青嵐
心地の良い風が、青い空の下吹いていった。
黒い髪を攫われた晴親は、片手でおさえると、流れていく白い雲を見る。
「みんな元気にしているかな?」
「榊中将よりは元気だと思いますが」
辟易したような山縣の声に、珍しく和装の晴親が振り返った。
着物からは幾重にも巻かれた包帯がのぞいている。
昨日、少々仕事でやり合って、肋骨を折ったのだ。見ていた山縣の方が冷や冷やしたものである。晴親は強いから、どこかで怪我などしないと過信していたのかもしれない。
「どれだけ周囲に心配させれば気が済むんだ」
吐き捨てるように山縣が言うと、クスクスと晴親が笑った。
「私は自分の葬式には慣れているんだよ」
「残された羽染と小夜ちゃんが可哀想すぎる」
「それもお国のためさ」
晴親に嘯かれ、山縣は俯いた。背の高い緑の草が茂っている。
――自分に人のぬくもりを教えてくれた上司。
決して口に出すことはしないが、山縣は紛れもなくそう感じていた。
ずっとついていきたいと思うのに、飄々としていてつかみ所が無く、いつどこかへ行ってしまうともしれない相手。己はどこまで共に歩んでいくことが出来るのだろうか。
「榊中将は、お国のためとばかり言うんだな」
「丁度良い大義名分だからね」
「中将みたいに、国や世界ばかりを観点にしている者は少数だと思います」
「だけど山縣君だってどちらかと言えば私と同じ視点何じゃないのかな?」
否定できなくて山縣は、ただ青い空を仰いだ。
「それでも――私たちが向かう明日は、だけど結局はこうして立っているこの地から始まるんだよね」
晴親もまた空を見上げながらそんなことを言った。
――ああ、青嵐が吹く。
それからしばらくの月日が流れた。
第四次世界大戦が落ち着いてから、山縣は久方ぶりに朝倉の家へと訪れた。
二人で並び、今日は赤ワインのボトルを開ける。
そうしてグラスを傾けあいながら、青空に浮かぶ白い雲を見上げた。
「なぁ、朝倉」
「なんだい?」
「俺はな、空を見るとお前じゃなくて、別の馬鹿を思い出すようになってしまったんだ」
「嫉妬でもしろって?」
「してもいいぞ」
「誰のことなのか想像がつく。青空が似合う人だろう?」
「ああ」
「好きなのか?」
「眺めている分にはな。ただな、側にいて気づかされたよ。俺が一緒にいるべき人間じゃないってな」
「だったら誰が山縣のそばにいることが許されるの?」
「まぁお前くらいのものだな」
淡々と言う山縣の声に、それでも朝倉は何となく満足していた。
それは、それが、二人でいることが、どことなく当然であるような、そんな心地だ。
「俺達はどこまでもいつまでも、二人でこの国を守っていけるといいな」
「山縣からそんな軍人らしい台詞を聞く日が来るとは思わなかったよ」
「なんとでもいえ――嗚呼、俺達で一体どこまで行けるだろうな」
そんなやりとりをしながら、ふと山縣は言った。
「なぁ朝倉。『お国のため』っていうのは、『自分のため』だと思わないか?」
「そうだね、利己的な理由だろうね」
「逃げ口上だよな」
「それが悪いとは思わないけれどね」
それから山縣がワインを飲み干したので、朝倉が新しいものを注ぐ。
そうしながらふと思いついて口角を持ち上げた。
「もしも生まれ変われるとしたら、また榊中将の部下になりたい?」
「願い下げだ」
「じゃあ僕とはまた友達になってくれる?」
「それは考える」
正直に言った山縣は、ワインをぐいっと飲み、再び空を見上げた。
「ただ俺は仮に生まれ変わっても、また俺という人間に生まれたいな。それでこうやって青嵐の中で――そうだな今度は俳句でも詠んで生きるか」
「山縣が俳句? 悪いけど似合わないな」
そう言って朝倉が笑った。
山縣はそのことを――……晩年まで良く覚えていた。
朝倉の方が先に逝く。
「山縣元帥」
杖をつきながら、外に出た山縣は空を見上げていた。
声をかけられてもそのまま、ただただ高い空を見上げる。
「耳が遠くなってしまったんですか?」
失礼な部下の声に、形だけ苦笑しながら、平和な世界を思った。
いつかの世界に、自分たちの邪魔をするものは何もなかった。
何も恐れるものなど、今となってはなかったのだと感じ入る。あるいは榊中将はそのことに気がついていたのかもしれないとも思うが、朝倉はどうだったのだろうか。
「学問所の講義のお時間ですよ」
先を促す部下の声に、あんなに僅かな時間では、何も大切なことは伝えきれないと思う。
人は皆死んでいく。
それでも世界は廻っていく。
青嵐が巡るように。
「ああ、俺が本当に欲していたものは何だったんだろうな」
リセットできない人生の中で考える。
次に常世で出会ったら、再び友達になるのだろうか?
――ただの『友人』に戻れるのだろうか?
それを己は祈っているのか。
考えても考えても分からないことだらけだというのに、それでも山縣は思うのだ。
朝倉を亡くす恐怖以上のことが、この世には存在しなかったのだという事実について。
「ああ、行こう」
大切な者だけは決して手放してはならないのだと、晴親から教わっていたことに気がつくのは、遅すぎた。
――そんな未来が来ることも、あるいはあるのかもしれない二人だった。