【23】神楽





 ――その内に、九月も終わりに近づいた。
 この新南津市においては、九月には特殊な獅子舞が行われる。
 それこそが、この土地の人々にとっての、特に肝要な祭りだと、火朽は聞いていた。

「稲荷流の亜種みたいなんだ。ほら――」
「ああ、インドにこの国の神が狐を派遣し、人の代わりに悪魔を退治するようにという伝承の?」
「うん。火朽くんは、なんでも知ってるね」

 紬がそう言うと、穏やかに笑った。火朽は頷いて返す。

 夏祭りには、結局行けなかったに等しいので、この祭りにこそ出かけようと話をしている最中だ。火朽は郷土史の書籍で見た、獅子舞の面を思い出す。

 季節や面の形態は、獅子舞には様々なものがあるし、稲荷流のような、風流系に分類される特殊な各地域の伝統芸能が存在する事は、火朽も知っている。

 ただ、あの面は少し奇っ怪だった。
 大抵の面は、それこそ獅子を象っているし、龍や鹿といった例も耳にした事がある。
 しかし、この新南津市の神楽は、ただの白い面なのだ。

 目鼻が無い。ただし、口はあり――そこから、長い二本の牙が覗いている。
 頭部には、中央に長い一本の角がある。

 端的に言って、鬼、あるいはのっぺらぼう……そんな印象だが、火朽は牙を見てすぐに、吸血鬼を連想したものである。その面は、神隠れの面と呼ばれているらしい。

 是非とも実物を見てみたいと、火朽は考えていた。

 並びに、この地方でのみ、九月は、『神隠月』と呼ばれているそうだ。
 続く神無月あるいは神在月に先んじて、神々が旅立つ季節とされているらしい。

「夏祭りよりも、派手さは――ある意味でしかないし、出店とかは無いんだけど、見る価値はあると思う」

 続けた紬の声に、火朽は静かに頷いた。

 祖霊信仰にも関係し、神楽とも縁があるらしいが、この土地の習合っぷりは半端がないので、火朽はツッコミたいと思ったが、やめておいた。せっかくの、友達と出かける機会だからである。

 それから談笑しつつ、火朽は、手際良く待ち合わせ時間を指定した。
 紬はそんな火朽に、もう慣れている様子である。

 そのようにして、稲荷流の獅子舞が披露される祭りの日がやってきた。


 獅子には見えない『獅子舞』は、境(サカイ)という集落で行われる。

 火朽は待ち合わせをしている最寄りのバス停へと向かいながら、人気の少ないバスの車内で腕を組んだ。本来、獅子舞は、魔を追い払うといった神聖な行事であるはずだ。一方の境という地名は、全国にあるが――あの世とこの世の境界が曖昧になる場所だと言われる事が多い。

 境と名付けた土地に、人間は穢れ――つまりは、魔に属する類の”存在”を捨てたり還したりする傾向がある。同時に畏怖し、普段はあまり近寄らないようにという伝承を持つ地域も多い。

 そのような命名の場所で、神聖な獅子舞が行われるというのは、火朽には少し不思議だった。
 そうでなくとも、人間の伝統芸能というのは、移ろいが激しい。

 特に終戦後に復活したような、記憶を遡り再開された行事や祭りは、時代の変遷に従い、大多数が足を運ぶ事が可能な、それこそ小中学校の校庭などで披露される事も多いようだと、火朽は思い出していた。


 どちらかといえば、重要なのは、獅子舞の『首』の保管場所だと火朽は考えている。

 黒い布で蛇や龍のように、この土地の獅子舞は、類似した芸能を彷彿とさせるように、巨大な長い胴体を作るらしい。だがその布は毎年新しいものが用意されるようだったし、中に入る人間も決まってはいないようだ。

 ――この、獅子の頭部であるが、他の地域であれば、伝統芸能の保存場所に展示されているのでもない限り、多くは習合した中の、仏門か神道の、どちらかの流れを汲む家に保管されている事が多いように火朽は思う。

 だが、事前に紬に聞いた限り、保管場所は、境地区の小さな社であるそうで、玲瓏院一門や御遼神社は、ほとんど関わっていないのだという。

「確かに白いあの面は、僕というか……人間から見ても、空想から作られた獅子の顔よりは恐ろしいでしょうが……派手で仰々しい面にこそ、人間は魔を祓う効果があると考えていたのでは、なかったのでしょうか」

 ポツリと呟いてから、火朽はバスから降りた。
 その数分後に、別の方向からやってきたバスを見ていると、紬の姿が見える。
 お互い、待ち合わせ時刻の三十分前に顔を合わせた。

 これは、バスの時刻が、この一本前だと四時間前のものしかなかったからだが……仲直り(?)した今も示し合わせているわけでもないのに、火朽と紬は大体同じ時間に顔を合わせる事が多い。待ち合わせよりも早い時間だ。ことごとくタイミングが合う。

 火朽は純粋に余裕を持った行動を好むからであり、紬は初めての友達と出かけるのが楽しいものの緊張混じりの結果、早めに行動しているのだが――紬の考えを火朽は知らず、ただタイミングが合うとだけ、考えている。


 それから二人で道中を歩いた。

 一車線しかない細い県道は、緩やかな上り坂だ。間隔を置いて、あまり明るいとはいえない街灯がある。それらは誘蛾灯の役目も果たしているようで、何度か視線を向ければ、蛾が群がっているのが分かった。足元には、木の葉が絨毯を築いている。

 秋の田舎道。それ以外の表現が見つからないなと考えつつ、火朽は紬と共に歩く。

 何気ない雑談をしながら、それは例えば天気の話であったり、家族の話であったり、大学の話であったり、様々だったが、火朽はその時間が嫌いではない。

 坂を登り切ると、小さな井戸があり、その隣に非常に急で細い石段があった。
 一人ずつ登るのがやっとの階段は、奥に広がる山の中へと通じているらしい。

「あそこを登って山に入ると、少し開けた場所があるんだよ」
「――境目に山の神を祀るという話は、あまり聞きませんね」
「あんまり深く考えた事が無いんだけど、場所にも意味があるはずだよね。昔から、あそこって決まっていたから、僕はそれが自然だと思って生きてきたんだ」
「駅の周囲に店が密集しているのと、同様にですか?」
「うん。僕にとっては、同じ事かもしれない」

 そんな話をしながら、二人で目的地へと向かった。
 紬を先に歩かせたのは、本人が道案内をかってでたからだ。

 だが火朽が後ろを歩いたのは、急な石段で万が一、弱い人間という生き物が転んで負傷しそうになったとしても、支えてそれを阻止する事が出来るからである。火朽が危険だと判断する程度には、その石段は急だった。

 

 火朽は、身内には比較的甘い。甘いというのは、失態を許すという意味合いではなく、存在を脅かすような事柄から守るという意味だ。それは、妖怪か人間かは問わない。

 だが、これまでの間、人間との間に正しく友情が成立するとは考えてこなかった中では――人間が恋愛として認識している感情を向けられた時に、『恋人関係』として優しくしたことがある記憶がせいぜいだ。

「友達、か……」

 しかし紬から向けられている感情は、恋心ではないらしい。先を歩く紬には聞こえない声音で、火朽は呟きながら考えた。

 歩く位置を気遣うような配慮など、過去の恋人にしかしたことはない。友情と愛情の境界線がわからないことに気づき、親指で唇を撫でながら、火朽は紬の背中を見た。

 友情だとはいうが、過去の人間の恋人が自分を見たときの瞳と、紬の瞳の色はそっくりだ。火朽から見ると、紬は己のことが好きそうに思えた。

 ――実際に、それは事実だ。紬の側も、現在自分の気持ちが分からないでいるが、恋なのではないかと考えている。ただ単にそれを伝えて、また大切な友達を失うのが怖いだけだ。失恋よりも、火朽がいなくなってしまうのが、何よりの恐怖である。

「まぁ、友人関係を望んでいるのは紬くんですしね」

 別に口約束によって名前が変わるだけで、そばにいることに代わりはないのだと火朽は考えた。

 紬がよろめいたのはその時のことだった。

「あ」
「っ、大丈夫ですか?」

 後ろから抱きしめるようにして、火朽が抱きとめる。転倒の恐怖と助かったという安堵が、紬の中で火朽の存在感と重なったのはその時のことだった。

「あ、ありがとう」

 火朽の腕の中にいるから鼓動がうるさくなったような錯覚。紬はそんな内心を、吊り橋効果だとして切り捨てようとした。恋だと認めてしまえば、辛いのは自分だと考えていた。それでも、心配そうに覗き込まれると、胸が疼く。

 だが、そばにいてくれるならば、それだけで良いのだ。
 改めてそう考え直しながら、紬は体勢を立て直した。