【3】救出
次に縲が目を覚ますと、夏瑪は再びソファに座って、血酒を飲んでいた。長い膝を組み、縲の肢体をまじまじと見ている。
色白の縲の全身には噛み傷がある。跡からは、まだ出血している箇所もある。しかし痛みは無い。全身を気怠さと快楽が襲っている状態だ。
虚ろな目をした縲は、顔を上げて夏瑪を見た。
「そろそろ玲瓏院結界を解除する気分になったかね?」
「それは絶対に……ッ……有り得ない」
ドロドロの顔で縲は夏瑪を睨んだが、迫力は全く無かった。それを眺めながら、小馬鹿にするように夏瑪は鼻で笑う。そして立ち上がると、かけてあったコートと帽子を手に取った。
「正気を失う前に、私に抱かれた方が良い。これは親切心からの忠告だ」
「誰が……っ、は」
「結界を解除してくれるというのならば、こちらにはその用意がある」
外套を着込むと、夏瑪はそのまま扉へと向かった。背後で扉が閉まる音を耳にしながら、縲は顔を歪める。涙が止まらない。全身が狂おしいほどに熱い。舌を噛み切りたいほどの灼熱に襲われているのだが、それは『決して自殺してはならない』という半ば洗脳じみた訓練を受けてきた縲には叶わない。そのまま震えながら、再び縲は意識を喪失した。
――次の双眸を開けた時。
「ん……」
縲は両膝が床についている事に気がついた。虚ろな瞳を上に向ければ、手を拘束していた鎖が緩んでいた。
「っ」
逃げ出す契機だ。それを逃すわけにはいかない。力の入らない体を叱咤して、縲は腕を動かし、関節を操作して手錠から抜け出した。するとガクリと体が床に倒れた。支えるものが無くなり、冷たい床に頬を預けて、必死に体にこもる熱を逃そうと試みる。
早く、ここから逃げなければと、そればかりを考える。
体がおかしい。
縲は必死で体を起こし、乱れて床に散らばっていた和服を羽織った。
耳を澄ませば、足音が響いてくる。熱い体を制止し、必死に理性で人数を確認する。誰かが二人、階段を降りてくる気配がする。ここは、一体どこなのか。気配を探るが、あちらも押し殺しているのが分かる。縲は、その気配に、夏瑪では無いようだと判断を下した。見知った気配を感じたからである。
必死で立ち上がり、縲は扉を見た。そして手をかける。
「縲!」
扉を開けると、そこには縲が予想した通り、藍円寺朝儀が立っていた。古くからの同僚であり友人である見慣れた朝儀を視界に捉えた瞬間、縲の張り詰めていた気力が緩んだ。思わずよろけて倒れ込みそうになる。すると支えようと朝儀が手を伸ばした。
「やめ……触らないで、あ、ああああ」
「縲?」
朝儀に触れられた瞬間、再び縲の全身を灼熱が襲った。怪訝そうな朝儀に対し、涙をこぼしながら縲が告げる。
「やられた、刻印された。辛い、体が辛い。うあ、あ、朝儀、もうこれ無理」
「――っ、相手は?」
「夏瑪夜明だ。う……あ、ぁ」
結局倒れ込んだ縲は、立っていられないのだが、朝儀に触れられている箇所も辛くて、ボロボロと泣くしかできない。大の大人がこのように泣くというのも滑稽だろうと、一歩乖離した理性では考える。
「夏瑪夜明は、どこにいるの?」
「戻ってこないんだ。鎖が緩んでいたから、自力で逃げ出そうとして――そうしたら、君達の気配がして……っ……熱」
そう告げるのが精一杯であり、縲はそのまま意識を手放した。
次に縲が目を覚ますと、玲瓏院本家の自室にいた。洋風の寝台、これは縲が布団に慣れないため、唯一の我が儘を通して買った品である。びっしりと全身に汗をかいていたが、体自体は清められているようだった。縲は気怠い体で起き上がりながら、己が来ている白い和服を見る。寝台の周囲には、五芒星の形に術が展開されていた。蝋燭の炎が揺れている。少しだけ、刻印による熱が楽になっていた。
「目が覚めたか」
その声に顔を向けると、統真が立っていた。難しい顔で縲を見ている。
「現在、お主は、酷い風邪を患った事とし、結界展開後の討伐の総指揮は儂が変わる事としてある」
「……ご迷惑を」
「迷惑というか、災難じゃったな」
「……」
絆と紬の前では、そこそこ親しく話す二人であるが、こうして一対一の場合、縲が無表情である事が多い。縲は統真には、心を開かない。経緯が経緯だけに仕方がないのかもしれないが。統真としても愛娘の死の一因は縲にあると考えているため、恨むわけではなかったが、時に縲の扱いに手をこまねいている。
「鬼――吸血鬼の刻印、か」
「すぐにでも夏瑪夜明の排除を……っ」
「出来るのか?」
統真が冷徹な声で尋ねた。実際問題、国際的に指名手配されるほどの吸血鬼が相手である。一人では困難なのは、明白だ。それ以前に、夏瑪夜明の排除よりも、体の辛さを緩和しなければ、満足に動く事すら出来無いだろう。
「朝儀には命じたわけではないが、率先して手伝う気があるようじゃったが」
「……」
「まずは刻印の対処をすべきじゃな。ここに張ってある簡易結界でも、少しは楽になるものか?」
「――結界というよりも、夏瑪夜明が自発的に俺を逃がして、最低限動ける程度に刻印した箇所から送り込んでくる力を緩めているんだと思います……っく」
「そうであっても辛いのじゃろう?」
「……」
返す言葉がなく、縲は唇を噛んだ。綺麗な金髪が肌に張り付いている。
「妖しの事は妖しが最も詳しい。吸血鬼の事ならば、吸血鬼が詳しいじゃろうな」
「……」
「享夜も刻印をされて――だが、縲、お主のような状態にはなっておらぬと聞いている」
「……」
「絢樫Cafeのローラといったか。此度の救出劇においても、夏瑪夜明が縲を置いていた場所を教えたのは、ローラという吸血鬼であったと朝儀は話しておった」
それを聞いて、縲はゆっくりと床に足を下ろしながら、小さく頷いた。
「すぐに絢樫Cafeに行ってみます」
「享夜がおるそうだ。朝儀も伴うと良い」
「ご配慮有難うございます……」
その後縲は、シャワーを浴びる事にした。ベタベタの体が気持ち悪い。鏡を見れば、全身に噛み傷がある。酷い痕だ。
そして普段の和服ではなく、内閣情報調査室庶務零課時代に着用していた、分厚く黒い指定着を身に纏う。袖を通すのは久しぶりだった。そうして準備をしていると、同様の格好をした朝儀が部屋に入ってきた。時刻は十五時を回った所である。
「絢樫Cafeに行くんでしょう?」
「うん……っ……ああ、もう」
「縲?」
「体が熱くて思考が蒙昧とするんだ」
「享夜には、そういった様子はないんだけどなぁ」
「それは――」
体を重ねているからだろう、と、縲は言いかけてやめた。刻印の知識を振り返る限り、体を重ねるか、そうでなくとも対象の吸血鬼のそばにいって、熱を緩和してもらう以外の術はない。直接の性交渉がなくとも、吸血鬼側は刻印経由で人間の気を抜けるらしいというのは、仏国時代に得た知識だ。
「……」
しかし本来、吸血鬼は人間を気遣う存在ではない。藍円寺享夜が平気な理由が、大切にされているからなのか、それともローラという吸血鬼が善良なのか、そこが問題でもある。縲は善良な吸血鬼が存在するとは思わないが、せめて知識提供をしてくれる存在である事を祈った。