【四】




 坂本が見ていたのは海外も視野に入れた大局だ。

 楼主は楼主ではなかった男娼だったその時、ただ吉原という箱庭の中にある籠の中でしか世界を知らなかったし、それこそが全てだった。

 あの日は曇天で、ただただ坂本は、必ず迎えにくるからとだけ口にした。当時は露草を名乗っていた楼主はそれを信じていなかったけれど、待っていると静かに笑った物だ。それが、接客ゆえの偽りの恋人同士の言葉だということは当然双方が理解していた。


 それでも、天堂露瑛と名乗り楼主になってからも、坂本の言葉は割れたガラス細工の破片のように、どこかに突き刺さっていた。たった一人、恋をした相手だったからだ。その恋を思い出に、一人で生きていくこと。それは、色恋を売っていた身には余る幸せだった。第三吉原で生まれ、きっとこの箱庭の中で己は死ぬのだろう。そう信じて疑うことはなかった。外の世界を夢見たことがないといえばそれは嘘になる。けれど坂本の隣に立つ己の姿などうまく思い描くことはできなかった。できなかったのだ。

 ――いつだって坂本は強引だった。普段は柔和な笑みをたたえているくせに、閨では獣のように行為に及んだ。高級男娼だった露草にそのように触れたのは彼だけだ。ただ不思議と、体だけの関係だとは思わなかった。だから、身請け話の時だけいやにあっさりひかれたときは、わずかに胸が疼いたものである。それでも坂本に籠の外へと連れ出して欲しいとは不思議と思わなかった。楼主は、自分の力で東の大店、東屋の楼主に上り詰めた。そうして見世の子達――家族を得た。

 舞い戻ってきた坂本は、二度目に会うなり、そんな家族を捨てろと言い切った。
 捨てて自分についてこいと言ったのだ。
 断る以外の選択肢はなかったはずだった。
 ……けれど断ることはできなかった。


 今は二人、遠雷に耳を傾けながら、手を繋いでいる。

 外の世界は新鮮で、楼主にとっては驚きの連続だった。彼は誰よりも教養があったが、見るときくでは大違いだと思い知らされた。

「なぁ、露草」
「ずいぶんと懐かしい名前で呼ぶんですね」
「露瑛」
「なんでしょうか?」
「もうじき夕立が来るんかな。雷が鳴っとる」
「傘を持ってきませんでしたね。急ぎましょうか」
「いや、好都合や」
「え?」
「休息せぇへん?」

 坂本はそう口にすると、遠目に見えるお城のような建物を指差した。

「あれは一体なんですか?」
「ラブホや」
「っ」

 息を呑んで楼主は思わず赤面した。結局坂本と共に第三吉原からではしたが、いまだに一度もそういう行為には及んでいないのだ。坂本は誓ったのだ。楼主が嫌だと言ったら指一本触れないと。信じているわけではなかったが、正直心の準備ができない。

 何せ自分はもう年嵩だ。衰えた。三十半ばとなり、少し痩せた今の貧弱な体を晒すことには抵抗がある。

「何もせんから」
「この状況で果たしてその言葉を信じるものはいるのですか?」
「信用してや」
「無理です」

 断言して歩き出そうとした楼主の手首を、ギュッとその時坂本が掴んだ。

「行くぞ」
「ま、まってください」
「いやや」

 坂本は、恥ずかしがって照れている楼主の焦り具合が可愛くて仕方がなかった。
 もう手を離す気はない。
 過去の懐かしきあの日、手を離したことを今でも後悔しているからだ。

 近づいてくる遠雷から逃げるように二人で歩く。

 ホテルまでたどり着くと、実に手慣れた動作で坂本が部屋を選んだ。

 別段遊んでいたとしても不思議はないが、坂本ほどの資産家がこのような施設に詳しいのは不思議だなとも思う。安っぽいエレベーターに乗り、部屋へと向かう。自動ロックだった。その施錠音にどきりとしてしまう。

「こういうところには来たことあらへんやろ? 第三吉原は洒落てるからな」
「……ええ」
「そう怯えんといてや。少し横になろうや」
「……シャワーを浴びてきます」
「なんで?」
「それは――」
「なんもする気あらへんけど、期待しとるん?」
「っ、いいえ。分かりました、ただ横になるだけですよ」

 羞恥と揶揄されたことへの怒りで視線を揺らしてから、楼主はベッドに座った。
 すると坂本が喉で笑ってから――強引に押し倒した。

「さ、坂本様!」
「んー?」
「お話が違います」
「俺、気分屋やからね」

 着物の胸元に手を入れてはだけさせながら、もう一方の手では、ダイレクトに陰茎に触れる。坂本の骨ばった指の感触に、楼主は唇をかんだ。それでも意地があるからと声は堪える。すると意地悪く手を動かされた。最近こういう行為など一切していなかったため、すぐに反応を見せ始めた自身に楼主は顔を背けて涙ぐんだ。あんまりだ。

 親指の腹で鈴口を刺激された頃には、蜜がこぼれ出しているのを自覚していた。しかし坂本の手の動きは意地が悪く、達しそうになると手を緩めては、反応がおさまりかけると再びこすりあげるのだ。出したい。すぐにそんな欲求に駆られたが、楼主はこれでも元男娼だ。恋人となったとはいえ、先に行くなどというのはあり得ない。だが……そもそも坂本がいかせてくれないため、射精直前のところで快楽を維持されて、すぐに全身が汗ばみ震え始めた。それでも必死に声は堪える。

「どうされたい?」
「っ……坂本様のお好きなように……ッ」
「いいんや? 俺の好きにして」

 坂本はそう言って意地悪く笑うと、卓上似合った香油の瓶を手繰り寄せて、それを指にまぶした。それから二本の指を一気に突き立てる。楼主は嬌声を飲み込んだ。久しぶりに受け入れたものだから、きついのが自分でもよくわかる。しかし坂本は容赦なく指を進めると、楼主の最も感じる箇所を指で軽くついた。もう体のことは知り尽くしていた。思わず楼主はきつくシーツを握り目を伏せた。

 それから浅い抜き差しが始まった。しかし、感じる場所は時折指がかすめるだけで、決定的な刺激は与えられなかった。かつて快楽を教え込まれていた楼主は、そのもどかしさに腰をふりそうになった。必死で止めようとするのだが、無意識に、坂本の指先が気持ちのいい場所に触れるようにと動いてしまう。だが坂本は、その度に指の位置をずらした。その上、もう一方の手では、再び前に刺激を与え始めた。ただしその指先も撫でるかのように緩慢だ。前と後ろ両方から焦らされて、ついに楼主は声を上げた。

「ああっ……」

 一度声がでしまうともうダメだった。

「ああっ、ん、ア、あ、ハ」
「気持ちええやろ? よすぎてつらいか?」
「う……ぁ……」

 蕩けた瞳に涙をにじませている楼主の姿に坂本は苦笑した。

 そのまま楼主は意識を飛ばした。ただ獣のようにその後貫かれたことをおぼろげに覚えている。目をさますと、隣に坂本が寝そべっていた。


「無理させてもうた?」
「……」
「綺麗やったぞ」

 それからしばらくの間、楼主の機嫌がなおらず坂本は苦労するのだが、それはまた別のお話だ。



(終)