【2】極めるべきは掃除ではない。
雨の季節が訪れた。生活の仕方が異なるため、食事は各自で食べている。
朝食にトーストを作り、サラダを用意したキースは、フォークを片手に二階の食堂にいた。飴色で長方形のテーブルがある。脚には蔦の意匠が彫られており、椅子が五つある。何故五つなのかをキースは知らない。キースがこの黒塔に訪れた時から、ずっとそうだった。
新鮮な黄緑色のレタスを、銀色のフォークで突き刺しながら、キースはシャキリという音を漠然と聞いていた。レタスと茹で卵だけのサラダは簡素だが美味で、チーズをのせて焼いたトーストと共に、つい好んで食べてしまう。
「おはよう、キース」
「あれ、師匠?」
そこへ、朝の時間帯としては至極珍しい事に、ユーグが顔を出した。普段は無地の黒いローブを羽織っているユーグは、本日は余所行き用の、銀の縁どりのローブを身に纏っている。黒の無地は、黒塔の、言うなれば普段着だ。刺繍や縁どりがあるものは、いわば正装である。
起床時刻が早く、特別なローブを着用していると言う事は、外出で間違いない。しかしそんな予定は知らされていなかったため、キースは首を傾げた。
「何処へ行くんだ?」
「ちょっとマゼリア帝国特別魔術図書館に諸用があってな」
このグリモアーゼ大陸には、四十七の国がある。マゼリア帝国は、北東にある大国で、人間の住む場所においては、最も魔術が進んでいる大国だ。各国共に、独自の魔術が存在するのだが、中でも魔術学術都市クーラグを抱くマゼリア帝国は、その中にあって最先端の魔術知識と技術を有しているとされている。
無論、黒塔の技術に比べれば足元にも及ばないのではあるが、時には参考になる研究も、クラーグには存在する。
黒塔では、四十七カ国全ての魔術を収めた上に、独自の魔術を学ぶ。だが、それには一般的な人の一生では足りない、というのが、通常の人間の考えだ。よって黒塔は、人知を超えた――ある種、人ならざる魔術師の住む場所とも考えられている。
しかし実態としては、各国の魔術技量が黒塔の魔術師から見れば三日で習得可能な程度である事と、魔術行使に必要な膨大な魔力を黒塔の魔術師が持っているというだけだ。魔術という技術は、それだけ黒塔と大陸各国では乖離していると言える。
よって、ごく稀に参考になる事があるとは言えど、弟子に申し付けるでもなく、第十二代の暗黒魔導師が自ら大陸に降りるというのは、非常に珍しい事態である。
黒塔は、大陸の最北端にある孤島、イーゼルシア島の中央にある山の上から、雲を突き抜けるほど高く建造されている。大陸とは独立している上、雲の上にある印象が強いため、暗黒魔導師やその弟子の移動は、『大陸に降りる』と表現される事が多い。
「朝食はどうするんだ?」
「不要だ。道中で適当に食べる」
ユーグはそう言って笑った。お忍びである事が、キースには理解出来た。そうでなければ、各国共に接待の場を設けるからである。暗黒魔導師は、その存在だけで権力を保証されている。それは単独で世界を滅ぼしかねない力を保持している事が多いからだ。
だが、賑々しい場をユーグは嫌っている。それはファルレも同様だと、キースは知っている。どちらかといえば、キース自身は、大陸に降りた時に開かれる晩餐で振舞われる豪華な料理を楽しむ方だ。
「じゃあな。行ってくる」
こうしてユーグは出ていった。外へと通じる階段は、二階の居間に直通するものと、三階の回廊に直通するものの二種類がある。普段キース達が用いるのは、二階への外階段だ。応接間に向かうための外階段は、滅多にしようされない。客人に制限があるからである。
傘立てから黒い品が一本抜き取られていったカゴを見据えながら、キースはトーストを齧った。
その後、皿を、魔術ではなく手で洗ってから、キースは久方ぶりに、掃除用具の置いてある倉庫へと向かった。少し前にお茶をした際、『手を使え』とユーグに言われた事を思い起こしながら、バケツとモップを見る。
「師匠が帰ってくるまでに……少しは弟子らしい事でもするか」
下働きも重要な事柄であると念じながら、キースはモップを手に取った。しかし柄を暫く握ってから考え直す。
「いいや。掃除技能より、魔術技量が向上した方が、師匠も喜ぶだろう」
完全なる言い訳であったが、キースは再びモップをしまったのだった。灰色のモップは寂しそうに、再び倉庫でバケツだけが友となる。
倉庫の扉を閉めてから、キースは螺旋階段を上った。二階から四階まで直通の螺旋階段は、居間と食堂の間にある。吹き抜けでくり抜かれている黒い階段をクルクルと進んでいき、手すりを離して、四階の床を踏んだ。
そしてまずは、自室へと向かった。弟子であるキースの部屋は、研究部屋と寝台や机がある空間が一つになっている。ユーグとファルレの部屋の場合は、扉を開けると中にも扉があり、私的な空間との切り分けがなされている。
書架の前に立ったキースは、歴代の暗黒魔導師が認めてきた魔導書を眺め、その内の一冊の背表紙を指先で撫でた。歴代の中でも、特に天才とされる、第三代暗黒魔導師が記した異世界理論の書物である。それを抜き取り、続いて横にあった、やはり三代目が記した歴史書も手に取った。既に何度も繰り返し読んできたが、改めて目を通したい気分だった。
先に捲ったのは歴史書だ。黒塔初期の出来事――特に、初代暗黒魔導師と第二代暗黒魔導師についての記載が多い。黒塔が特別視されるに至った事件の記録がそこにはある。
なんでも、初代暗黒魔導師と第二代暗黒魔導師は、ある日盛大に喧嘩をしたらしい。結果、魔力圧が強すぎて、この世界に罅が入ったそうだ。世界というのは、黒塔も含めた大陸を丸く覆っている、魔力膜の内側の事であり、端的に言えば、その外側の膜に亀裂が入ったらしい。
暗黒魔導師同士が戦うと、世界が滅亡する。
それが明らかになった瞬間だった。以後黒塔では、罅から出来た亀裂を修復する魔術の研究なども行われるようになった。黒塔は、破壊と再生の魔術を司っている。
この時に発見されたのが、並行異世界だ。魔力膜の外側に広がる別の世界である。それは異なる時空の同じ場所に存在する球体の世界であり、各世界によって世界律と呼ばれるその世界の一定の規則は異なるらしい。一定の規則とは、魔術や科学だ。例えば、あまりこのグリモアーゼ大陸を抱く世界では、科学は一般的ではなく、飛行船や時計などは最先端技術であり、多くは魔術技術に頼った理の元で生活をしている。しかしながら別の並行異世界においては、魔術はそれほど発達していない事もあるようだ。
並行異世界研究を担い、世界の修繕技術――破壊技術を持つ黒塔が特別視されるのは、世界の滅亡に関わるから当然の事なのかもしれない。他にも黒塔には、魔獣討伐という重要な仕事があるため、各国を脅威から守っているので敬われていると言える。
古びた魔導書を捲り終え、閉じて革の表紙に右の掌で触れながら、キースは緩慢に瞬きをした。白味のかかった金髪が揺れている。睫毛も同色だ。切れ長の目をしていて、その瞳は蒼い。通った鼻筋をしているキースは、二十三歳だ。外見年齢ではなく、実年齢である。彼のような白磁の肌の持ち主は、エステリア王国とその周辺各国に多く住まう、白亜人(アーキサイト)という種族だ。よって、どこの出自かは、幼い頃に黒塔へと引き取られたためキース本人に記憶はないが、エステリア周辺で生まれたのではないかと、キースは時に己を振り返る。大陸には他に褐色の肌を持つ、赤光人(コステリカ)など、様々な人種がいる。獣人も多数暮らしている。
「師匠、いつ帰ってくるんだろうな」
呟きながら、キースは目を伏せた。