鈍い。





「神様、明日のテストで一番になれますように! どうかお願いします!」

 そう言って帰っていく人間の小学生。
 僕はランドセルを背負ったその後姿を、社の陰から眺めていた。

 僕が祀られているこの黒(くろ)波(は)稲荷(いなり)神社には、あんまり人間が来ないけれど、ごくたまにお願いに来る者はいる。だけど僕には、残念ながらその願いを叶えるような力はない。だから内心で応援しておいた。僕は元々は神様の遣いをしていたのだけれど、その神様がある神無月に出かけて以来帰ってこなくなってしまった結果、残された僕が今では祀られている。街はずれのこの小さな神社には、大抵の場合僕が一人――あとは、たまにもう一人。

「七(なな)葉(は)」

 そのもう一人に声をかけられたので、僕は視線を向けた。そこに立っていたのは、修験者姿をして手には錫杖を持っている、鴉天狗の悠羅(ゆうら)だった。長身で肩幅も広く、とても大柄で精悍な顔立ちをしている。

「何?」
「いい酒が手に入ったから、一緒にどうかと思ってな」
「貰おうかな」

 僕は両頬を持ち上げた。神社が麓にある裏手の山には、鴉天狗の里がある。この神社は、鴉天狗の里への入口に当たるともいえる。そのため、神社に棲む僕と、鴉天狗の悠羅は、何かと顔を合わせる事が多い。

 神社の裏手へと回ると、人には見えない妖(あやか)しだけの空間があって、そこに僕が普段寝食をする邸宅がある。僕は狐の尻尾を揺らしながら、中に悠羅を招いた。僕の頭部には、二本の大きな狐耳もある。僕はお稲荷様――と、呼ばれる事が多いが、神(しん)狐(こ)と呼ばれる存在だ。この黒波町に古くから住んでいる。

「座っていて」

 僕は黒い卓の前に悠羅を促してから、台所に向かった。そして簡単に酒の肴を用意して、居間へと戻る。胡坐をかいて座っていた悠羅の前に猪口を置くと、持参した酒樽からとくとくと悠羅が酒を注いでくれた。

「七葉と酒を飲むのも久しぶりだな」
「そうだねぇ」

 頷きながら、僕は猪口を一つ受け取る。

「最近は忙しかったの?」

 僕が尋ねると、柔らかな表情で悠羅が頷いた。悠羅は人間でいうと二十代後半くらいに見える。僕は二十代前半くらいだろうか。悠羅の背中には、黒い立派な鴉の羽がある。

「嫁取りをしろと言われてな」
「嫁取り?」
「ああ。実は里長の代替わりがあるんだ。今の里長が隠居すると言っていてな。それで――……俺に次の里長をと言われたんだが、里長は伴侶がいる者がなると決まっているんだ」
「そうなんだ」

 頷きつつ、僕の胸がツキンと痛んだ。実は長い事僕は、悠羅に恋煩いをしている。

「悠羅は、お嫁さんにしたい人がいるの?」
「――いる。だが、鴉天狗の里に迎えるのは難しいから、人間の制度の通い婚ではダメかと里の議題に出していたんだ」
「遠距離恋愛なの?」
「俺から見れば遠い。本当は、毎日同じ場所で寝起きしたいからな」
「ふぅん」
「それに迎える準備が整わないのに、気持ちを伝えるのも躊躇われる。恋が実っても、制度に邪魔をされたのでは敵わん」
「確かにねぇ」

 僕はゆっくりと酒を飲みながら、胸が更に痛くなってきたから、溜息ごと飲み込むことにした。里長になったら今まで以上に会えなくなるだろうけど、悠羅が結婚してしまったらなおさらだ。この稲荷神社は、元々は『縁結び』のご利益もあるらしいのだが、僕にはそれを叶える力はないし、僕自身にもその恩恵は無さそうだ。

「悠羅の好きな人って、どんな人?」
「鈍い」
「そうなんだ?」
「ああ。俺から見れば、俺達は相思相愛の両想いだと思うのだが、俺の好意に気づいた様子がない」
「それは鈍いね」
「だろう? まるで幼子のようだ。見た目は儚く華奢な美人なんだが」
「人間の女の人?」
「いいや? 全く……これだから鈍いというんだ」
「?」

 僕が首を傾げていると、猪口を置いた悠羅が立ち上がり、僕の隣に座りなおした。

 そして不意に悠羅が僕の唇を、掠め取るように奪った。触れるだけのキスをされて、僕は瞬時に赤面した。真っ赤なままで膝の上に手を置き、僕は目を見開く。すると隣でニッと笑った悠羅が、今度は深く僕の唇を貪った。そして気づくと、ストンと肩を押されて、押し倒されていた。

「んン」

 首筋に吸い付かれて、僕は肩をピクンと揺らす。
 実を言えば、悠羅に押し倒される事はそこまで珍しい事ではない。
 大抵の場合、『飲まないか?』と言われると、こういう事になる。

「ぁ」

 僕の胸の突起を、悠羅が唇で挟み、チロチロと舌先を動かし始めた。それから軽く吸われると、ジンと僕の体が熱を帯びた。

「ぁっ」

 そんな僕の肌を左手で撫でてから、悠羅が僕の陰茎を握りこんだ。そして緩く扱きながら、右手の指を口に含む。

「んっ、ぁァ」

 そして僕の後孔へと挿入した。押し広げられる感覚がして、僕は息を詰める。それから少しすると、かき混ぜるように手を動かされた。

「ぁ、ぁぁ」

 その時指先で感じる箇所を刺激され、僕の背が撓った。悠羅は僕の気持ちの良い場所を、いっぱい知っている。

「挿れるぞ」
「あああああ!」

 指が引き抜かれ、悠羅の長く巨大な陰茎が、僕の中へと挿入された。
 全然違う熱い質量に、僕は思わず手を伸ばして、悠羅にしがみつく。

「あ、ああっ」
「しめるな」
「無理、ぁァ……んぅッ」
「随分と、俺の形になじんだな」
「あ、あ」

 僕は悠羅の事しか知らないから、当然だと思う。ギュッと目を閉じて、僕は喘いだ。繋がっている個所から、全身が蕩けてしまいそうになる。本当に、気持ち良い。

「あ、ハ」

 じっとりと肌が汗ばみ、髪が体に張りついてくる。
 その後グッと深く最奥を貫かれて、僕は放った。ほぼ同時に、中に飛び散る悠羅の白液を感じた。

 ――事後。

 妖しの力で体を綺麗にした僕は、狩衣を着なおして、深々と吐息していた。既に何事もなかったかのように悠羅は酒盛りを再開している。

「ねぇ、悠羅」
「ん?」
「好きな人がいるんなら、もう僕とは寝ない方がいいんじゃないの?」
「……」

 沈黙してから、ぐいと悠羅は猪口を呷った。それから深々と吐息した。

「そもそもの話」
「うん」
「俺が好きでもない相手を抱くと思うのか?」
「え?」
「そう言う事だ」

 悠羅は目を伏せ、更に酒を口に含んだ。

 一方のそれを聞いた僕はと言えば――カッと赤面した自信がある。それって、どういう意味だろうかと、ぐるぐる考え始めてしまう。分かる事はといえば、自分の心拍数が酷く煩いという事くらいだ。

「今日は帰る。里の制度を整えたら、またきちんと言いに来る」
「う、うん……!」

 こうして帰っていく悠羅を、僕は見送った。どうしよう、頬が熱い。
 両手で顔を覆ってみたけれど、熱は暫く引いてくれなかった。




「神様ありがとう! 一番になれたよ!」

 数日後、先日お参りしていった小学生が手を合わせに来た。僕は陰からその様子を伺いつつ、それは本人の努力の賜物だと伝えたかったけれど、迂闊に人間と離すわけにもいかないので、心の中で思うに留めていた。

 そうしながらそわそわと、何度も山の方を振り返ってしまった。

 今日は悠羅、来るかなぁ、と、何度も何度も考えている。意識しすぎて、時間が経つのが凄く遅く感じる。元々悠羅は週に一回くらいしか来なかったのだから、待っていても仕方がないかとも思うのだが、気がそぞろになってしまう。僕がこの神社に祀られてさえいなければ……あるいは、元々祀られていた神様が戻ってさえ来たならば、僕の方から会いに行きたいくらいだ。しかし神域から出るわけにもいかないので、僕はただ待つ事しかできない。

 そうしてそれから四日ほど待った時、ある雨の夜、僕の邸宅の扉が開いた。
 見れば悠羅が立っていた。その表情はいつもと変わらぬ微笑だ。

「制度が整った」
「悠羅……」
「が、やはり寝起きは共にしたいという想いも変わらなくてな。俺は七葉と共にいたい」
「……そ、その、それって僕の事を好きでいてくれるという事でいいんだよね?」
「ああ。だから、俺が里から降りる事にした」
「え?」
「こちらから里の仕事をしに山へと通う。ここに一緒に住まわせてくれないか?」
「僕はいいけど……え、いいけど! 勿論いいけど! そ、それより! もっと言って。本当に僕の事が好き?」
「言わなければ伝わらないというのが奇怪に思える程度には好きだ。俺は態度で示し続けてきたと思うが?」
「嬉しい……」

 僕は思わず悠羅に抱き着いた。すると僕の狐耳の間の髪を、子供をあやすように悠羅が撫でた。片腕では僕の腰を抱き寄せている。

「七葉こそ、俺の事が好きか? たまにはお前こそ聞かせてくれ」
「う、うん。僕は好きだよ、大好き!」

 思わず僕が目を潤ませて述べると、悠羅が優しく頬を持ち上げて頷いた。そして僕の額に口づけると、僕の両肩に手を置き、じっと視線を合わせてきた。

「俺の嫁になってくれるな?」
「うん」
「大切にする」

 暫くの間、僕達はそうして抱き合っていた。
 寝室へと移動したのは、それから少ししての事だった。

「ぁ、ァあ」

 深々と穿たれた僕は、ギュッと両手でシーツを握る。後ろから僕の腰を掴み、悠羅はぐっと深く陰茎を挿入している。いつもより荒々しい動きに翻弄され、僕は体を震わせる。あんまりにも気持ちがよくて、頭が真っ白になっていく。ギュッと目を閉じれば、ポロポロと涙が零れていく。

「んァ」
「好きだ、七葉」
「僕も、僕も好き……っ、ひぁァ! ああ!」

 どんどん悠羅の動きは早くなっていく。その度に肌と肌がぶつかる音が響く。

「ああっ、ぅァ……あン!」

 最奥を貫かれた時、僕は果てた。僕の陰茎から白濁とした液が零れ、布団を濡らしている。しかし悠羅の動きは止まらない。

「あっ、待って、まだ――やぁァ!」
「悪いが今夜は手加減できない。ずっと思う存分お前が欲しかったんだ」
「ああああ!」

 追い打ちをかけるように感じる場所を突き上げられて、僕は完全に理性を飛ばした。



 それから――早二十数年。

 僕と悠羅は伴侶同士になり、悠羅は神社の神域にある僕の家から、里長の仕事をしに山へと行くようになった。僕は当初は、日がな一日神社を見守って過ごしていたのだけれど、数年前から変化が生まれた。なんとこの黒波稲荷神社に、人間の神主さんが来るようになったのである。それはいつか、『テストで一番にして下さい!』と話していた少年だった。

 なんでも大学で神職の資格をとり、各所の公認で、この神社の管理を任されたのだという。本日も彼は、神社に続く階段の木の葉を、箒ではいている。

 僕はその清掃活動を内心で応援しているけれど、残念なことに神主さんには僕の事が見えない。だからそばにいるのに、話をした事は一度も無い。

「精が出るな」

 一方で。

 なんと悠羅の事は、神主さんが視認できる。本日も山から飛んで帰ってきた悠羅が声をかけると、神主さんが笑顔になった。

「おかえりなさい」
「ああ」
「今日もお嫁さんと晩酌ですか?」
「まぁな」

 悠羅はそう言うと、僕の隣に立ち、楽しげに笑った。するとその視線を追いかけてきた神主さんが、僕の方を見た。

「僕にも見えたらいいのですが」
「いいや。七葉の事は、俺だけが見ていればいいんだ」
「鴉天狗は嫉妬深い、と、覚えておきますよ」

 神主さんはそういうと笑った。

 なんだか気恥ずかしくなりつつ、僕は悠羅に腰を抱かれて、その後神域にある邸宅へと向かった。一緒に歩きながら、僕は何度も悠羅の横顔を見た。何年一緒にいても、見惚れてしまう。

「しかしあの神主は面白いな」
「そうだね。今日も参拝に来た人に、『この神社にはお稲荷様と鴉天狗のご夫妻がおわします』なんて言っていたよ」
「それは事実だろう?」
「そ、そうだけど……」

 僕が思わず頬を染めると、悠羅が喉で笑った。

「七葉が元々仕えていた神がまだここに帰る気配はないが、縁結びのご利益は別に途切れていないのかもしれないぞ。俺とお前がこうして夫婦(めおと)になれたのだから」

 そんな話をしながら、僕達は家の中へと入った。
 ちなみに僕は、元々のこの神社の神様にもきちんと報告したのだけど、その時はこういわれた。

『狐は愛に一途だから、自分の信じた道を行けばそれでよし!』

 僕はその言葉を、今も胸に刻んでいる。

 だけど、僕ってそんなに鈍かったのだろうか。ずっと相思相愛だったと知った後から、何度も考えてみたけれど、自分では分からない。ただ一つ分かる事は、僕が悠羅を愛しているという、その事だけだ。だから僕は、これからも悠羅と一緒に、毎日を幸せに生きたい。悠羅の事が大好きだから、僕はこの気持ちを大切にしたいし、この神社に来る、いいや、世界中で恋に迷う存在みんなを、心の中で応援し続けたい。そして、自分ではしっかり伝えていく事に決めている。

「悠羅、愛してる!」



 ―― 終 ――