【23】乳母
「お初にお目にかかります、カルネ様。この度、乳母のお役目を申し使った、ハルレと申します」
我が家にやってきた乳母さんは、恰幅の良い魔族の女性だった。両頬を持ち上げたハルレさんを見て、俺は深くお辞儀した。
「カルネです。どうぞよろしくお願いします!」
するとにこやかにハルレさんが頷いた。早速、イゼルを見せると、ハルレさんが抱き上げた。
「あ」
イルゼは泣かなかった。それを見て、俺は目を丸くした。
「――魔族の子は、魔力に敏感に反応するんですよ。今は、安心させる魔力を放っております」
「魔力の関係で、今まで泣いていたんですか?」
「その可能性が高いですね」
「じゃあこれからは、それを覚えたら、ユフェルが抱っこしても泣かないかな?」
「次期魔王様は魔力量が多いお方ですから、調整が難しいかもしれませんが――恐らくは」
穏やかにハルレさんが言った。それを聞いて、俺は思わず微笑した。
その後、アーティさんの案内で、ハルレさんは、イゼルのお部屋へと向かった。俺は久方ぶりに、腕の中にイゼルがいない状態でソファに座る。なんだか気が抜けてしまい、深く背をソファに預けた。体がズブズブと沈んでいく。少し寂しいが、張り詰めていた気が、少し緩んだ。
これからハルレさんは住み込みで世話をしてくれる事になっている。我が家の使用人の一人として加わった形だ。
その夜、ユフェルが帰ってくると、挨拶をしたハルレさんが、俺に教えてくれた事と同じ内容を、ユフェルに伝えた。
「何、本当か?」
すると目を丸くしたユフェルが、すぐに魔力量を調整した。そしてイゼルを抱き上げた。結果、イゼルはニコニコと笑っていた。それを見た瞬間、ユフェルが破顔した。幸せそうである。
「嬉しいな」
ユフェルはそう口にしてから、ハルレさんにイゼルを預けた。
こうして――この夜は、久しぶりに、俺とユフェルは二人でゆっくりと食事をする事になった。マナーをじっくりと気にする余裕があるのは、久しぶりである。
「ハルレさんが来てくれて本当に良かった」
俺が言うと、ユフェルが頷いた。そして葡萄酒を飲みながら俺を見た。
「今夜は、ゆっくり眠ろう。今までの分も。イゼルとは望めばいつでも一緒に眠る事が出来るのだから、まずは今日は体を休めた方が良い」
「うん」
頷いた俺は、食後、ユフェルと共に、久しぶりに二人きりの寝室へと向かった。すると寝台の上で、ユフェルが俺を抱き寄せた。俺はその体温も自然なものに感じて、何だか腕枕をされながら安心してしまった。イゼルを挟んで眠っている日々が続く内に、ユフェルがそこにいるというのも、俺の中の『普通』になっていたらしい。
「なんだかイゼルがいない方が不思議だなぁ」
「俺も同じ気持ちだ。ただ今夜は、ゆっくりとカルネを休ませたい」
ユフェルはそう述べると、俺の目の下を指でなぞった。確かに鏡を見ても、俺の目の下には薄らと赤いクマがあった。俺はユフェルの胸板に額を押し付けて目を閉じた。今度はそんな俺の頭を、ユフェルが優しく撫でた。とてもその優しい指先に安堵してしまい、俺はすぐに寝入った。
翌朝――本日も、ユフェルと二人で食事をした。
「カルネはこれからはどうする予定だ?」
「今日は、イゼルの事、ハルレさんから色々教わりたいと思ってるんだ」
「そうか。では、明日からは?」
「……やっぱり、俺は冒険者として、もっと活動したいんだ」
もう、派手に活躍して、誰かと恋愛をしたいという夢は消えつつある。そうではなくて、きちんと働く事で、イゼルの誇りのお父さんとなれるような、そういう存在になりたいのだ。俺にとっての祖父のような人間になりたい。
それに恋愛に関しては――……そう考えて、俺はチラリとユフェルを見た。
ユフェルは、俺の中で大切な相手になりつつあると思う。
「止めないが、あまり危険な事はしないで欲しい。心配になる」
「平気だよ。無茶はしないし、俺だって自分の力量はわきまえているつもりだしな」
「カルネは思ったよりも腕が立ちすぎるから、君自身がどうであれ周囲が放っておかないだろう」
「そうかな?」
「そうだと思うぞ」
一人頷きながらそう言ったユフェルは、俺を見ると細く吐息しながら微苦笑した。
「もう俺は、カルネがそばにいないなんて考えられないからな」
「ユフェル……」
そんなやりとりをしながら、俺達は食事を終えた。
この日は、ハルレさんから、魔族の赤ちゃんについて色々教わった。ハルレさんは人間の赤ちゃんの事も知っているそうで、どんな違いがあるのかを丁寧に教えてくれた。一番俺が驚いたのは、生後一年間の成長速度である。魔族の子供の方が、一人で座る時期も、ハイハイをする時期も言葉を話す時期も早いのだという。人間の生後二年半くらいまでを、魔族の場合は、半年ほどで一気に成長してしまうらしい。その後の成長速度は、人間とほぼ代わりが無いのだと言う。俺にはそもそも人間の乳幼児の知識もあまりないため、本当にハルレさんが頼りになる存在に思えた。
アーティさんが、俺とハルレさんにお茶を用意してくれた。アーティさんも執事としてなのか、一緒に話を聞いていた。アーティさんは人間である。ハルレさんにもお休みの日が勿論存在する。そう言った日は、俺は俺が世話をするのかと思っていたのだが、アーティさん曰く、自分達使用人が代わるとの事だった。
――俺がイゼルと会うのは、会いたい時にはいつでも、という事だったが、基本的に直接の世話は不要だと暗に言われた。理由は、アーティさんから見ると『それが貴族である』からだそうで、ハルレさんから見ると『それが魔王後継者の幼少時』であるかららしい。ちょっとだけ俺にはそれらの見解が寂しかった。贅沢な悩みなのだろうか?