羽染晴親への覚書
二日酔い。背もたれにしがみつく。
ソファに腕を回し、羽染晴親は微笑した。
「私は、どのくらい寝ていた?」
「意識を失って、三十時間は経った」
副官の木戸の声に、晴親は目を細める。
――昨日は珍しくミスをしたのだ。いいや、三十時間も眠っていたのだとすれば、一昨日か。酒を浴びるように飲んでから、銃殺した暗殺対象。今の諜報部に置いて、手を汚すことに最も慣れているのは、晴親だった(次点で山縣だ)。
しかし山縣には任せたくなかった。晴親自身は、暗殺など大嫌いだったが、他者に責任を負わせるくらいならば、己の手でとどめをと考えるくらいには重要な人物だったのだ。
だが相手も覚悟があったのだろう。ごく近くで腹部に銃を当てた瞬間、あっけなく短刀で刺されたのだ。青臭い若者だった。さらなる維新を願っていた。それで他国のスパイになった青年だった。
嗚呼、喉が渇いた。体が乾涸らびるようだった。
包帯がいつの間にか巻かれていた腹部に手で触れ、晴親は嘆息した。
「手当てしてくれたのかい?」
「まだ死なれては困るからな」
「有難う」
言いながら、卓上に置かれた缶麦酒に手を伸ばす。
どうせ死ぬのであれば、最後には酒を飲みたいは、晴親の口癖だ。酒豪の朝倉も真っ青なほど、晴親は酒を飲む。缶を置いた木戸はと言えば、あまりいい顔はしていなかった。
それでも以心伝心で酒を出してくれたことに晴親は感謝していた。
ごくごくとのど仏を動かしながら、心地の良い炭酸に身を任せる。
そうしていたら、木戸が机の上に書類を置いた。
「何これ」
受け取り捲った晴親は、【会津藩の動向】というタイトルに僅かに目を細めた。
二枚目を捲り、現藩主の保科秋嗣が犬のように、鷹司由香梨に”飼われている”上、徳川家時と紫陽花宮と肉体関係があったという報告書を目にする。
――これを、彼の父であり、現在自宅で保護している成彬が知ったらどう反応するか。
見過ごす選択を自分がすることは決定事項だった。しかしその決定を知られたら――果たして、自分にとっての太陽は己を侮蔑するだろうか。そんな風に浮かんできた思考に、嗚呼怪我をして心細くなっているのだなと晴親は自覚した。
三枚目を捲る。
そこには己の子息が暴行を受けているという報告があった。逃げ通したのは、強姦されかけた一度だけ。反抗したのは、白虎隊を馬鹿にされた一度だけ。その後朝倉の副官になり、死線に赴くことになった事実、妹を人質に取られて朝倉の暗殺を謀り、己の正義に従って失敗『した』顛末が記されていた。
現在は二人とも、遊学と外交官という形で渡欧している。しかしそちらの件の他、たまの帰国で爆弾事件に巻き込まれたこと等々が記されていた。
すでに得ている情報ばかりだったが、整理してみると残酷だ。
半ばで読むことに躊躇い――飽きたと口にして、晴親は書類を投げた。
「まだ息子に会うつもりはないのか?」
「そうだね」
「どのみち互いに諜報部にいる以上、近いうちに顔を合わせることになるぞ」
木戸の言葉は最もだった。それでも踏ん切りがつかない。
会ってしまったら、現在の自分の外郭を形作っている何かが、砕けてしまいそうな気がした。晴親にとって、息子は相応に大切だった。
「私は帰るよ」
「保科前藩主の元にか?」
「私にとっての太陽だからね」
そう告げて、冗談めかして笑いながら晴親は立ち上がった。腹部が痛むが気にしない。
適度に回り始めた酔いが心地よくて、たったこれだけの飲酒で酔うのだから、体が疲労しているのだろうなと思う。そうは思いつつ、素直に帰宅した。
「――遅かったな。泊まる時は連絡を寄こせ」
すると目の下に赤いクマを作っている成彬が出迎えてくれた。思わず抱きしめたくなったが、そんな己を晴親は制した。自分たちの間にあるのは、絆だから。恋情ではない。
恋心を抱くことがはばかられるくらい、晴親にとって成彬は特別だった。成彬のためならば、何だって出来る。そんな思いに苦笑を噛み殺した。
――だから、成彬の恋心には気づかない。
あるいは無意識に考えないようにしているのかも知れなかった。
「寝ていれば良かったのに」
嘗ての後輩である成彬に親しい口調になってしまった。それだけ、敬語を使う余裕がかき消えるくらいに、会いたかったのだ。
「……待っているのは迷惑か?」
「嬉しいけれど。体が心配になる。私を心配させないで下さい」
「心配、してくれるのか」
「当たり前だよ」
そんなやりとりをしながら靴を脱いだ。
そしてふと思う。亡くなった妻のことは、確かに愛しているのだ。けれど今抱いている感情の名前も、恐らく愛だった。種類が違うと自分に言い聞かせる。それよりも今は、ただただ聞いてみたいことがあった。
「ねぇ、成彬様」
「なんじゃ?」
「秋嗣様に会うつもりはあります?」
晴親のその言葉に、成彬は体を硬直させた。
成彬は、どんな顔をして秋嗣に会えばいいのか分からなかったのだ。
――元々が政略結婚で。己はずっと晴親の事を愛していた。その事実を、けれど息子には知られたくなかった。浅ましいかも知れないが。そもそも死んだふりをして、全てを秋嗣に押しつけてしまった現実がある。その傍ら、自分自身は、ただ幸せに晴親と共に暮らしていたのだ。いい知れない罪悪感が募っていく。しかし。
「……――ああ」
いつまでもこのままで良いはずはないと、分かっていた。
しかし成彬のどこか決意が滲む声に、晴親はと言えば息を飲み狼狽えていた。
やはり……己にとっての太陽は、強いのだなと思う。
「私達の幸せな同居生活が壊れてもですか?」
「……し、幸せなどとは思っておらぬ。こ、これはあくまでも一時的に保護されているだけじゃ」
咄嗟に否定しながらも、確かに幸せを感じている自分を成彬は自覚していた。
その様子に晴親が苦笑する。嘘をつく時、斜め上を見る成彬の事をよく知っていたからだ。
「成彬様、弱音を吐いても良い?」
「お前でも弱音を吐くことがあるのか?」
意外に思いつつも、成彬はその言葉が嬉しかった。晴親はいつだって余裕そうで、本心がみえないからだ。それも、自分にだけ弱音を見せてくれるだなんて、と、半ば感動に震える。
「話してみよ」
「……私はね、良親に会う勇気がないんだ」
その声に成彬は瞠目した。晴親ほど勇気に溢れた人間を知らなかったからだ。
身を挺して己のことを庇ってくれた。命なんて無駄にしても良いというかのように。なのに、だ。怪我をすることの方が余程成彬は恐ろしかったから、困惑する。
「晴親、おぬしの子息は、受け入れてくれる度量があると思うが」
「そうだね。私だって子供のことを信じていない訳じゃないんだ」
「では何故じゃ?」
「それがね、分からないんだよ。ただ、ただただ怖いんだ。何が怖いのかは分からない」
理性では、辛い思いをさせたからだと、晴親は思う。けれどそれとは別の次元で感情が騒ぎ立てるのだ。どのような顔をして会えばいいのかと。恐らく会うとすれば、いつも通り笑いながら会うという予測はすぐに出来た。けれど。
「私は良親に会っても、これからも、嘘を重ねてしまいそうで怖いのかも知れない」
「嘘をついては悪いのか?」
するとあっさりとそんな言葉が返ってきたものだから、晴親は驚いた。
「嘘も時には必要じゃ」
「成彬様……」
「大義のためならば、わしとていくらでも嘘を重ねる。例えそれが秋嗣の前であっても、その覚悟は変わらぬ。全ては会津のためじゃ。……わしにとっては会津が全てじゃ。けれどお主は違う。さらに広い、大日本帝国というこの国、ひいては海外に目を向けている。それもまた大義じゃ。違うのか?」
確かにそれは、常々思うことでもあった。
会津に己がこだわっていたのは、家族がいるからでも何でもなくて、成彬がいたからだと晴親はよく分かっている。
「成彬様は、嘘をついている私を嫌いにはならない?」
「ならぬ」
即答されて、苦笑混じりに晴親は微笑んだ。成彬の決意が揺らがないこと、その言葉が真実を述べていることは、長い付き合いだからよく分かる。
「なんだか勇気が出ました。明日にでも、会ってきます。丁度良親が帰国するから」
その日はそれから、二人で安っぽいカレーを食べた。
晴親はその日、空港のロビーに膝を組んで座っていた。
保科秋嗣は一日遅れで帰国することになっているから、今日は自身の息子、良親が一人で降り立つことを知っていた。傍らの観葉植物を一瞥してから、カップに入った珈琲を両手で握り、その温度で煩い鼓動を沈めようとした。
飛行機の到着を告げるアナウンス。
降りてくる人々を晴親は無表情で見据えた。そしてすぐに、良親を視界に捉えた。
――嗚呼、良親は己の顔を覚えているだろうか。
随分と幼い頃に手放した以上、忘れられているのではないかという覚悟も相応にあった。
それから少しして、正面を良親が歩いてきた。
俯きがちの視界には、己はきっと入っていない。視線をあげさせなければ、邂逅することはないだろう。声をかけなければ。けれど声が凍り付いたようになって出ては来ない。写真を見ていたせいもあるが、自分は一目で良親に気づいたという事実に苦笑する。
その時、不意に良親が顔を上げた。正面からまっすぐと視線があった時、良親が、どさりと荷物を取り落とした姿が視界に入ってきた。
「父上……?」
呆然としたように良親が呟いた。気づけば晴親は、いつも通りの柔和な表情を浮かべていた。吹き出すように笑ってから立ち上がり、正面に立つ。嗚呼、会ってしまえば、どうと言うことはなかったと思った。
「久しぶりだね、良親」
「生きて、生きておいでだったのですか……?」
「よく私のことが分かったね」
「全然変わっていないし、嗚呼……っ、お会いしたかったです」
消え入るような声で告げられると、胸がドクンとした。
「心配をかけてごめんね。これまで、小夜のことも含めて良親には苦労ばかりをかけたと反省しているよ」
「小夜には、もう会ったんですか?」
「ううん。未だだ」
「すぐに会ってあげて下さい」
「――どうして生きているのか聞かないのかい?」
「生きていてくれただけで十分です」
温かい息子の言葉。不覚にも晴親は表情を崩して、涙腺がゆるみそうになった。けれどそんな姿は見せたくなくてただ笑う。
「有難う」
このようにして、羽染親子は再会を果たしたのだった。
――晴親が諜報部に所属している元帥だと良親が知るのはもう少し後のことだった。