【二十七】火と水と油



 いつもの通り、朝倉の執務室へと向かった羽染は、首を傾げた。
 普段は羽染よりも早く朝倉が執務室に来ているため、鍵が開いている。

 当初は、羽染が先に来て鍵を開けていたのだが、その必要はないと朝倉に念を押されたのだ。なぜなら朝倉は、午前四時頃に執務室に入るため、それよりも早い時間となると、羽染の睡眠時間がほとんど無くなるからである。その分、朝倉は帰りが早い。裁量制度が根付いている職場だ。

 一応携帯している執務室の鍵を取りだし、首を傾げながら、羽染は扉を開けた。
 やはり中は無人で、カーテンも閉まっている。
 それを開け、室内に光を取り込みながら、同時に空気の入れ換えをする。

 その時の事だった。

「お待ち下さい、家時様。このフロアは、例え元老院議員でも立ち入り禁止の――」
「退け」
「ですが――」
「この俺が退けと言っているんだ!!」

 廊下が騒がしくなり、羽染は反射的に扉へと視線を向けた。
 ――何事だろう?

 念のため確認しようと、羽染は静かに廊下へ向かう。
 そして扉を閉めた時、丁度、右手の通路で徳川家時が動きを止めた。
 目が合ったので羽染が会釈する。

 すると家時が、乱暴に壁を殴りつけてから、羽染の元へ歩み寄ってきた。

「久しぶりだな」

 声をかけられたものだから、羽染は怪訝に思って顔を上げる。
 まさかあの時言いかけた何かを、此処にまでわざわざ足を運び、口にしようとしているのだろうか、と、思案する。

 そんな馬鹿なと考えながら、羽染は答える。

「お久しぶりです。先日は失礼致しました」
「白々しい、おい羽染――」

 家時が言いかけた、丁度その瞬間。

『――第二天空鎮守府第一師団所属羽染良親大尉、大切なお客様がお越しです。大至急職務を取り置き、中央館1F受付までお越しください。繰り返します――』

 この前とは違う館内放送の言葉に、羽染は首を傾げた。
 余程大切な客が来ているのだろうかと考えるが、心当たりはない。

「家時様、申し訳ございません。呼び出しがかかりましたので――」
「ふざけるな。話はまだ終わっていない」
「……」

 羽染は思案した。
 来訪者が、徳川家時よりも優先すべき相手である可能性は、かなり低い。何せ家時は、旧将軍家の後継者だ。元老院でも力のある議員である。

「羽染大尉殿、呼び出しです、大至急!」

 そこへ、廊下を曲がって走ってきた下仕官が叫んだ。羽染がそちらを見る。その瞬間だった。

「黙れ」

 家時が、下士官を一喝した。
 周囲が静まりかえる。静寂があたりを包んでいる。

「俺を誰だと思っている。畏れ多くも、旧将軍家宗主たる徳川家の家時なるぞ。頭が高い。話の腰を折るな」

 よく通る声で、家時は周囲にそう告げた。
 そこには、怒りが滲みだしていて、まるで劫火のようだった。

「家時公、ご用件を」

 溜息を押し殺して、羽染が再度頭を垂れて尋ねる。

「少しは話が出来るようだな。率直に言おう。保科をどこへやった?」

 続いたその声に、羽染は思わず目を見開き顔を上げた。

「何処へやったか、聞いているんだ!!」

 刀の柄に手をかけた家時が、叫ぶ。
 怒りで燃えている灼熱の瞳を見た瞬間、周囲に緊張が走った。
 黒い炎が揺らめいているようにすら見える。
 尋常ではない剣幕と威圧感に、何人かが震えだした。

「我が藩主、保科に何かあったのでしょうか?」

 だが羽染は、保科の名を聞いて、不安を覚えただけだった。

「白々しいことを言うな。貴様が連れて行ったんだろう!?」

 続けて家時は口にして――……そして眉を顰めた。

「保科に何があったのですか?」

 淡々と羽染が問う。
 言葉に窮した家時は、それでも怒りを絶やさず、目を細めた。
 刀を抜くのは時間の問題だと、周囲の皆は思った。

「保科はどこにいる?」
「ですから」

 その時、抑揚の無い羽染の声が響いた。
 焔を宿したままの瞳で、家時は羽染の目を見た――そして息を呑んだ。

 そこには全てを鎮火させるような、有無を言わせない、冷たい眼差しが浮かんでいた。
 仄暗い水のような、瞳。
 けれどその光は、氷のように、強く、そして酷く冷たい。

「家時公、保科をどうしたのですか?」

 火と水が交わり、それぞれの視線が暫しぶつかったが、すぐに決着は付いた。

「保科が、居なくなったのですか?」
「……ああ」
「どこから?」
「……ッ、」

 本当に羽染は何も知らないのだろうと家時は判断した。

 周囲が凍り付き、先ほどまで家時の剣幕に恐れ戦いていたものですら、今度は動けなくなった。それだけ、羽染の瞳は狂気を孕んで光っていた。瞳孔が開き、視線だけで見る者の鼓動を止めそうなほど、禍々しくなっている。本能的な恐怖を覚えて、家時は抜刀しようとした。が――

「お答え下さい」

 3cm程、刃が見えた時、羽染が家時の手首を片手で掴み、それを阻止した。
 外見からは考えられないほどの強い力に阻まれ、家時の手はそれ以上、刀を動かす事が出来なくなる。

 沈黙が周囲を包み、誰も何も言えなくなった。
 羽染は、ただ家時の回答を待っていた。

『――第二天空鎮守府付き陸軍第十八師団所属羽染良親大尉、大切なお客様がお越しです。大至急職務を取り置き、中央館1F受付までお越しください。繰り返します――』

 その時再び館内放送が響いた。
 我に返った羽染は、目を細め、顔を背ける。

「――この場での抜刀は、戦時以外は刑事罰にかけられます。どうか、お静まり下さいませ」
「あ、ああ……」
「ご無礼致しました」

 家時が刀を鞘に戻すのを確認してから、羽染は手を離した。

「保科の居場所は、私も存じ上げません。連絡が取れましたら、お伝えいたしましょうか?」
「……そうか」
「呼び出されましたので、これにて失礼いたします」

 羽染はそう告げると、踵を返した。


 ◇◆◇


 それを廊下の隅で、途中から見ていた朝倉が、近くにいた仕官に尋ねる。

「何があったの?」
「それが、その、家時様がいきなりお越しになって……」
「どうして誰も、あの二人の間に入って止めないのかな」
「無理ですよ、あの家時様の剣幕じゃ――というより、羽染大尉の目がマジすぎて、動けるわけが……」

 それもそうかと、朝倉は腕を組んだ。
 そして足早に歩いていく、羽染を目を細めて見据える。

 羽染がその時、角を曲がろうとして、立ち止まった。

「やぁ、羽染大尉。久しいね」

 そこから顔を出したのは、紫陽花宮だった。
 瞬間、廊下にいた家時以外の全員が、膝を突いて頭を垂れた。
 遠くにいた仕官と朝倉は、気づかれる位置ではないから、静かにそれを見守っている。

 そのことに、羽染は気づかなかったし、視線を交わし、一時だけ互いに殺意を滲ませた家時も紫陽花宮も気にした素振りはない。

 すぐに、紫陽花宮は笑顔を浮かべる。
 文句なしの、穏やかな笑みだった。

「呼びだしに応えて行く所かな?」
「はい」
「行く必要は無いよ、ごめんね仕事中に。呼んだのは俺なんだ」
「いえ」
「あんまりにも遅いから、自分で来ちゃったんだ」
「申し訳ございません」
「謝らなくて良いよ――……実はね、保科君と連絡が取れないんだ。どこにいるか知らないかなと思って。何かあったのかな?」
「っ」

 再び告げられた保科の名前に、羽染は顔を上げた。

「立って、羽染大尉」

 そう羽染に声をかけながら、紫陽花宮は、じっくりと表情を観察していた。
 ――やはり、何かあったのだろう。

 まるで底なし沼の水面のような羽染の暗い瞳を見て取り、静かに瞬く。
 ゆっくりと立ち上がった羽染が、紫陽花宮と家時を交互に見た。

「これはこれは、徳川の家時議員。ご無沙汰ですね」
「……宮様におかれましては、ご健勝のご様子」
「もしかして俺と同じ用件でここに?」
「……」

 不機嫌そうに半眼になった家時を見て、紫陽花宮が真顔になった。

「それとも、家時君が何かしたのかな?」
「連れて行ったのは貴様か」
「どういう事?」
「答えろ」

 羽染を挟んで言い合いを始めた二人は、誰もが知る通り折り合いが悪い。
 しかし羽染にとっては、どちらも、ただの、保科に害をなす敵だった。

「紫陽花宮様、恐れながら」
「なんだい、羽染大尉」
「いつから保科と連絡が取れないのでしょうか?」
「一昨日――嫌、正確には昨日の深夜からだよ。午前三時半までは少なくとも元気だった」
「その様な時間に、保科と連絡を取っておられたのですか?」

 羽染が続けた言葉に、紫陽花宮は不意打ちされた気分で、目を見開いた。
 ゆっくりと羽染に対して顔を向ける。
 そこにあった水のような瞳に、紫陽花宮は唇で弧を描いた。静かに笑う。

「一緒にいた」

 全てを覆い尽くし汚す重油のような嘲笑だった。
 水と油は、決して交わる事はない。
 中和剤がなければ。
 そしてそうなり得る保科は、ここには居ない。

 火と油の相性は、悪いわけでは無かったが、ただただ二人は、保科の心を焼き尽くすだけだ。羽染はきつく目を伏せ、唇を噛んだ。冷たく重い、凍てついた感情が、次第に指先までの皮膚の裏側に張り付き、全身を絡め取っていく感覚。絶対零度の怒りに、羽染は身を委ねまいと必死で自分を制した。このままでは駄目だ――ああ、殺してしまう。

 幼い頃の、泣いていた保科の姿が、そして笑っていた保科の姿が、羽染の脳裏を過ぎっては、消えていく。あの笑顔を奪ったのは誰だ?

「あれ、紫陽花宮様? それに家時様も」

 そこへ朗らかな、笑みを含んだ、嬉しそうな声が響き渡った。
 少年らしい、高い声だ。
 その声を認識した瞬間、羽染は全身から力が抜けていくのを自覚した。

「保科様」

 何度か瞬きをしてから、顔を向ける。

「おはよう、羽染。何をしてるの?」
「……お二方共に、保科様の御身をご心配下さり、連絡が取れないと私の元にいらっしゃったようです」
「え、本当? なんだか悪い事をしちゃいましたね、ごめんなさい!」

 至極いつも通りの、明るい保科の声に、紫陽花宮と家時が呆気に取られたように目を見開いている。

「紫陽花の宮様に、遅くまで勉強を教えて頂いていたんだ。そうしたら、帰りに貧血で倒れちゃって。家時様に介抱して頂いたんだ。家時様は、早起きなんだって。僕も見習わないと」
「そうでしたか」
「そのまま風邪ひいて寝込んじゃってね。そっかぁ、嬉しいな、心配してもらえて。本当に光栄です」

 保科がそう言うと、紫陽花宮と家時が、それぞれ顔を背けた。
 最初に立ち直ったのは、紫陽花宮だった。

「本当に心配したよ。もう体調は良いの?」
「はい」
「そう……無理だけはしないでね。何かあったら――力になれると思うから」
「有難うございます」

 紫陽花宮はその言葉に頷くと、羽染を一瞥した。

「羽染大尉、邪魔をしたね。そうそう、食事の日取りはどうしようか?」
「宮様のご都合の宜しいお日にちを」
「じゃあ今夜、空けてもらえるかな」
「承知しました」
「九時に、迎えの車を正門脇につけさせるよ」
「有難き幸せです」

 羽染が頭を下げたのを確認し、再び紫陽花宮は保科を見る。

「今夜は羽染大尉を借りるよ。良いかな?」
「はい――羽染、くれぐれも失礼が無いよう」
「御意」

 そのやりとりに頷き、紫陽花宮は踵を返して歩き始めた。
 暫しの間それを羽染が見送っていると、不意に声がかかる。

「羽染。悪かったな」

 家時の声だった。

「――……いえ。我が藩主の身を案じて頂き、恐縮です」
「本当ですよ、家時様。ごめんなさい、休ませてもらったのに、勝手にいなくなって」
「……保科」
「なんですか?」
「……っ……なんでもない」

 家時はそう告げてから、羽染へと顔を向ける。

「羽染大尉、紫陽花宮様とは食事をする仲なのか?」
「いえ、本日初めてご一緒させていただきます」
「そうか。では、明後日の夜を空けてくれ。話したい事がある」
「承知しました」
「五時頃が定時だったな。ならば、六時頃に、迎えに行かせる」
「有難うございます」
「保科、そろそろ議会が始まる。行くぞ」
「あ、はい!」

 歩き出した家時の後ろを、保科が追いかけていく。
 それを羽染は、会釈して見送った。

「お疲れ様」

 保科達の姿が見えなくなった所で、朝倉が声をかけた。

「羽染は兎も角、廊下にいる者。仕事は? 早急に持ち場に戻るように」

 大きな声で朝倉が言うと、皆が散っていく。

「……朝倉大佐殿」
「大変だったね」
「……」
「大丈夫。保科様をここにお連れしたのは、僕だ」
「!」

 その言葉に羽染が顔を上げ、何度か瞬きをする。長い睫毛が、揺れる。

「保科様の事は、僕も守るよ。だから一人で抱え込むな」

 朝倉はそう言って笑うと、くしゃりと羽染の髪をかき混ぜた。