上海
一時的に羽染が独逸から上海勤務になることになった。
それを知ったのは、有馬が山縣の家に出かけた時のことだった。
「なんだお前、羽染から聞いてないのか?」
「……無いっす」
「大分近いだろう、上海なら直通便が有るし」
隣で朝倉が、白ワインを飲みながら言う。
「保科様の帰国にあわせてだからな」
山縣のその言葉に、有馬は顔を上げた。
「俺、上海に行きたいです!」
「でも羽染に呼ばれてないんやろ?」
からかうように朝倉が言った。
「……有給取ります」
「冗談や。行ってきな」
苦笑するように朝倉が言うと、頷いて山縣がチケットを手渡した。
「それが終わったら、暫く羽染はフリーだし。お姫様を迎えに行ってやれ」
その様にして、有馬は上海に出かけることとなった。
「住凡天?」
やばい、何言ってんのか全然分からない。
ホテルで有馬は、引きつった笑みを浮かべていた。
上海に来ることを羽染には伝えていなかったから、羽染が近くにいるということだけを頼りに、有馬はここへとやってきた。しかしほぼ実費で来たので、英語が通じるホテルは取れなかったのである。
「えっと……」
有馬が狼狽えていると、隣にスッと立つ人物がいた。
「住一天」
驚いて顔を上げると、そこには会いたくて仕方がなかった羽染の顔があった。
「羽染……」
「一泊で良いだろう? 明日からは、俺の所に来ればいい」
照れるようにそう言った羽染の顔を見て、思わず有馬が抱きしめる。
「何泊でも良い! 会いたかった」
「ちょ有馬、離せ!」
慌てたように羽染が有馬の体を押す。
我に返って有馬が離れた。
「あ、悪い。つか、どういう意味なんだ?」
「住凡天は何泊するか、住一天は一泊」
「お前、独逸語の他に、上海の言葉も話せるのか?」
「ビジネス会話くらいはな――だけど吃驚した。何で有馬が此処に? 山縣大佐から、有馬が此処にいるって聞いて本気で驚いた」
「そんなもん、お前に会いたかったからに決まってるだろ」
「……有馬」
「会えないのが仕方ないのは分かってる。だけどな、会いたくて会いたくて仕方がなかったんだよ」
「それは、俺もだ。だけど……何で俺が上海にいるって知ってるんだ? 一昨日急に上海に派遣されていた外交官が病欠したから、丁度保科様が帰宅するところだったから、俺が回されたのに……」
「え? 山縣さんが教えてくれたけど」
「そうか……」
もう何も言うまいと羽染は思った。
「とりあえず食事にでも行くか?」
「ああ。羽染、喋れるんだし、オススメ教えてくれよ」
「なにが食べたい?」
「肉」
「分かった」
その様にして、二人は食事に出かけた。
「ええと――大排、面巾寒肉、菜飯」
適当に羽染が頼む。
「てかお前何で喋れんの?」
有馬が問うと、羽染が溜息をついた。
「適当にガイドブックを見ただけだ。肉類とチャーハンみたいなものを頼んだだけだし」
「十分だ。へぇ、だけどすごいな」
「すごくない」
「すごい」
「何が?」
「惚れなおした」
「っ」
羽染が照れるのには構わず、運ばれてきた酒を有馬が手に取る。
「外交官になるの夢だったんだろ?」
「ああ……」
「向いてると思うよ」
「有馬にそう言ってもらえるのは、悪い気がしない」
「応援してるけど、俺は正直寂しいけどな」
「っ」
「ずっと側にいたいからな。本音を言えば」
「有馬……」
「だけど俺はお前の足かせにはなりたくない。そうなるくらいなら、俺が勉強してお前の側に行く」
「――俺だって同じ気持ちだ。お前が朝倉大佐の所で頑張ってるのを知ってる。聞いてるだけだけど」
「うん。俺は俺なりに頑張る」
「有馬」
「羽染。離れてたって、俺達はいつも一緒だろ?」
「ああ」
「それで十分だ」
有馬がそう言った時、食べ物が運ばれてきた。
二人がホテルへと戻ったのは、十時ごろのことだった。
「少し飲み過ぎたな」
熱くなった頬を、手で扇いでさましながら、有馬が呟いた。
羽染はぐったりと寝台に体を投げ出している。
その姿を見て、有馬はギシリと羽染の体を挟むように両手を突いた。
「羽染」
「なんだ……」
同様に酔っている羽染が、赤い顔を向ける。
二人の視線が交わった。
「好きだ」
「……俺だって、好きだ」
「明日の仕事何時からだ?」
「無い。明後日、外交官主宰のパーティがあって、それが終わったら、帰国する」
「じゃあ、今日は――……」
有馬はそう呟いてから、羽染に口づけた。
「ん……っ」
「一緒にいられるんだな」
そういって有馬が、羽染のシャツのボタンを片手で外していく。
「……有馬」
「ん?」
「幸せ、だな」
「何言ってんだよ、今更」
有馬はそう言って羽染の服を脱がせ、斜めに走る傷跡に指で触れた。
びくりと羽染の体が跳ねる。
「俺は今でも後悔してる、お前を斬ったこと」
「ごめん、有馬」
「違う、そう言うんじゃない。だから、謝るなよ」
そう言って有馬は、傷の跡に口づける。
「失うと思ったら、失ったと思ったら、どうしようもなく怖かった。だけど、お前が生きていてくれたから尚更思うんだ。――あの時、俺はとどめを刺すべきだったんじゃないかって」
「っ」
「だけど出来なかった。そんな弱い自分のことに、俺はでもな、後悔してないんだよ、お前との約束を破ったのに」
「有馬」
「お前のことがどうしようもなく大切なんだよ、愛してるんだ」
有馬はそう告げると、再び羽染の唇を奪った。舌と舌とが絡み合う。
息苦しくなって羽染が、有馬の肩を押す。
だけど逃れようとする羽染を、有馬は許さなかった。
追い詰めるように舌を噛み、抱きしめる。
「ん、ァ」
唇が離れた時、羽染が荒い息を吐いた。
「なぁ羽染。俺は嘘をつくのは大嫌いだし、約束を破るのも嫌だ。だけどな、それでも、お前とずっと側にいられるんなら、何でもしたいんだよ」
その言葉に、ぼんやりとした思考を振り払いながら、羽染が微笑んだ。
「――……俺もだよ」
二人が帰国した時、空港のラウンジには山縣と朝倉がいた。
到着便から降りたところで、朝倉達からメールをもらった有馬が、不機嫌そうな顔で、羽染を連れて、そのラウンジへと顔を出す。
「どうだった、二人っきりの上海は?」
山縣が意地悪く笑ったのを見て、羽染が嘆息する。
「あちらの諜報部とは密約を結んできましたけど」
淡々としたその声に、驚いて有馬が顔を向ける。
「ご苦労、優秀な部下を持って俺は幸せだ」
「イギリスでMI7とやりあってる久阪にその言葉はかけてやって下さい」
溜息をつきながら羽染が、朝倉の隣に座る。
「羽染も大変そうだね」
朝倉が笑うのを眺めながら、有馬は山縣の隣に座った。
「有馬ぁ、羽染に色仕掛けさせない俺を敬っても良いぞ」
「え」
「山縣少将、根も葉もないことを有馬に吹き込まないで下さい」
羽染が断言したのを見て、朝倉がクスクスと笑う。
「羽染は有馬一筋だもんね」
その声に、羽染はカップを静かに手にとる。コーヒーが揺れている。
以前ならば、カップを取り落としているところだ。
「悪いですか?」
「「わぁ、惚気」」
朝倉と山縣の声が揃うと、有馬が首を傾げた。
「どの辺がですか? 事実でしょう?」
有馬の言葉に、山縣が辟易するような顔をした。
「朝倉、こいつらどうする?」
「とりあえず東京湾に沈める候補だよね」
それが彼等の日常だった。
新たなる、日常だ。
幸せな日々は、続いていく。
続いていくのだ。