【17】待ち合わせ
紬と別れて帰宅した火朽は、cafe絢樫&マッサージの店の扉から中へと入った。
普段は、住居スペース側の扉から入るから珍しい。
そして彼は、店内を一瞥した。
マッサージ側は賑わっているが、cafe側には、一人も客がいない。
当初の予定では既製品のケーキ類が並ぶはずだったらしきケースは、空っぽだ。
何気なく厨房へと向かい冷蔵庫を開けてみるが、そちらも何も入っていない。
cafe側に、やる気がないのは明らかだった。
「どうかしたんですか? 火朽さん」
砂鳥が隣に並び、首を傾げた。火朽は、少年姿の妖怪に、微笑を返す。
「いいえ」
――もう少し充実させてはどうかと進言しようとして、火朽は止めた。
もしそうすれば、本当に己がバイト作業として、準備をする事になるのは目に見えている。
率直に言って、面倒だった。
その後自室へと戻り、火朽は椅子に座る。
以前の観察により、玲瓏院紬が休日は基本的に家にいる事も、交友関係がゼロに等しい事も、火朽はよく知っていた。周囲は敬意を払っていたり憧憬しているから、自分達から近寄る事も無い。だが、決して紬は、インドアな性格ではないようだった。
そして――非常に、押しに弱い。
というよりは、これまで紬を相手に強く出るような人間が周囲には不在だったため、本人も頷く以外にどうしていいのか分からないのではないかと、火朽は考えている。
火朽は前向きな性格であるし、非常に積極的だ。
気が短く、それこそ火のようにすぐに怒りを覚えるタイプであるし、火がいつまでも燻り続けるようにその怒りも絶対に消えないタイプではある――表面は微笑しているが。
しかし、視覚的に見えるようになってからの、紬の穏やかで柔らかな態度が、火朽は嫌いではない。火朽は、どちらかといえば、素直に同意し、ついてくるような人間が好ましいと感じている。玲瓏院紬は、話してみると、性格も合ったのだ。
「これならば、良い友人になれそうですね」
一人、ポツリと呟いてから、火朽は机の上に置いてあった、新南津市史という文献を手に取る。分厚いその本を開きながら、頬杖をついた。
遊びに誘ったのは、別段親しくなるための口実には限らない。
実際に、火朽はこの新南津市の各地に点在する、資料的な価値が有る様々な名所に興味があった。それは地蔵といった目に見えるものに限らず、数々の伝承や、無定形の祭りなども同一である。
現在は行われていないというが、ムシオクリという行事が近年まで、八月頃に行われていたという。八月といえば、夏祭りもあるらしい。それは一般的な盆踊りといった行事らしいが、この新南津市において、肝要な祭りは、実際には九月に行われると聞いている。遡れば、祖霊信仰、さらに古くはアニミズムと集合した神道の行事が元だろう。冬には雪まつり……どちらかといえばサイノカミの名残もあるらしい。また、八人岬の伝承の関連なのか、地蔵なども興味深いし、至る所にある祠も興味深い。
この土地は、人間の学問に触れるにもうってつけなのである。
翌日――火朽は、待ち合わせをしている、御遼神社の石段の下へと向かった。
神社のすぐ下に、首無しの八地蔵が並んでいて、その横に『御遼神社前』というバス停がある。降りればすぐに、神社へ続く石段が視界に入る。
腕時計を一瞥すれば、現在は、朝の七時半だ。
待ち合わせ時刻は、十時だったが、火朽は事前に少し見て回ろうと考えて、早めに訪れたのである。だから何気なくバスを降りてから、視線を上げた時、短く息を飲んだ。
「紬くん?」
「え」
声をかけると、驚いたように紬が振り返った。
「あれ? 待ち合わせは、十時じゃ?」
「ええ。紬くんこそ、どうしてこんなに早く?」
純粋に火朽が首を傾げると、紬が困ったように視線を揺らした。
「その……ちゃんと案内できるように、先に少し見て回っておこうかなと思って……」
小声だった。その配慮に、気を良くして火朽は喉で笑う。
紬のこういう真面目さが、非常に好ましい。
それにしても、事前に一人で見て回るという部分まで感性が一致していて、吹き出しかけた。
「そんなに気を遣わないで下さい。案内してもらうのは、僕の側の我が儘なお願いなんですから」
火朽がそう言って微笑すると、紬が安堵したように吐息した。
それから二人で石段を登る事にした。
神社には、一応、おみくじ売り場の開店時間などは存在するが、参拝自体は自由だ。
既に開放されているため、二人は石段を一番上まであがり、周囲を見渡した。
すると、一人の青年が、掃き掃除をしていた。
神主らしい。二十代後半くらいだろうか。若い。
「おや、おはよう、紬くん」
「おはようございます、侑眞さん」
「そちらは?」
「僕のゼミに来た編入生で、火朽くんです。火朽くん、こちらは、この神社の神主さんで、御遼侑眞さん」
紬に紹介されたので、火朽は微笑し、会釈してから挨拶をした。
見ている限り、この神主にも自分を人間ではないと疑っている様子は無い。
そう考えつつ、火朽はそれとなく、まずは御神木を見上げた。
一番太い枝の上に、赤い着流し姿で、季節外れの白いマフラーを巻いている少年が座っている。左側に回している狐面が見て取れる。狐色のふわふわの髪をしていて、大きな瞳は緋色だ。外見で言うならば、十代後半だろうか。
火朽は、赤い鳥居のすぐそばにある狐の像を一瞥してから、神主の青年にも紬にも見えている様子のない少年を、それとなく何度か見た。そちらは、遠慮するでもなく、興味深そうに、じっくりと火朽を見ている。
どうやら、この神社の”門番”であり、”神の遣い”らしい。
『その通り。俺は、水咲という名前の妖狐だ』
火朽も隠す気もなく思考していたから、唐突に脳裏に響いてきた挨拶に、小さく頷いた。
だが、どちらかといえば、水咲というこの妖狐は、火朽にとっては問題では無かった。
問題なのは――神主の後ろから、実に楽しそうな顔でこちらを眺めている、狩衣姿の青年だ。
彼もまた、御遼侑眞にも、玲瓏院紬にも、見えている様子は無い。
しかし、火朽には、はっきりと見える。
――なにせ、この御遼神社の祀っている神、本人だからだ。
妖狐を飼っている神――神聖な存在、妖魔とは一線を画する存在というのは、火朽は珍しいと思う。平安貴族がそこに顔を出したかのような服装の青年だが、その瞳も髪の色も、緑色だ。烏帽子を被っているわけではないが、お内裏様としてひな壇の上に鎮座していても不思議のない格好ではある。外見は二十代半ばに見える。
『へぇ。狐火かぁ。どうも、神様でぇす』
気の抜けるような、声が続いて火朽の脳裏に響いてきた。
この存在は、非常に強い。火朽はすぐにそう判断し、敵意が無い事を心の中で念じる。
それが功を奏したとは思わないが、その後二人が火朽に声をかける事は無かった。
神主との雑談を終えた紬が、敷地内を案内してくれる間、チョロチョロとつきまとわれたが、火朽は気にしない事にした。
それよりも、人の世の歴史上の、神仏習合について思い出し、近くに広がる林を眺め、紬と民俗学的見地から、風土史を語り合う事に注力する。
その後神社を後にしてからは、予定していた史跡や資料館を見て回った。
途中で食事をしながら、色々と語り合う内に、すぐに日が暮れていく。
こうして、中々充実した休日を味わい、日曜日の約束を入れない代わりに、翌週の約束を火朽は取り付けた。紬は断らなかった。
翌週大学へと行き、バスターミナルの方を眺めながらベンチに座っていると、火朽の前に、時岡と宮永が立った。二人の姿に顔を上げて笑顔を浮かべると、二人も朝の挨拶をしながら微笑した。
「良かったな」
最初にそう言ったのは時岡だった。
すると宮永が大きく頷いてから続ける。
「玲瓏院と和解したっぽいな。最近、ずっと一緒に講義を受けてるし、いやぁ安心したよ。な、時岡?」
「うむ。一時はどうなる事かと――ま、火朽の人柄だな!」
そう言うと二人は笑ってから、別の講義へと向かっていった。
見送りながら、火朽も内心で、小さく頷いていた。
――様々な話ができる、人間の友人として、玲瓏院紬は貴重だ。
改めて、大学生活が楽しくなったように感じ、火朽は一人微笑する。
今回は、自然と浮かんできた笑みだった。
その時、バスが到着したらしく、紬が歩いてくる気配がした。
だから顔を上げて、今日も火朽は声をかける。
「おはようございます、紬くん」
すると立ち止まった紬は、小さく頷いてから、少しだけはにかむように笑った。
「おはよう」
そうして――今週も、二人は共に講義を受け、ゼミの時間には打ち合わせをし、それこそ自然な流れで学食へと向かい、休日には見学、あるいは遊びに出かけた。こんな、何気ない日常が、火朽にとっては、非常に面白くてならない。
あるいはそれは、人間の学問ではなく、人間という生き物に興味を持つ事になった、一つの契機だったのかもしれない。