【七】籠の中の鳥F
午後になり、案内人に連れられて、僕は陰鬱な気分で温室に入った。するとドンドンと音がして、見ると焦ったような顔をしているゼルスがいた。僕も駆け寄る。そしてガラスの壁の前に立った。
「ルカス兄上が来ていったんだろう!? 大丈夫か? 兄上は少々口が過ぎる所があるし、時に人を揶揄して遊ぶ悪癖がある。酷い事を言われなかったか?」
それを聞いて、難しい話の部分は理解出来なかったから、ゼルスに上手く伝えられないし、一番苦しい事を述べようと思った。
「僕……買われるんだって」
「何? 兄上が買うと言ったのか?」
「ううん。僕には運命の番がいて、その人が買いに来るんだって……」
僕が呟くように小声で告げると、ゼルスが息を呑んだ。そして苦笑を吐息に載せた。
「ああ、なるほどな。そういう事か」
「ゼルスとは、もう会えなくなるんだね。僕、首飾りをずっと大切にする」
「どうして?」
「僕は誰かに贈り物をされたのが、ほとんど初めてだから」
「そうじゃない。どうして会えなくなるんだ?」
「買われたら、僕は塔から出て、唯一のαの家に住むんだよ? 会えない」
「――その唯一である運命の番は、ええとな……」
片手でゼルスが口元を覆った。心なしかその頬が朱い。チラリと僕を見ては、視線を逸らすという動作を、ゼルスは何度か繰り返した。そうして僕に向き直った。
「……キルト」
「何?」
「俺は君が好きだ」
「僕もゼルスが好きだよ」
「それは友情だろう?」
「僕には友達がいないから分からない」
好きは、僕にとって、一種類しか今の所無い。誰かを好きだと思ったのは、ゼルスが初めてだからだ。この気持ちが友情なのかと問われても、僕には分からない。
「俺はその、四六時中キルトの事を考えていて、キルトを見ると心拍数――胸がドキドキして、君が笑うと舞い上がり、君が悲しそうな顔をすると焦燥感に駆られる。そう言う好きだ。恋情――愛といえば分かるか?」
それを耳にして、僕は驚いた。
「僕も全く同じだよ。毎日ずっとゼルスの事を考えているし、ゼルスといるとドキドキするし、ゼルスが笑うと嬉しいし、ゼルスが困った顔をしていると悲しくなるよ」
正直に告げると、ゼルスが驚いた顔をした。それから、嬉しそうに唇で弧を描いた。
「いつからだ?」
「話をする内に、気づいたら、そうなってた」
「俺も同じだ。最初は外見に一目惚れし、香りに飲まれたんだけどな」
「僕もゼルスの香りも好きだよ」
「運命の番同士は、特別な香りを嗅ぎ取るという話は、兄上から聞いたか?」
「難しいお話だったから、聞いたかもしれないけど覚えてないよ」
素直に答えると、ゼルスが吹き出した。その表情は、とても優しい。
「俺達は、お互いに香りを感じている。運命の番同士という事だ」
「え……?」
「ただ仮にそうでなかったとしても、俺は君を好きになっていたと思う。愛してる、キルト」
僕はその言葉を聞いた瞬間、嬉しさがこみ上げてきて、思わず唇を噛んで感情の変動に耐えた。ゼルスの言葉が無性に嬉しいのだ。胸に響いてくる。ゼルスの瞳が、声が、香りが、気配が、全てが、僕には特別に思えた。
「君を購入したいと願っているのは、この俺なんだ」
「っ」
「どうしても、キルトが欲しい。俺に買われてくれないか?」
「ゼルスは前に好きな人がいるって……それに子供も沢山望まれてるって……」
「まだ分からないか? 俺が好きなのはキルトだ。キルトがそばにいてくれるならば子を作らなくても良いと思うほどだが、運命の番同士であるから、子は成せる可能性が高い。発情期を促す薬も、秘匿されているが存在する。キルト、何も心配はいらない」
なんと返答すれば良いのか分からなかった。ただ心配はいらないと、力を込めてゼルスが言ったから、僕はそれを信じたいと思った。
「僕は、ゼルスについて行きたい」
ゼルスにならば買われても良い。一人で待つ時の『寂しい』という感覚も知ってしまった僕は、ゼルスが唯一になったら、きっと今もより沢山、話が出来るだろうと想像して、それを願っていた。
帰って行くゼルスに、ついて行けたならば……もっとそばにいられたならば。
それはとても幸せな事に思えた。僕は、ゼルスの邸宅の庭で、花々を見てみたい。
「ついてきてくれ」
「うん。うん。僕は、どうすれば良い? どうしたら、ついて行ける?」
「必ず俺が、ここから連れ出す。キルトの気持ちを確認してから手続きをすべきだと考えていたから、まだ調整中なんだ。ただ、キルトが良いというのなら、話は別だ。一度家族に話に帰宅して必要書類を持ってくるが、すぐにでも君を引き取りたい」
ゼルスは、本当に嬉しそうな表情で笑っている。その顔を見ていたら、僕まで幸せな気持ちになってしまった。立ち上がり、僕はピタリとガラスに触れる。するとガラス越しに、僕の掌に重ねるように、ゼルスもまた手を置いた。
ガラスの壁の無機質な温度、冷たさ、確かにそれらは僕達の間にあるはずなのに、重なった位置にあるゼルスの手を見ていると、心が温かくなった気がした。
「待っていてくれ、キルト。塔の管理者と話をしてくる」
「分かった」
頷き、僕は目を伏せて笑った。ゼルスの言葉が嬉しい。
これまでの間、僕は自分が塔の外に出る姿を考えた事は一度も無かったから、今後がどうなるのか、空想するのも楽しい。水路の青銅色も、僕は見たい。きっと王都には、青銅色が溢れているのだろう。
「手続きの話し合いに行ってくる」
「待ってる。僕は、ゼルスが来てくれるのを、待ってる」
僕が繰り返すと、ゆっくりとゼルスが頷いた。それからゼルスは、踵を返して歩いて行った。僕はその姿を、いつまでも見ていた。
この日、十六回鐘が鳴っても案内人はやって来なかったので、僕は椅子に座っていた。案内人が訪れたのは、午後の五時の鐘が響いて、少ししてからの事だった。僕は二階の部屋へ戻るのだろうと考えながら、立ち上がる。
「良かった」
僕が首から提げている首飾りを一瞥してから、案内人がポツリと言った。
「え?」
「ゼルス様がお相手ならば、何も不安に思う事は無いだろう。部屋で私物をまとめるように。手を貸す」
螺旋階段へと視線を向けた案内人は、そう言うと歩き始めた。慌てて僕は、その背中を見ながら追いかける。
「私物?」
「クマのぬいぐるみを大切にしているように思っていた。他には、好きな本も持って行くと良い。衣類も当面は必要かもしれないから、持参した方が良い。夜の七時には、ゼルス様が正式に迎えにいらっしゃる」
「七時に? 僕は……この塔から出るの?」
階段を上りながら尋ねた。まだ、『そうなったら良いのに』という空想の方が強かった僕は、いざ現実的な話をされると、正直不安と期待が綯い交ぜの心境になってしまった。僕に振り返った案内人は、小さく頷くと、扉の鍵を開ける。
いつもはそこで僕を促すと帰って行くのだが、案内人はそのまま室内に入った。僕も入る。そばで立ち止まっていた案内人は、僕が入ると扉を閉めてくれたが、鍵はかけなかった。リビングのソファの上には、見慣れぬ鞄がいくつか置いてあった。テディ・ベアがその隣に座っている。朝はベッドにいたはずなのだが。
「荷造りを」
「は、はい!」
案内人が手際良くクローゼットを開け、僕の服を手に取りたたみ始めた。僕は室内をキョロキョロと見回し、お気に入りの本を何冊か鞄へと詰める事にした。そうしている内に、十八回鐘が鳴った。あと一時間すると、僕は塔から出る事になるのか。まだ、実感がわかない。
――扉が勢いよく開いたのは、その時の事だった。