今年も、夏が。






 夏が来る。今年も、夏が。

 それは二十数年前の世紀末――人類は混迷を極めた。昔から言われていたこととしては、その年は大魔王が襲来する……というような話だったが、実際には異なり、発生した大事件を契機に、人類の文明は大きく衰退する事となった。

 ――それから二十数年後。今年はやたらと『二』が並ぶ、そんな西暦年月日の、とある夏。幸いにして地球は終わらなかったし、ここニホン帝国も平穏だ。その帝都の片隅にある、男が花魁と呼ばれるような遊郭において、俺は男娼をしている。

 俺が働く見世は、茨木(いばらき)屋。和装の男娼が、客の相手をする娼館だ。二十数年前ならコスプレ喫茶とでも呼ばれたのかもしれない。ただ、現在の世界は江戸くらいまで退行していると、俺は見世の教養の授業で習った。

 髪型だけはチョンマゲではなくなった現代。

 ただ帯刀文化は復活しているし、お世辞にも帝都の治安は良いとは言えない。様々な災害や疾病を経て、現代がある。国際情勢も色々らしい。その程度の知識は、二十七年間生きてきて俺も学んだ。

 男娼として二十七歳というのは、年嵩だ。大抵は十八歳から二十二歳が花だと言われている。俺は十六歳から茨木屋で見習いとして過ごし、十八歳と半年で水揚げされてからは、男娼一本で生活しているから、この世界の事はよく知っている。けれど――逆に、他の物事を知らないから、この見世から外に出る勇気が出ない。既に年季は終えているし、借金も返し終えているけれど、俺は相変わらず男娼としてこの見世にいる。

「桔梗(ききよう)様」

 その時、声がかけられたので、俺は扉に振り返った。すると扉を開けた膝を折っている若衆が頭を垂れてから、俺を見た。桔梗というのは、俺の源氏名だ。本名は忘れる事に決めて久しい。

「三(みつ)永(なが)財閥の紫(ゆかり)様がおいでです」

 それを耳にして、俺は顎で頷いた。三永紫は、俺の太客だ。俺の五つ年上の三十二歳で、財閥制度が復活して以後、帝都のこの一帯を牛耳っている。闇社会にも顔がきくらしい。ただし、ちょっとした変態趣味の持ち主だ。

「お通ししてくれ」

 俺が答えると、ホッとした顔をしてから、若衆が下がっていった。俺は黒い漆塗りの卓を見ながら、嘆息する。金箔で蝶が描かれている。果たして今日はどんな難題を持ちかけられるのかと考えてから暫く待つと――部屋の扉が開いた。

「桔梗!」

 裏を返して長い馴染みの客の声に、俺は向き直った。それから正座をして、頭を下げる。スッと目を細くしていた俺だが、顔をあげる時は笑顔を口元で形作る。

「ようこそお越しくださいました、紫様」
「会いたかったぞ、そして、そして、それで、ええと、なんだったかな……」

 入ってきた紫様は、黒い髪を片手で掻く。ボサボサだ。ひょろりとした長身で、肩幅は広いが、俺の方が筋肉があるかもしれない。いかにも若旦那然とした和装姿なのだが、普段は自社の研究所で仕事をしていると聞いた事がある。顔立ちは整っているが、何で俺もこんなのに恋い焦がれてしまったのかなと思うくらいには、紫様はどこか抜けている性格だ。常にふんわりしている。

 そう、俺は三永紫に惚れている。それは息子の拍付けにと言って、俺の水揚げを彼の父親が担当させてからだと思う。人生で初めて体を繋いだ相手。本来男娼なのだから、そのようなことに俺はこだわるべきではないのだろうが……以降、俺は紫様が好きになってしまった。

「とりあえず、喉が渇いた」

 笑顔の紫様を見て、立ち上がり俺は移動した。そして麦茶の用意をする。この見世の前身が、麦湯店だったそうで、この茨木屋では、最初は必ず夏ならば冷たい麦茶、冬ならば温かい麦茶を出すと決まっている。

「どうぞ」
「ああ、有難う」

 朗らかに笑った紫様は、黒い卓の角を挟んで俺の隣に座った。

「思い出した。新作のバイブが完成したんだよ!」

 冷たいグラスを持つと、紫様が明るい声を上げた。俺は生温かい瞳をした自信がある。彼の何が変態かと言えば、その研究・仕事内容もそうなのだが、大人の玩具の開発である点だ。鞄から、半透明の黄緑色に近い玩具を、紫様が取り出した。

「ぜひ君で試したいと思ったんだ」
「俺は試供品のテスターじゃないんですが?」

 にこやかな笑顔で俺は反射的にそう返した。すると、目に見えて紫様がしょんぼりとしてしまった。

「桔梗が気に入ってくれたら、ヒット間違いなしだと判断できるんだけどな……」

 沈んだ声で言われたが、俺は顔を背けて沈黙を貫く。そもそも、俺に玩具趣味はない。俺は単純に、紫様が好きだから、紫様に玩具を使われるといつもより感じてしまう事があるだけで、本当に……ただ、それだけなんだ。そして断言して述べるが、無機質に振動する大人の玩具よりも、俺は紫様の体温が好きでならない。だというのに、商品の実験でなければ、紫様は俺には手を出さない。それが非常に非常に非常に悔しい。

「絶対に気持ち良いから、な? 一回だけ」
「……何か、お酒やお料理はいかがですか?」
「まだ麦茶がある。料理は……そうだな、好きに頼んでくれ」
「じゃあメニュー全部」
「桔梗が食べられるんならどうぞ」
「……お刺身の盛り合わせにします」

 すんなりと答えられて、俺は溜息を押し殺す。このセレブリティめと怒鳴りたくなったが、それはしない。

「前々から思っていたんですけど、俺で実験しなくても、その料理を全部頼める資産でテスターのバイトを募集したらどうですか?」

 俺がぼやくと、紫様が目を丸くした。

「それじゃあ、桔梗を抱く口実が無くなるだろ」
「――え?」
「これでも君を押し倒す理由作りに必死なんだ。言わせるな、分かれ」

 どこかバツが悪そうな顔で、つらつらと紫様がそんな事を言った。それが嬉しすぎて、じわりじわりと俺の胸が温かくなる。

「そ、それって……本当に?」
「何が?」
「俺、俺、逆だと思ってて……俺って、てっきり手ごろがいい実験台なのかなって……」
「は? そんなわけがないだろ。どれだけ俺が君を好きか、桔梗は分かってない」

 真面目な顔でそう言われた瞬間、俺の胸がドクンと高鳴った。

 自然と頬が熱くなってきて、思わずうっとりと、瞳を潤ませて紫様を見てしまう。我ながら情けのない顔をしている自信がある。

 分かっている、所詮は客と男娼のやりとりだ。本気にするべきではない、と。

 でも……こうしてするりするりと甘い言葉を時折紡がれると、俺の心は非常にチョロく簡単に傾いてしまう。俺は、やっぱり紫様が好きだ。

「刺身、頼まないのか?」
「……布団、敷いてあります」
「知ってる」

 喉で笑った紫様は立ち上がると、俺の前に座りなおし、俺の両手を掌で取った。
 そしてじっと俺を見ると、優しく唇の両端を持ち上げる。

「すぐにでも欲しい」

 こうして、俺達は寝室へと移動した。

 雪洞の灯りのみが照らし出す寝室で、俺は布団の上に押し倒された。俺の染めた髪が硬い枕にぶつかる。室内には空調が効いていて、夏の暑さを感じさせない。

「ン」

 降ってきた紫様の唇を、目を伏せて俺は受け止める。柔らかな感触に浸ってから、薄っすらと目を開くと、俺の下唇の上を、紫様が舐めた。だから僅かに唇を開ければ、舌が差し込まれる。それを受け入れると、舌で舌を絡めとられ、追いつめられる。

「っ……ぁ……」

 引き摺りだされた舌を甘く噛まれた時、俺の肩がピクンと跳ねた。俺の頬に大きな骨ばった手で触れていた紫様は、それから、俺の服を乱し始めた。俺の鎖骨を指でなぞり、帯を解いて、右胸を覆うように手をあてがっている。その中指と人差し指の間に、右の乳首を挟まれ、振動させるように動かされた。そうされるだけで、既によく紫様の体温を知っている俺の体は熱くなる。

 実を言えば水揚げ後、この九年と少しの間、俺は紫様以外に抱かれた事が無い。普段は、高嶺の花であるから会話ができるだけでステータスとなるような存在だとして、俺は籠の中に飾られている。そんな俺を抱くのは、紫様だけだ。他の者に求められた事が無いわけではない。でも、俺が断らないのは、紫様だけだ。俺は、紫様だけが好きだ。

 本来茨木屋は、酌をメインにする見世だ。体を売る男娼の籠は、俺のいる場所とは別の位置にある。俺は本来、誰かに体を差し出す必要は無い。でも――俺は紫様の事が好きで好きで仕方がないから、望んで抱かれている。本当は、口実が必要なのは俺の方で、俺は、いつだって誘われるのを待っている。

「ぁ、ァぁ……っン」

 紫様が唇で俺の左の乳頭を嬲りながら、右手で俺の陰茎を覆うように撫でた。夏の熱気が、俺達の体をより熱くさせる。空調が冷たい息を吐いてはいるけれど、互いの体が汗で密着し始める。

 それから少しして、紫様が傍らから香油の瓶を手繰り寄せ、手にタラタラと液を取ると、俺の後孔へと指先を伸ばした。第一関節、第二関節と、紫様の骨ばった指が入ってくる。

「ッ、あ、アあ!」

 グリと前立腺を刺激された時、俺は高い声を上げた。するとその個所ばかりを執拗に紫様が嬲る。涙ぐんだ俺は、紫様の首に両腕をまわす。すると頬に触れるだけのキスをされた。

「ここ、好きだよな?」
「ン――!」
「桔梗の好きな場所は、俺が全部知ってる」
「ぁ、ああ」
「……俺以外が知る事は許せないしな」
「ん、ン――っ、ぁ、ァは……う、うああ! ぁァ! あ、ああ!」

 指が三本に増え、縦横無尽に指先が動き始める。俺は体を震わせる。

 その後もじっくりと解されてから、指を引き抜かれた。そして、俺の菊門へと、紫様が陰茎をあてがった。めり込んできた雁首までの感触に、俺は背を撓らせる。思わずギュッと目を伏せ、涙を零しながら声を上げる。すると荒く吐息してから、紫様が残りの根元までを一気に挿入した。

「あ、あ、あ」

 挿いりきると、紫様が俺の腰を掴み、体を揺さぶり始める。いちいちダイレクトに感じる場所に刺激が響くから、俺はすぐに訳が分からなくなった。

「好きだ、桔梗」
「ああ、あァ! 俺も、俺も紫様が好き!」

 必死でそう答えると、獰猛な眼をしたままで、笑みを浮かべて紫様が頷いた。より一層動きが激しく変わり、香油の水音がぐちゃりぐちゃりと響き始める。肌と肌がぶつかる音がする。硬い紫様の陰茎が俺の最奥を貫いた時、仰け反った俺は、快楽からボロボロと泣いた。体が熔けてしまいそうな、頭がバカになりそうなほど強い快楽が生じる、そんな交わりに、俺は気づくと翻弄され、大きく嬌声を上げながら、射精した。ほぼ同時に、俺の内部に飛び散る紫様の飛沫を感じたのだった。

 ――事後。

「ん……」

 目を覚ますと、散々喘いだ俺の声は掠れていた。片手で目を擦りながら、ぼんやりと隣に寝転んでいる紫様を見る。すると気づいた紫様が近くの盆の上に置いてあった麦茶のグラスを手に取り、俺の前に見せた。

「ほら」

 力の入らない体を起こして、俺は麦茶を受け取る。まだよく冷えていたから、俺が寝ている間に若衆が届けた品なのだろうなと判断した。氷が高い音で啼いている。

「美味しい」
「ああ。茨木屋の麦茶は特別だな」
「そうなの?」
「俺はそう思ってる。なぁ、桔梗。気になるなら、他の麦茶を飲んでみるか?」
「今度持ってきてくれるって事ですか?」
「……」
「俺はこの見世から出られないし」

 ぼんやりしたままで俺が事実を述べると、紫様が不意にくしゃりと俺の髪を撫でてから、苦笑した。

「俺と一緒にこの見世の外に行って、そこで飲もうというお誘いだ」
「だから規則で、俺は外には行けないって――」
「分かりにくかったな。それは俺も思った。俺が悪い、謝る」
「? どういう意味ですか?」
「……俺に身請けされないかという話だ。そうすれば、いつでも一緒に、同じものを飲めるだろ?」

 それを耳にし、俺は一気に目を覚ました。思わず大きく瞼を開ける。分かりにくい、分かりにくすぎる。だが――嬉しくて、俺の頬は融解した。基本的に同性婚が法整備された現在、身請けされる場合は、婚姻が推奨されている。

「麦茶を一緒に飲もうっていうプロポーズって事?」
「そうなる」
「――どうしようかな」
「断ったら、この見世を買収してお前を強制的に連れていく」
「何そのヤンデレ思考」
「そのくらい愛してるって事だ。おい、桔梗。そんなに嬉しそうな顔をしているんだし――涙ぐんでいるんだから、俺は君の表情を読み間違えたりしないし、確信しつつも不安だから問うけれど、俺に身請けされてくれるんだろうな?」

 グラスを置いた俺を、隣から紫様が抱き寄せた。俺はその旨に、額を押し付ける。そして顔を隠しながらも、感極まってこみ上げてくる涙を堪える事に必死になった。

「ダメって言ったら、買収するの?」
「そうだ」
「じゃあ、しょうがないかな」
「――そう言う事ではなく。俺は君の気持ちが欲しいんだ。嫌か?」
「僕の顔を見たら分かるって言ったくせに。嫌なわけないだろ!」

 思わずそう言うと、ホッと紫様が息を吐いた。そして俺の後頭部に手を添え、より強く抱き寄せた。

「一生幸せにするから、俺に身請けされてくれ――言いなおす。俺と結婚してくれ」
「……はい。いつも、紫様と同じ飲み物、飲みます!」
「古の世では、配偶者は味噌汁を作ったらしいぞ」
「俺も作った方がいい? 料理はした事ないけど、紫様が飲みたいなら頑張ろうか?」
「いいや。いい。なんなら、俺がお前に味噌汁を作る」

 この夜は、そんなやり取りをしながら、改めて視線を交わして、二人で笑いあった。

 俺の両頬を両手ではさみ、額を額に押し付けてきた紫様が本当に愛おしい。触れた髪がくすぐったかった事を、俺はきっと一生忘れない。




 その後、俺は紫様に身請けされ、見世の人々に見送られて三永家へと輿入れする事になった。同性婚であるし、子供は男同士であるから望めないが、紫様は三男なのと――一つ上のお兄さん、次男だった青葉(あおば)様とその奥様が幼子を残して事故で亡くなられたとの事で、俺達は、残されたご子息の美樹(みき)くんを養子にする事になった。

 元々義父は、俺の水揚げを斡旋してくれた人物であり、事情もよくご存知だったし、俺達の結婚に反対者は、少なくとも表立ってはおらず、今のところ順風満帆である。

「ふむ」

 俺は、麦茶の白いパックを摘まんだ。俺が結婚して最初に覚えたのは、インスタントの麦茶のパックを水に放り込むという事だった。じわりじわりとお茶の色に、冷蔵庫で冷やしていると水が染まる。今日も今日とてその過程を楽しんでいると、帰宅した紫様が俺を後ろから抱きしめた。

「ただいま、桔梗」
「おかえり、紫様」
「様はやめろ」
「なんで?」
「俺達は対等だっていつも言ってるだろ」

 何処か不服そうな紫様の顔を見ると、不意打ちでキスをされた。まったく、照れてしまう。

「美樹は?」
「今日はお義父様のところにお泊りだって」

 紫様のお兄様である長男の茜様のご子息と、美樹くんは親しい。なんでも今夜は、百物語をすると話していた。俺は怖い話は苦手だから、笑顔で見送るにとどめた。

「じゃ、今夜は二人っきりだな」
「うん」
「今日開発した、新しい鞭なんだけどな」
「待って。繰り返すけど、俺にアブノーマル趣味はないし、もう、俺を抱くのに口実は不要だよな?」

 引きつった顔で俺が笑うと、紫様が吹き出した。

「冗談だ。でも、桔梗を抱きたいのはいつだって本音だ」

 その後再びキスをしてから、俺達はリビングへと移動した。そして互いに見つめ合う。

「麦茶、取ってくるよ。新しいのは作ったばかりだけど、前のがまだある」
「無くなってから作ればいいのに」
「それじゃあ、紫様が返ってきた時に、いつもきちんとお出しできないだろ?」
「――麦茶より、俺は桔梗が欲しいんだよ」

 その言葉が嬉しくないわけではない。だが、麦茶を出すのは、俺のある種のライフワークだ。こうして俺は、一度立ち上がり、二つのグラスに麦茶を注いで、リビングへと戻ってきた。すると受け取った紫様が、そっと俺の頬に触れた。

「俺の事を思ってくれる桔梗の事が愛おしい」
「言ってろ」
「何度でも言う」
「や、やっぱり言わなくて良いです。う、うん」
「照れるのが本当に可愛くて好きだ」

 そんなやりとりをし、二人で麦茶を飲んでから、俺達は寝室へと移動した。プロポーズされてから丁度一年、また夏が訪れている。蝉時雨が遠くから聞こえてくる中、空調の吐き出す冷気の下、俺達は服を脱がせあった。

「上に乗ってくれ」
「ぁ……」

 本日は、俺は下から挿入されている。正面から紫様に抱きつきつつ、ゆっくりと腰を下ろしていく。根元まで深々と挿入された時、思わず俺は息を詰めた。俺の体は紫様に開発されてきた人生だったと思うけれど、結婚後、より様々な事を思い知らされた。

「あ、ああぁ……んン……あ、っ」

 結腸を押し上げるかのように、グッと深く貫かれる。足のつま先を丸めた俺は、快楽から涙ぐむ。長く太く硬い紫様の陰茎が、俺の内部を責め立てている。

「あ、あ、ああ! あン――っ、ふ、ァ」
「絡みついてくるな」
「言うな、あ、あァ」

 あんまりにも気持ち良くて、俺はポロポロと泣いた。すると俺の頬をペロリと舐めてから、紫様が激しく動き始めた。俺の感じる場所を熟知している紫様は、俺の快楽を呷ってやまない。時折俺の耳の後ろを指先でなぞる。そうされると俺の体がゾクゾクとする。俺は陰茎を紫様の腹部にこすりつけながら果てた。するとほぼ同時に、紫様も俺の内部に放った。俺達の荒い吐息が、室内にこだましている。

 ぐったりとした俺が、体を前方にある紫様の肩に預けると、両腕で紫様が俺を抱きしめた。まだ繋がったままだ。結合箇所からは、白濁とした液が零れていくのが分かる。後頭部を優しくなでられた時、俺はまだ涙がにじむ瞳を、紫様へと向けた。そこには優しい笑顔がある。

「愛してる、桔梗」
「俺も……――これからも、ずっと一緒に、隣で色々な麦茶が飲みたいです」
「逆プロポーズの言葉と受け取っておく」

 喉で笑ってから、紫様が俺から陰茎を引き抜いた。
 それから俺の体を寝台に横たえると、隣に寝転んで、じっと紫様が俺を見た。

「喉、乾いたか?」
「うん」
「取ってくる。待っていてくれ」

 そうして紫様は起き上がると、麦茶を取りに行ってくれた。戻ってきた紫様から、麦茶の入ったグラスを受け取り、俺はごくごくと飲み込んで喉を癒した。生き返るというのは、こういう事だと思う。

 紫様は再びベッドに上がってきて、俺の隣に寝転ぶと、両手で頬杖をつき俺を見ていた。

「来年も、再来年も、毎年夏は、お前に麦茶を運ぶ役を頑張るぞ」
「俺の体力が持ちません」
「筋トレだな」
「俺、絶対紫様より筋肉あると思ぬだけどな」
「だから『様』は、やめろ。それに――いいや、それはない。君は俺を過小評価しがちだ」
「そんな事ないですよ?」
「そうか?」

 クスクスと紫様が笑っている。こんなひと時が、無性に幸せでならない。
 ――なお、紫様は、有言実行の人だった。

 翌年も、その翌年も、俺達は同じ寝室で眠り、夏には冷たい麦茶を運んでもらった。作って冷蔵庫に入れておいたのは俺だけどな。そして冬には、温かい麦茶をくれた事もある。紫様はいつも俺を抱きしめてくれた。それは美樹くんが幼稚園を卒業し、小学生になっても、中学生になっても変わらなかったし、それだけ俺達の生活も長く続いていく。終わりが来る日が見えない。そんな、本当に幸せな日々の連続だ。

 ただやっぱり変態なのは間違いがなくて、気を抜くと、俺を縛ろうとしたり、大人の玩具を使おうとしたりするから、俺はそんな時はきちんと抗議をして見せた。すると取りやめてくれる懐の広さは、紫様の持ち味だと思う。俺はそう言う部分も含めて、紫様が大好きだ。

 けれど――色々な麦茶を一緒に飲もうというプロポーズは分かりにくすぎるから、止めた方がいいと、俺は全人類にお勧めしておく。ただ、麦茶は照れ隠しにはもってこいの一品だとも付け加えておく。

 そんな俺の幸せな日常と結婚、世界の片隅において、続いていく毎日。
 俺は紫様が大好きで、今がある幸運に感謝している。
 あるいはそれは、麦茶のおかげかもしれない。

 茨木屋のお刺身は美味しいけれど、そして退行した現代の江戸文化がもたらした麦湯屋の文化も素晴らしいとは思うけれど――ポイっと水に入れて麦茶が完成する文明の残滓も俺は大好きだ。というか、これは口んだして告げた事もないが、紫様がらみは全部大好きだ、と、思っている。

 そしてまた、夏が来る。今年も、夏が。

 どこかで誰かがまた、麦茶を楽しむ季節だろう。そこから広がるかもしれない幸福があることを、俺は力説する。そう思いながら、俺は双眸を伏せ、この日も麦茶作りにいそしんだのだった。



 ―― 了 ――