか?」
「君も大人になったなと思ってねぇ。覚えているかい?」

 自分達が初めて出会ったのも、神無月の事だ。そう思い出しながら謙翁は告げたのだが、宗純は首を捻っていた。謙翁に伝えた事があったか、考えていたのだ。

「俺、誕生日だって言いましたっけ?」
「え?」

 その言葉に、初めて耳にした謙翁は声を上げて聞き返した。

「いつ? 何日?」
「今日です」
「どうしてもっと早く言わないんだ。そもそも去年だって一昨年だって、何も言わなかったよね? 確かに祝うのは正月だとは言え、分かってるんならばお祝いくらい……」
「魚は駄目ですよ」
「そ、そういう事じゃなくて」

 この頃になると、実際には謙翁が、魚好きらしいと宗純も知っていた。買う金は無いため、時折ふらりと姿を消して、謙翁は釣りをしてくるのである。安国寺の堕落に比べたら、随分と可愛い不正行為だと、そう考えてしまうのは、単純に師匠への贔屓目だと、宗純はよく理解していた。同時に、食べたいものを食べるというのもまた、自然な行為の一つであるとも考える機会に恵まれている。己はまだその禁忌を破っていないが、いつか挑戦してみても良いかも知れないと思っていた。例えば、有髪にしても、御仏への信仰心にも、考えにも何の変化も無かったから、型を破るという意味では有用なのかもしれないと考えている。

「私は、宗純の事を、考えてみると、ほとんど何も知らないじゃないか」
「俺、語るような事があまりなくて」
「誕生日が分かるという事は、それなりの家の出自なんじゃないのかい?」
「……母は、藤原の出自で……その……南朝で……宮廷を追われてしまったらしくて、生まれた家自体は、民家です。嵯峨野の」
「ちょっと待って。御落胤かい?」
「……ええと、俺は、父親の事は、ちょっと……」

 宗純が言いにくそうにしたため、謙翁はそこで声を止めた。すると気を取り直したように宗純が口を開く。

「それより、覚えてるかというのは、何をですか?」
「ああ、私達が出会った日の事だよ」

 それを聞いて、宗純が柔和な笑みに変わった。

「勿論。忘れた日なんて一度も無い」
「私は、たまに忘れてしまうんだ。最近の宗純の印象の方が強すぎてね」
「お師匠様は、出会った時から、あんまり変わらないからなぁ。時々意地が悪いけど、本当は優しくて――だけど、それは単純に控えめにして、物事を受け流しているだけだったりもするし」
「君も言うようになったなぁ」
「師匠の教育の賜物だな」

 そんなやり取りをして、二人で笑いあった。それから謙翁が、外へと視線を向ける。既に夜だ。

「そうだ。たまには、鴨川を見に行こうか」
「え? この時間に? もう夜だ」
「駄目かな? 懐かしい気分になってね。君は、夜の鴨川を見た事がある?」
「無いけど……安国寺にいた頃は、遅くとも日が落ちた頃には帰らないとならなかったからなぁ」
「じゃあ、お祝いも兼ねて、鴨川に行こう」
「お祝い? どういう事だ?」
「行ってみれば分かるよ」

 こうして、そろって外へと出た。並んで歩くと、暗い路地に、更に黒い影が伸びる。月明かりの下、二人で進む。宗純は、空が好きだ。だから、時折、煌く星を見上げながら歩く。そんな宗純の横顔を見て、謙翁は慈しむように優しい眼差しを浮かべていた。

「ここだったね、君と出会った橋は」
「うん」
「少し渡ろう」

 二人で橋を歩いていく。すると、橋の中程で、謙翁が立ち止まった。そして川を見る。

「見てご覧。君の好きな空が、二つになってる」
「あ……」

 そこには、水面に映る星空と月があった。感嘆の息を漏らし、目を瞠った宗純は、それから嬉しそうに頬を持ち上げた。

「最高のお祝いだ」
「でしょう? たまには私も、人を喜ばせる気が利くんだよ」
「師匠は、いっぱい俺を喜ばせてくれてる」
「それは私も同じ気持ちだよ」

 それから暫しの間、二人は無言で鴨川を見ていた。出会ってからもう時期四年となる。これまでの間の様々な記憶が過ぎってくる。二人で御仏の心について学んできた、二人きりの西金寺という小さな世界は、この星空が二つある、大きな世界と、確かにつながっている。

 宗純にはもう、世界に対する疎外感は無い。

 帰り道――二人は、静かに手を繋いだ。

「ちょっと寒いね。指先、冷たくないかい?」

 そう言って先に手を差し出したのは、謙翁だ。

「暗いし危ないなぁ」

 謙翁のそんな手を、何気なく握り返して、そう口にしたのが宗純だ。

「私はまだ、介護される年ではないよ?」
「この前も風邪をひいて悪化させたじゃないか。十分、このご時世じゃご老体だ」
「君だってもう二十歳なんだから、とっくに良い歳になってる」
 
 手を繋いで歩きながら、どちらともなく顔を背けていた。指先の温もりに、どちらも緊張していたから、まともに顔を見る事が出来なかったのだ。

 この時、宗純にとって、世界は謙翁になりつつあった。謙翁は自然だ。謙翁は、春と同じように、夏と同じように、秋と同じように、冬と同じように、太陽と同じように、月と同じように、星と同じように、宗純にとって自然な存在であり、世界だった。

 それだけではない。時折、謙翁の事しか考えられなくなる。これが、煩悩という名前をしているのだろうかと、宗純は時に考えもする。しかし、答えは既に出ていた。煩悩では無い。愛だ。己の気持ちに素直でありたいと願い、生きている中で、そこに生まれた好意を示す事は、素直な言動の現れであるはずだと、ずっと考えていた。だが、これまでそれが出来なかった。謙翁は煩悩だと切り捨てるかも知れないと思えば、不安がそこにあったからだ。

 一方の謙翁は、もうずっと前から、宗純が好きだった。ただ、それを伝えて、関係が変わる事を願わなかっただけだ。宗純の瞳が、日に日に熱を帯び、色気や艶が増していくのをそばで見ていた。恋されているのだと、疾うに気がついていた。だから、己からは願わずとも、宗純が望むならば、ただの師弟という関係を変えても良い。そう思って、何気なく手を差し出してみた結果、思いの外体が硬くなり、謙翁は理解した。自分が、想像以上に宗純の事を好きだという事実を。

 二人は手をつないだまま、無言で歩く。そのまま、西金寺に帰り着くまでの間、ふたりの間に言葉は無かった。手を繋いだまま中へ入っても、それは変わらなかった。どちらともなく、向かった先は、寝室だ。敷きっぱなしだった布団の上に、先に謙翁を押し倒したのは宗純だった。謙翁は、縺れるように転がった時、されるがままになる。

「宗純は、私を抱きたいのかい?」
「ああ。欲しい」
「私も君が欲しい」

 互の服を脱がせ合いながら、静かに唇を重ねる。謙翁の薄い唇の感触を宗純は味わい、宗純の熱い舌の温度を、すぐに謙翁は知った。痩身の謙翁の鎖骨の上に、宗純が口付ける。赤い華が、白い肌に散っていく。

「ん」

 右胸の飾りを指先で弾かれた時、謙翁が息を詰めた。緩急を付け、優しく宗純が乳頭を嬲る。利き手では、謙翁の陰茎を優しく握りこむ。そんな宗純の首に、謙翁が腕を絡めた。それから再び唇を重ねる。

「……っ」
「もっと声が聞きたい」

 そばにあった椿油を、宗純は一瞥した。知識では、安国寺にいた時に学んでいた。男同士で交わる時には、潤滑油が必要だと。この椿油は、灯りとりの油が切れた時に、紫峰が母からの贈り物だとして差し入れてくれたものだ。しかし他には何もない。

「っ……」

 謙翁は、声をこらえる事に、必死になっていた。もっと声が聞きたいと言われても、どうしても羞恥が募ってくる。その時、椿油を塗りつけ、宗純が静かに謙翁の中へと指を進めた。

「ぁ……」

 異様に太く感じる指の感触に、堪えきれず謙翁が甘く切ない声を漏らす。宗純は、そんな謙翁を気遣うように、ゆっくりと指を進めていく。第一関節、第二関節、そうして指の根元まで入った時、その先端を軽く折り曲げた。

「っ」

 指先が感じる場所を掠めたものだから、謙翁が思わず息を止める。小さく震えながら目をきつく伏せ、広がった疼きを堪えようとする。じわりとその箇所から、快楽の波が広がったからだ。

「ぁ」

 宗純は、謙翁の反応を見て、その箇所を指先で更に責める。するとじっとりと謙翁の体が汗ばみ始めた。快楽がもたらす衝撃に、次第に体が炙られるようになり、大きく震え始める。

「あ……ぁ……っ……ぁぁ」

 ついに声がこらえきれなくなったのは、二本目の指が入ってきて、そのそれぞれの先端で感じる場所を強く刺激された時だった。

「もっと。もっと聞きたい」

 丹念に解してから、宗純が陰茎を、謙翁の中へと進める。その衝撃に、謙翁が背をしならせる。ギュッと布団を手で掴み、気づくと無意識に逃れようとしていた。しかし、謙翁の太股を持ち上げている宗純が、それを許さない。

「ああっ」
「熱……っ、は」
「宗純、ん……あ、ぁ……」
「辛くないか?」
「――平気だよ。もっと、好きにして良いから」

 実際には、平気では無かったし、強い快楽に余裕も無かったが、謙翁は見栄を張った。宗純の前では、大人でいたかったのだ。

 その言葉に、宗純の理性が飛んだ。一気に貫き、一度動きを止めて荒い息を吐くと、すぐに激しい抽挿を始める。椿油が立てる卑猥な水音が、静かな寝室に響く。

「ぁ、ぁあ……あ……ん……っ、あ、ああ」

 謙翁の嬌声と、二人の荒い息遣いも、夜の西金寺に谺している。しかし二人には、互いの温度の他は、何も認識出来なくなっていた。いつ惹かれあったのかすら、自然な事すぎて分からないでいる。明確な契機も無い。けれど、互いが互いに必要だった。体を重ね、互が全てだと、双方が考えていた。

「あ……っ……ぁ……あああ!」

 一際強く動き、宗純が果てた。その時、感じる場所を刺激され、謙翁もまた放った。
 余韻を味わうように宗純が大きく吐息する下で、謙翁は汗ばんだ体を布団にぐったりと預ける。こちらも余韻に浸っていた。

 二人が師弟の関係を超えて、結ばれた夜だった。