【12】火朽桔音という現象
契機は、先週のゼミの前の事だった。
二限の講義後、夏瑪教授に呼び止められて、昼食の時間に、火朽は教授室へと促された。
「時に、火朽くん」
珈琲を頂いていると、夏瑪教授が火朽に切り出した。
「玲瓏院くんとは、上手くやっているのかね?」
楽しそうな瞳をした、吸血鬼の教授を見て、火朽は左目だけを細めた。
正直な話、無視され続けているままであり、何一つ上手くは行っていない。
既に、玲瓏院紬が火朽を避けて――いいや、嫌っている事は、学科の人々までよく知っている。当然夏瑪教授も話は聞いていたし、火朽もすぐに知っているのだろうなと悟った。
「いいえ」
「何かあったのかね?」
「全く何も。僕が何か彼にとって不愉快な事をした記憶さえありません」
火朽は思い返してみるが、本当に何一つ心当たりが無かった。
特に一度、講義後に食事へと誘い、腕を乱暴に、叩くようにして振り払われてからは、声すらかけていない。火朽側も避ける姿勢に転じたのは、あの日だ。
気を遣って、見ていた時岡という学生が、紬に事情を聞きに行ってくれたのだが、結果として、『生理的に無理』という言葉が帰ってきたのを、後方の席で待機していた火朽も直接耳にした覚えがある。
「ふむ。決して玲瓏院くんは悪い学生ではないのだがねぇ。不思議だ」
「別に関わらずに過ごせば、害はありません」
平坦な声で火朽は告げた。珍しくそこには、微笑がない。
「とはいえ、君達は二人共、現在では私のゼミの大切な学生であるし、指導教授としては、この状態は見過ごす事が出来ない。今後を考えてもねぇ、折角だから火朽くんには、人間としての大学生活を大いに謳歌してもらいたい」
しかし夏瑪教授側は、いつもと同様、余裕たっぷりの笑顔だ。
「そうそう――本日を一区切りとして、今後、ゼミでの発表形態を変えようと考えていてね」
カップを傾けながら、夏瑪教授は、唇の片端を持ち上げた。
「複数での発表とする。班分けは私がするんだがね、今、火朽くん。君と玲瓏院くんの共同発表の場を設けようと検討中なんだよ。これをきっかけに、二人がもう少し友好的な関係を築いてくれる事を、担当する者として、願っているよ」
このようにして、火朽と紬の班が決定したのである。
だが班分け発表があったその日のゼミでも、玲瓏院紬に無視をされたため、火朽は気が重かった。
翌週の打ち合わせの時間までの間、しかしながらここ数日のように距離を取っているだけというわけにもいかず、何度か玲瓏院紬という人間を観察する作業を再開した。しかし、ほとんど視線すら合わない。
そんな状態で迎えた打ち合わせ日――本日、火朽は、昼食を取らずに、早々に小会議室へと向かった。元々、食事は娯楽であるから、不要だ。だがそれが理由ではなく、今日こそは会話を成立させなければならないという気持ちから、心の準備をする時間を欲したのである。
予定時刻の三十分以上前に部屋と入り、まず火朽は窓を開けた。
初夏の清々しい空気を取り入れたのは、室内が暑かったからである。
火朽は夏が好きだが、人間という生き物は暑さだけでも苛立つらしいという知識があった。
ならば、せめて相手が不快に、外的要因からならないように、事前に配慮しておこうという意識から、窓を開けたのである。
その後、左側の椅子に座した。扉は左側についているから、右側の椅子の方が、入口からは遠い。人間のよく分からない作法として、奥の席に座る方が目上らしいという知識が、火朽にはあった。相手を立てるためには、自分が左側に座った方が良いだろうと考える。
また、人間は、正面から向き合うよりも、少し斜めの状態で座った方が良いという知識も持っていたので、左側の椅子の角度を少し変え、より最適な状態で話し合えるように準備をした。
「我ながら、完璧ですね。まさか、来ないという事はないでしょうけど……これで、上手く話し合いが出来ると良いのですが」
火朽がそう呟いてから約十分後、紬が部屋へと入ってきた。
「こんにちは、玲瓏院くん」
努めてにこやかに、火朽は声をかけた。しかし、返答はない。
見守っていると、窓を一瞥してから、無言で紬が右側の椅子へと向かった。
それからチャイムが鳴るまでの間、火朽は荷物を置いている紬を眺めていた。
「それでは、そろそろ打ち合わせをしますか」
開始時刻になったので、笑顔で火朽は聞いた。無論、作り笑いである。
しかし紬側には、愛想笑いをする素振りすらない。
何も答えないまま、それでも紬は火朽の座る方を見た。
「まずは、テーマを決めましょう」
反応があったと判断し、火朽は穏やかな声でそう続けた。
すると、紬が深々と溜息をついた。
「……」
だが何も言わない。もしかして、己が主導権を握って仕切っているのが気に食わないのだろうかと火朽は考えたが、かと言って何も言わない紬に任せるという選択肢はない。
「玲瓏院くん、僕を嫌いなのは分かりましたが、これは大切なゼミの課題です。きちんと話して頂けませんか?」
そのためきっぱりと火朽が言うと、紬が扉の方を見た。
まるで、帰りたそうに見えて、火朽は頭痛がした。
その後も、あれやこれやと、火朽は提案をした。しかし紬は、一言も喋らない。
それほど気が強そうな容姿には見えないが、紬は頑固らしいと火朽は判断した。
ならばと、時に空気をほぐすために、雑談を取り入れてみるが、それにも紬は無反応だった。
「玲瓏院くんは、どう思います?」
「……」
「あ、そういえば、先日の発表の中で――」
「……」
「――所で、玲瓏院くんには、何か良いテーマの案は?」
一人、笑顔で火朽は話し続けた。
紬はといえば、淡々とした表情のまま、無言で時折腕時計を見るだけだ。
こうして、あっさりと予定の一時間半は終了した。
しかし紬が席を立つ気配はない。
どうしたものかと、次第に口数を減らしながら、火朽は紬を見ていた。
すると、丁度三十分が経過した時、深々と溜息をついて、紬が立ち上がった。
そして、無言のまま出て行ったのである。
残された火朽は、扉を見据えたまま、表情から笑みを消し、押し黙った。
――そうして、玲瓏院紬が教授室を出るまでの間、火朽はそこに座っていたのだが、そろそろ帰ろうと考えた。火朽の持つスマートフォンが音を立てたのは、その時の事である。
「え?」
そこに来ていた夏瑪教授からのメッセージを見て、思わず火朽は立ち上がった。
『玲瓏院くんが、君にすっぽかされたとして私の部屋に来たんだが、火朽くんには何か予定があったのかね? 体調不良や事故ではないことを祈っているよ』
慌てて火朽は、夏瑪教授の教授室へと向かった。
しかし部屋の扉を開けた時には、既にそこには、紬の姿は無かった。
帰宅した火朽は、表情こそ普段通りの微笑を保ちつつも、非常に苛立ちながら、冷蔵庫の前に立った。彼を苛立たせているのは、玲瓏院紬である。
怒りをぶつけるようい、ナスを乱雑に切りながら、火朽は目を細めていた。
こうして完成した麻婆茄子は、いつもよりナスの形が適当であった。
火朽が食卓にそれを運ぶと、上機嫌のローラと、それを見ている砂鳥がいた。
他には、豚しゃぶのサラダと、ひじきを作った。グラタンもある。
無秩序だが、火朽は気にしない。火朽以外も気にしない。
いつも火朽の作る料理には、統一性が無いからだ。
席に着きながら、ニヤニヤと楽しそうなローラの顔を見て、ついに火朽は視線を落とした。
ローラは何やらこの生活を楽しんでいるらしい。実に羨ましい。
そう思えば、自分自身の現状が、憂鬱になってきて、火朽は遠い目をした。
「火朽さん?」
すると砂鳥が、首を傾げながら、火朽を見た。
それに気づいて、火朽が顔を上げる。
「おかわりですか?」
料理担当の火朽は、まずそう聞いた。だが、砂鳥が小さく首を振る。
「あ、いえ。あの、なんだか暗いですけど、何かありました?」
どこか心配そうな砂鳥を見た瞬間、火朽はもう我慢できなくなった。
それまで誰かに愚痴った事は一度も無かったのだが、気が付くと唇が動いていた。
「……聞いて下さい。ほら、初日に、僕を無視ししてる人がいるって話をしたでしょう?」
「覚えてます」
火朽の言葉に、砂鳥が、大きく頷いた。
「有難うございます。その人がですね……今も僕を無視してまして」
砂鳥の様子に微苦笑してから、火朽は続けた。すると、砂鳥が眉根を下げた。
「辛いですね……」
しかし、火朽は思わず首を振った。
「いや、別に。頭にきますしイラッとはしますが、無視ごときで傷つくような繊細な心を、残念ながら僕は身につけていないので、そこは良いんです」
正直腹は立つが、火朽は無視されてショックを受けるような、細い神経を持ってはいなかった。苛立ちは止まらないが、それは悲しみではなく、怒りだ。しかしそこが愚痴を言いたい一番の部分ではない。
「ただ、ちょっと問題がありまして……」
「問題?」
火朽の声に、砂鳥が聞き返した。
「ええ。見かねた夏瑪先生が、僕と彼を同じ班として、共同発表を企画して……下さったのは、分かるんです。有難い配慮ですが、余計なお世話で――というのは兎も角、それで、今日の午後に打ち合わせをする事になっていたんです」
思い出しながら、火朽は言う。砂鳥は、頷きながら耳を傾けている。
「僕は時間通りに行き、彼も時間通りに来たんですが……僕が話しかけても全部無視で、一度も視線も合わず……その後、二時間経過した時、彼がおもむろに立ち上がり、夏瑪先生の教授室へと行き……」
火朽の脳裏に、紬の姿がよぎった。その後は、夏瑪教授から聞いた話から、想像した紬の坑道が勝手に浮かんできた。
「そして一言。『すっぽかされました。僕、帰って良いでしょうか?』と……言ったらしいんです。部屋にそのままいた僕に、直後、夏瑪先生から連絡があって、発覚しました。僕が教授室に着いた時には、既に彼は帰路についていましたよ」
陰鬱な気分になりながら、火朽が言うと、砂鳥が驚いたように声を上げる。
「へ?」
「僕にはもう、彼の気持ちがまるで分かりません」
どんよりとした気分になりながら、火朽は肩を落とした。
次第に怒りを通り越して、虚しさが浮かんでくる。
だから一度溜息をついてから、静かに続けた。
「いくら僕でも、学業に支障が出るのは、ちょっと……そろそろ許容できないと言いますか」
何せ、勉強をするために、大学に通っているのだ。火朽はそう考えて、目を細めた。
「火朽さん……火朽さんは、悪くないです」
すると砂鳥が、必死な様子でそう言った。そちらを一瞥してから、火朽は大きく頷く。
「ええ。僕の悪い部分は、我ながらゼロです」
どう考えてみても、己には悪い所がないと、火朽は確信していた。
「今悩んでいるのは、どのようにして、八つ裂きにしてやりたいこの心境を抑え、人間の法律的な意味合いで――合法の範囲内で復讐してやるかというドロドロとした内心の收め方です」
そのまま、気づくとうっすらと笑っていた。苛立ちが再び最高潮に達していた。
「ファ、ファイトです……!」
それからどこか引きつったような砂鳥の応援の声を耳にしたようにも火朽は思ったが、その後の食事の最中は、ひたすら紬について考えていた。
許せない――そう、一人思っていたのである。