泡沫



 僕は正直、どうして生きているんだろうと思ったことがある。
 生に関する現実感の喪失。
 嗚呼、くだらない。

 生まれたときから僕の将来は決まっていた。自分で決定する事なんて、ほとんど無かった。特に幼いあのころは、どこにもそんな力なんて無かった。

 時に褒められれば嬉しくて、だけど――張り付いてしまった作り笑い。気持ちが悪い。
 気分が悪くて、僕は目を伏せ咳をした。


「保科?」

 そこへ声がかかった。よりにもよって、弱っている姿など一番見せたくはない相手の声。
 家時様の声だった。

「平気か?」

 歩み寄ってきた家時様が、柱に手を添えている僕のせを撫でた。
 その温もりにわめきちらしたくなる。子供みたいに、僕は子供だし、ただただ我が儘を言って、そうして、そうして? そうしてどうするんだろう。結局、そんなことを、僕は出来なかったから微笑を浮かべた。

「大丈夫です。家時様に心配して頂けるなんて、嬉しくて仕方がありません」
「……そうか」
「はい。もう、泣きそうなくらい嬉しいです」

 周りばかりを気にしながら、僕は生きている。
 家時様と僕は、最近では少しだけ気楽な関係になってきた。けれど、それでもだ。
 家時様の前で泣くなんて、僕には出来ない。羽染の前では出来るから不思議なんだけど。

「俺は――その」
「なんですか?」
「頼りにならないか?」
「え?」

 唐突な言葉に僕は目を瞠った。家時様は顔を背けて、無表情のまま庭の池を眺めている。

「具合が悪そうだ。それに職務も溜まっているんだろう? なのに泣き言の一つも言わないんだな」
「それは、その……」

 僕は言葉に詰まった。だけど瞬時に思考を切り替える。

「お仕事は楽しいですから。具合はちょっと風邪気味なだけです。僕は、家時様ほど頼りになる人を知りません」

 きっと僕はいつも通りでいられたはずだ。少なくとも自分では、そう思っている。
 ――思っていた。

 けれど。
 家時様は、無表情のまま僕を見た。

「俺はお前の本心が聞きたい。いつになったら、見せてくれるんだ?」

 思わず息を飲んだ。吐息の音がした。それは、その言葉は、純粋に嬉しい言葉であるはずだった。なのに、僕は間違っている。

 何も知らないくせに。何も分かってくれないくせに。何も、何も。そんな我が儘ばかりが口をついて出てきそうになる。完全なる八つ当たりだ。

 あるいはこれは、家時様に甘えているという証拠なのかも知れない。
 けれどどうせならもっと違う形で甘えて、幸せを甘受したい。

「僕は、本心を口にしてます」
「嘘だな」
「嘘じゃありません」
「なら、どうして、そんな顔で笑うんだ?」
「?」
「俺はこれでも少しくらいは、お前の本当の笑顔を見たことがあるつもりだ」

 家時様はそう言うと僕の腕を引いた。転ぶようにして胸にぶつかると、そのまま抱きしめられた。その温もりに、涙腺がゆるみそうになる。嗚呼――もう、僕は戻れないかも知れない。僕はこの温度が嫌いじゃない。優しい温度が嫌いじゃない。なのに仮面は取れない。僕は偽り続けて生きていくのだろうか。だけど偽らずに、嫌われることが怖い。

 無我夢中で何もかもかなぐり捨てて泣き叫ぶなんて、僕には出来ない。
 出来ないんだよ。

「悲しい顔もな」
「家時様、僕は、大丈夫です」
「駄目な奴ほど大丈夫と言うんだと俺は学んでいる」
「っ」
「俺はお前を分かりたい。知りたいんだ、お前のことを少しでも」

 腕に込められた力が強くなった。その温もりに、やっぱり泣きそうになったから、家時様の胸に額を押しつけて、顔が見えないように誤魔化した。家時様の服が濡れてしまわないように気を遣いながら。

 どうしてこんな気分の時に優しくするのだろう。どうして、どうして、よりにもよって。

 そのまま暫く抱きしめられてから、顎を掴まれた。
 涙は未だ乾いていないのに。
 直後降ってきたのは、荒々しい口づけだった。

 口腔を貪られ、必死で息継ぎをする。肩が震えると、片手で強く抱き寄せられた。腰に廻ったその腕の感触の方が、だけどキスより優しい気がした。息苦しさで、僕は涙が零れるのをついに止められなかった。感情と生理的な涙が入り交じった感覚。

 漸くそれが離れたとき、僕は自分から、腕を家時様の腰に回していた。
 ギュッと抱きしめる。

「僕は、家時様が思ってるほど、わかりにくい人間じゃないと思います」
「そうか?」
「本当は我が儘で、それで、っ」
「たまには泣け」

 優しく髪を撫でられた瞬間、僕は陥落した。

「どうして、どうして僕は生きて――……いえ、なんでもないです」

 生きているのか。酸素を吸っているのか。心臓は動きを止めないのか。
 そんな愚問は、きっとこの場では、重い。

「自暴自棄になっているわけでもなさそうだな」
「なってません」
「お前が生きているのは、俺がお前を望むからだ」
「え?」
「俺がお前を愛しているからだ。それ以外にも理由が必要か? それならばいくらでもくれてやる」

 家時様はわかりやすい。多分。最近優しさが見えやすくなった。
 それは僕にとって、きっと嬉しいことだ。
 実に単純明快な理由に、思わず笑いながら、僕は涙をぬぐった。

 家時様の側にいるのは、悪くないなと思った夜だった。
 こんな想いが、いつか泡沫のように消え去るのだとしても。