摩天楼の殺し屋





 日本という国は、変わってしまった。地球の地軸が、ある日僅かにずれた結果、世界には異常気象と大災害が巻き起こり、二十一世紀も終わりに近づきつつある現在では、日本全土は、亜細亜最大のスラム街となった。

 旧東京都には、摩天楼が広がっている。
 それ以外の土地では、ジャスミンの栽培が盛んだ。

 日本スラムといえば、ジャスミン――それが、世界共通の認識となっている。そこは、男女を問わず花、人々が性を、体を売る場所だ。無法地帯と化した日本スラムには、既に法はなく、現地を支配するマフィアが決めた、暗黙のルールで全ては成り立っている。

 ジャスミンの栽培、それは単純に花の栽培を意味するだけではなく、娼婦や男娼を育てることも意味し、年頃になると日本全国に目をこらしている女衒達が、男や子供も買っていく。人身売買を止める者は、今となってはどこにもいない。

 小椋奏歌もまた、売られてきた青年だ。

 男手は体が丈夫であれば田舎に残されることもあるが、奏歌は小柄な美少年であり、人買いにとっては上玉の商品だった。旧東北地方には、古より茶目と呼ばれる明るい髪を持つ者は、僅かに青味がかかった瞳の持ち主が生まれるのだが、色白の奏歌もそうした色彩の持ち主だった。眼は形の良いアーモンド型で、睫毛が長い。

 奏歌を買ったのは、東京マフィア・黒色が直轄する男娼店だった。

 欧州のマフィアの関連組織で、特に仏語の影響を受けている名称が多く、店の名前も仏語で、情交という意味だった。皆、セクシャルとカタカナで呼んでいたが。

 身元は問わないが、金払いのいい客のみを受け付ける男娼店で、奏歌は思春期から性戯の指導を受け、十五歳で水揚げされた。この店では、ジャスミンの柄の女物の着物や打ち掛けを纏い、帯は客が解きやすいように前で締めることに決まっていた。さながら、江戸という時代の吉原の花魁を彷彿とさせる服だが、女装を推奨しているわけではない。また年季明けという概念もなく、売られたら、客に買い取られる以外では、生涯その鳥籠の中にいるのが決まりだった。

 現在――奏歌は、二十三歳になった。

 男娼店では、二番人気で、誕生日などの記念日には、ランキングで一位になることもある。店が許す範囲で、店外での食事や同伴、アフターなどが許されているのは、平成という時代の夜の店の名残なのかもしれない。

 そんな奏歌の元には、決まって毎月十日に、買いに来る太客がいた。
 ドル箱という認識で、多額のチップも払ってくれる。

 だが、身元も顔も分からない。何故ならば、その人物は、いつも目深にローブのフードを被っているからだ。バックからしか奏歌を抱かず、行為の際もベルトとボトムスしか下ろさない様子のその客は、名前すらも教えてくれない。一度奏歌が問いかけたところ、『好きに呼べばいい』と、実に素っ気ない声が返ってきた。ただ、耳触りのよい、低い声音だけは、奏歌は気に入ったものである。長身で、どちらかと言えば細身のように感じてはいる。奏歌は彼の言葉に、『じゃあソルティにしよう』と提案した。あんまりにも相手の対応が塩対応だったから、塩だ。

 ソルティが訪れるのは、十日の零時ぴったりだ。

 本日も予約が入っていると聞いていたから、この日ばかりは同伴や他の客は断り、奏歌は、店であてがわれている上質な洋間で、ソルティの来訪を待っていた。部屋にはテーブルやソファーと行った応接セットの他、銀の燭台といけられた花、他には大きなダブルベッドがある。しかしソルティが、ソファで休むことはめったにないし、簡易な冷蔵庫から酒を取りだした姿も見た事がない。

「どんな顔、してるんだろうなぁ」

 ぽつりと奏歌は呟いた。

 秒針の音が妙に気になる。壁に掛けられたレトロな柱時計を眺めていると、零時丁度になり、ノックの音も泣く扉が開いた。振り返って、奏歌は微笑する。頬を持ち上げて、唇では弧を描く。入ってきたのは、ソルティだった。

「お待ちしておりましたよっ」

 明るい声で、元気よく。

 そのように告げたのは、奏歌の元々の性格である。最低限の接待はするけれど、奏歌はほとんど性格を偽ると言うことはしない。その円満な快活さも、人気の理由だろう。

「……」

 何も答えずにソルティは、まっすぐにベッドへと向かう。

 ソファから立ち上がり、奏歌もまたベッドの横へと向かった。そして自分で帯を解く。あまりソルティが脱がせようとすることはない。既に己の指と玩具で、後孔に受け入れる準備も万端にしてある。顔を見せないソルティとはキスの一つもしたことはないが、既に何度も交わっている。ソルティが来るようになったのは三年前、奏歌が二十歳(はたち)の頃からだ。

 ベッドに上がった奏歌が、バックの姿勢を取る。足を折り曲げ、臀部を突き出すようにする。するとソルティが、指を二本、一気に奏歌の中へと差し入れた。そしてかき混ぜるように動かされると、ぐちゅりと残っていたローションが音を立てる。卑猥な水音だけが、銀の燭台の明かりしかない室内に響く。

 いつも同様、すぐに挿入可能だと判断したのか、ソルティがベルトを外す音がした。
 それをシーツを見据えたままで、奏歌は確認する。

 直後、ソルティの熱く硬い肉茎が、ぐっと奏歌の中へと挿いってきた。自分の肢体を見るだけで勃つらしい彼とは、体の相性は悪くないと考えている。雁首までが挿いりきり、その後一気に貫かれる。トロトロの奏歌の内側は脈動し、より奥深くへと求めるように、ソルティの陰茎を締め上げる。

「ぁ、あ……ああっ、ッ……」

 甘い声を零した奏歌は、ギュッと目を閉じる。演技ではない。

 客の誰と寝るよりも、奏歌はソルティの熱く硬い質量が好きだった。顔は知らないが、緩急をつけてじっくりと抽挿されると、体が蕩けていく感覚になる。彼の体のことは、知っているつもりだった。

「んン」

 内壁を擦りあげるように動かれて、それから前立腺を刺激される。鼻を抜ける声には、次第に切なさが混じり始める。徐々に奏歌の体は汗ばんでいき、荒く吐息する度に、嬌声が入り込む。

「んぁァ……あ、あ、ン――!」

 次第にソルティの動きが激しくなる。腰を揺さぶるように動かされた後、より深く、ぐっと最奥を穿たれる。

「ああ! アぁ!」

 結腸を押し上げられた瞬間、全身に快楽がこみ上げてきて、それが手足の指の先まで広がっていく。

「ン――!」

 一際強く突き上げられ、奏歌はドライオルガズムの波に飲み込まれた。眦からは生理的な涙が滲む。上気した頬は朱くなり、震えながら奏歌は快楽の余韻に浸った。その様子を窺うようにしていたソルティは、奏歌の呼吸が落ち着いたのを見計らい、抽挿を再開する。

 奏歌から見て、ソルティは持続力のある絶倫だ。

 いつも奏歌の方は数度果てさせられるが、ソルティは長々と奏歌を貪るけれど、一度出せば帰って行く。だがそれまでが長く、いつも夜が白むまで、四・五時間は体を暴かれる。その夜が、奏歌は好きだった。

 今宵も奏歌は散々抱き潰された。そして意識を手放すように眠り込んでしまったのだが、目を覚ませば既にソルティの姿はなく、テーブルの上にはチップの札束が置いてあった。



 ――翌日は、食事と同伴の約束があった。

 肥えた中年の男は、己がスラムにあって、貿易会社の社長をしているという自慢を度々繰り返す。頷いて聞いていれば、チップをはずんでくれる。悪い客ではないが、あまり大衆が好きになれないその男と、この日奏歌はフレンチを食べた。同伴する場合は、ノワールの息がかかった店でと決まっている。仔羊のステーキは美味で、柔らかく、口の中で蕩けるようだった。軽く飲んだ赤ワインの味は、一流品であるが、奏歌には少し渋く感じられた。店を出たのは、夜の九時半を回ったところで、あとはセクシャルまで向かうだけ。そう考えながら二人で歩き、近道である裏路地を通過することにした。

 二人で腕を組んで歩いて数分。角を曲がった時のことである。
 ドサリと何かが倒れる音がした。
 なんだろうかと手を離して、覗き込むように壁の方を見た奏歌は、少し屈んだ。
 その瞬間、頭の上を何かが通過した。

「え?」

 狼狽えた時、自分の真横にいた男が地に倒れた。また、正面の壁に倒れかかっている男も、喉を掻き切られて死んでいる。恐る恐る横を見れば、肥えた男の下には血だまりが広がっていく。息をのんで凍り付いてから、ゆっくりと顔を上げようとした時、右の壁の方に、肩を押されて第三者に突き飛ばされた。ハッとして見れば、そこには――……。

「ソルティ……?」

 見慣れた服装で、体格も同じ青年の姿があった。

「っ」

 すると相手も気づいたようだった。

「……奏歌」

 名前を呟かれ、やはり本人だと確信する。それから改めて、息絶えている二人を交互に確認してから、奏歌は青褪めたままで、呟いた。

「殺したの……?」
「……俺は、殺し屋だからな」
「!」
「見られた者のことは、全て殺す。今、たまたまお前が屈んだから、まだ奏歌は生きている。それだけだ」
「……じゃあ、僕のことも殺すしかないんだね」
「ああ」

 ソルティは淡々とした感情の窺えない声で頷くと、奏歌の左肩を壁に押しつけたまま、右手でナイフを構えた。その刃には、まだ血が付着している。

「どうせ死ぬなら……最後に、ソルティの顔が見たい」
「何故?」
「ずっと気になってたから。それで、もっと贅沢を言うなら、優しく甘くキスされてみたかったなぁ。いつも塩対応でそっけないんだもん。あとは、故郷で育てていた、花の方のジャスミン、いっぱい見たかったなぁ。うーん、こういう最後は考えてなかったよ」

 苦笑して奏歌は呟くように述べた。スラムにおいて、殺人などよくあることだし、殺し屋というのも公然とした存在だ。目撃者が殺害されるのも仕方がない。それがこの世界だ。だから諦観混じりに希望を語ったのだが、ナイフを構えていたソルティが動きを止めた。

 そしてバサリとフードを取った。

 そこに現れたのは、端正な顔立ちの、二十代後半くらいの青年の姿だった。切れ長の眼をしており、瞳の色は、空に広がる夜と同じ色に見える。髪の色も漆黒で、少しだけ長めだ。思わず見惚れていると、左手で顎を掴まれる。優しく持ち上げられたに等しい。

「っ、ぁ……」

 それからすぐに、荒々しく唇を塞がれた。驚いてうっすらと唇を開けた奏歌の口腔に、熱く湿った舌が入り込んでくる。そのまま舌を追い詰められ、絡め取られ、深々とキスをされた。甘く舌を噛まれると、ツキンと体の芯が疼き、その長い口づけが終わる頃には、腰から力が抜けてしまい、立っていられなくなって、奏歌が倒れそうになると、ソルティが抱き留めた。そして、奏歌の耳の後ろを指で優しく撫でると、少し掠れた声で囁いた。

「命乞いに、そのような望みを聞いたのは初めてだ」
「……っ、は……そういうつもりじゃなかったんだけど……嬉しい。一つ希望が叶った」
「――俺と共に来るか?」
「え?」
「俺の仕事を口外しないことが条件だ。ただ、お前のもう一つの願いも、叶えてやれなくはない」
「そ、それって……」
「見たいんだろ? ジャスミンが」
「う、うん」
「ならば、今から店で身請けしてやる。そのまま――その後は俺の家にいろ。外には俺の許可なく出してはやらないが」

 ソルティはそう述べると、しっかりと奏歌を立たせた。そして軽く振って血を落としてからナイフをしまうと、奏歌の手首を握って歩き始めた。

 その足でセクシャルへと向かい、奏歌が呆然とする前で、支配人にソルティが電子通貨で金を払った。気の遠くなるような金額だったが、その場で決済は完了し、店の者は満面の笑みに変わった。持ち物をまとめる時間は許されず、奏歌は余計なことは喋らないようにと言われた状態で、ソルティに再び手を引かれて店を出た。

 到着した先は、摩天楼と呼ばれる富裕層が住むマンション群の一角で、その中の一つの最上階に、ソルティはエレベーターで奏歌を連れて行った。ワンフロアが、ソルティの家らしい。広いリビングの奥と右手は窓になっていて、不夜城と呼ばれるスラムの夜景がよく見えた。ソルティは、そこから通じる一室の扉を開けて、奏歌を促す。

「今日からここで暮らせ」
「う、うん……その……そうしたら、さ」
「なんだ?」
「ジャスミンをいつか見せてくれるとして……もっと甘くて優しいキスをたくさんしてくれるってこと?」
「そうされたいのか?」
「まぁね」
「……俺に対して、そんな希望を述べたのは、本当にお前が初めてだ」

 ソルティの黒い瞳には、どこか呆れたような色が浮かんでいる。

「ねぇ? どうして僕を買ってくれたの? 目撃者を監禁しておくため?」
「……」
「もしかして、毎月会いに来てくれたし、僕のこと――ちょっとは気になってた?」

 笑顔の奏歌には、期待があった。ニコニコと問いかけると、片側の眼だけを細くしてから、ソルティが顔を背ける。

「俺が抱いているのは、お前だけだ。お前を殺すことには、正直ためらいがあった。これが答えだ」
「それって、僕のことを好きってこと?」
「……言わないと分からないのか?」
「分かるけど、言われたいよ」

 セミダブルのベッドに腰掛けながら、奏歌は笑った。するとローブを脱ぎ捨てたソルティが、はぁっと嘆息してから歩み寄る。そして初めて顔を出したまま、正常位の体勢で、奏歌を押し倒した。強引に服を脱がされるのも、初めての体験である。着物姿でないのも初めてだった。するすると服を開けられた奏歌は、笑みを深めて、自分の手ではソルティの服を脱がせにかかる。お互いに脱がせ合ってから、二人は何度も唇を重ねた。

「ぁァ……」

 ソルティが、奏歌の右胸の突起を唇で挟む。そしてチロチロと舌先を動かした。
 もう一方の手では左胸を愛でる。このように彼に愛撫をされるのは、初めての経験だ。
 少し吸われ、指では弾かれ、そうする内に、奏歌の胸の突起は朱く尖る。

「んぅ……」

 切なさが体にこみ上げてきて、焦がれるように体が熱く変わる。

 それからソルティは左手で奏歌の陰茎を握り込み、少し扱いてから口淫を始めた。ねっとりと筋を舐め上げてから、唇に力を込めて雁首を刺激する。時には鈴口を舐められた。先走りの液がすぐに零れ始める。

「あ、あぁ……ッ、っ……」

 昂められた体へと、ソルティに唾液で濡らした指を二本挿入される。そしてゆっくりと丁寧に解される。次第に快感に素直な奏歌の体は、さらに熱を帯びていった。

「ああ――っ!」

 ソルティに挿入される。

 その動きは、いつもよりも荒々しい。太ももを持ち上げられて、激しく打ち付けられる内、すぐに奏歌は理性を飛ばした。様々な角度から何度も貫かれる内、大きく喘いでしまう。やはり体の相性は最高で、だがそれよりも、こうして顔を見ながらの行為だと、獰猛で情欲の宿るソルティの瞳に射貫かれるようになり、それがいつもより官能を煽るものだから、ゾクゾクしながら奏歌は性交渉に浸った。この夜も、意識を飛ばすまで、散々奏歌は暴かれた。何度も何度も中に放たれ、翌朝目を覚ました時には、白液がこぼれ落ちてくるほどだった。



 こうしてソルティとの暮らしが始まった。

 宅配便が届いたのは、それから三日後のことである。ソルティと二人でリビングに居るときだった。首を傾げていると、ソルティが受け取りに出る。入ってきた業者が、部屋中に、所狭しと花を並べていく。それは、ジャスミンの花だった。

 驚いて目を丸くしていた奏歌は、業者が帰ってから思わずソルティに抱きついた。

「ジャスミンだ」
「ああ。いつか、畑も見に連れて行ってやる」
「うん、うん。ありがとう。でも、十分嬉しいよ。二つ目のお願いも叶った」

 花の香りがむせかえる室内で、奏歌はソルティを見上げて目を潤ませる。
 するとその頬に触れて、ソルティが優しく口づけを落とした。

 柔らかなその感触に、奏歌の心が満ちていく。次第に奏歌は、ソルティの優しさに惹かれていく。これが、二人の恋の契機となる。奏歌は、すぐにソルティに陥落した。

 その後、ソルティが奏歌を手にかけることはなく、春を売るという意味でのジャスミンという存在から脱却した奏歌は、ソルティの腕の中だけで咲き誇る。そんな恋物語が、スラムの片隅で静かに続いていった。



  ―― 了 ――