【九】
――それは、初夏の事だった。相変わらず心が摩耗していた依織は、この日も味のしないレトルトの朝食を義務的に口にしてから、己の職場へと向かった。すると焦った顔をしたジョ・ルゥに腕を引かれた。
「依織! 宇宙艦イッキュウから通信が入ったんだ!」
イッキュウというのは、スペースコロニー『トラ』がテスト的に放った宇宙艦だという知識が依織にもある。
「『ウ』の領域に入ったの?」
そうであるならば、以後は誘導の仕事がある。漠然とそう考えていると、大きく何度も頷いたジョ・ルゥが、モニターを指さした。
「途中で脱出ポッドを、銀河救助法に基づき回収したと言ってる。番号を見ろ! お前の旦那のポッドだ!」
「!」
その言葉に、依織は目を見開いた。慌ててモニターを見れば、そこには扉の開いたポッドが映し出されていて、イッキュウのフロアに立っている降矢の姿と、握手しているアマゾネス系の艦長らしき人物の姿がある。
「あ……」
画面の向こうで、そのまま降矢が通信装置室に移動していくのが見えた。直後、『ウ』の探索ルームのモニターに、イッキュウから通信が入った。動揺しながら、依織が応答する。
「はい。こちら『ウ』」
『――依織?』
「降矢……降矢? 生きてたの? あ……うあ」
もう依織は涙を堪えきれなかった。ここのところずっと泣いてはいたけれど、規模の違う涙が溢れ出てきて、零れ落ちていく。
「降矢、降矢!」
『運よく、イッキュウに拾ってもらったんだ。なぁ、もう離婚したか?』
「するわけないよ。待ってるよ!」
『よかった。俺からは通信できなかったけど、お前の声、ずっと届いてて……料理、失敗したのか?』
「っ!」
『俺、戻ったらきちんと、料理練習するから。それで、美味しいって言わせるから。だから、待っててくれないか?』
「待ってるよ! 待ってるに……っ、決まって……」
こみあげてくる涙のせいで、依織は最後まで言葉を紡ぐ事が出来なかった。モニターの向こうでは、そんな依織を見て、優しい顔で降矢が微笑していた。
その後宇宙艦イッキュウは、真夏のある日に、『ウ』に着艦した。
誘導後、依織は格納庫に走った。すると宇宙艦を降りてきた降矢が、依織を見て両頬を持ち上げた。依織は思わずその胸に飛びついた。慌てたように降矢が腕を伸ばし、依織を抱きとめる。
「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
「っ、依織……」
「僕がどれだけ心配したと、もう、馬鹿! それにあの手紙なんなの。なんなの! 僕、ちゃんと降矢が好きだよ。降矢以外と幸せになんてなれないよ。僕の好きな人だって、降矢だけだ。こんなに愛しいと思ったのなんて、降矢が初めてだよ! 馬鹿! 次に僕を一人にしたら、絶対に許さないからね!」
「……――嬉しい。そっか。俺の事、ちゃんと好きでいてくれたのか」
「自覚したのは遅かったけどね。それはごめん。謝る。でも、本当に大切だよ。失いそうになって気づくなんて僕も馬鹿だけど、降矢も本当、馬鹿。降矢がいなかったら、『ウ』があって、生存はできても、僕は幸せになれない。きちんと僕が好きになっちゃった責任を取って、ずっと一緒にいてよね」
額を降矢の胸板に押し付け、両腕を背中に回してギュッと抱き着き、涙が見えないようにしながら、早口で依織は告げた。
「依織……ああ、そうだな。今回の件で、俺はもう、宇宙域に出なくていいという許可を貰ったから、今度こそ、きちんと専業主夫をやる。やるから、だから、また――一緒に暮らしてくれるか?」
「ずっと待ってたよ。歯ブラシも、おそろいのマグカップも、全部そのままだからね!」
「そっか。ありがとうな、愛してる」
「僕もだよ」
そのまま顔を上げて、背伸びをして依織は、降矢の唇を奪った。すると虚を突かれた顔をしてから、降矢が破顔し、依織の体を抱きしめなおす。そして今度は、降矢の方からキスをした。
このようにしてイッキュウの着艦の残作業や、提供された隕石サンプル、軌道記録の整理などの仕事が、依織には加わった。それは多忙な日々の幕開けでもあった。
だが――家に帰って扉を開ければ、そこに降矢がいる生活が戻ってきた。
帰宅する度に、この幸せが夢ではないのかと怖くなりながら、依織は降矢に抱き着いている。それを受けとめながら、本日も降矢は笑顔を浮かべている。降矢はその後首だけで振り返り、僅かに上達したものの、焦げた料理が並ぶ食卓へと視線を向けた。
「悪い、少し失敗した」