トランキライザー



 ――精神安定剤なんてものが、少なくとも俺には無い。

 赤いMarlboroを銜えながら、神保皐月は溜息をついた。
 今では会津藩主である保科秋嗣公認で、羽染良親という名の信奉する先輩が、第二天空鎮守府の諜報部の管轄に入ったから、会津藩の間諜であった皐月もまた傘下に入った。

「……何でお前と一緒なんだよ」

 英国から露西亜へと向かう空港で、背中合わせの席で。
 視線は合わないまま、互いに知らんぷりをしながら新聞を読んでいて。

 けれど――声をかけてきたのは、久阪歩だった。
 旧奥羽越列藩同盟に属する仙台藩出身のくせに、徳川家のお庭番だった歩の声に、皐月は溜息をついた。

「左遷されたんじゃない」
「は?」

 本当は英語が堪能だから、この任務に就いたのだろうと言うことはよく知っていた。
 それも米国英語よりもUKの英語の方が得意だという噂も聞いている。
 その帰り道に、ちょっと露西亜によるだけだろう。

 だけどそんなことは、皐月にとってはどうでも良かった。
 正面にある観葉植物をただ眺める。

 死なずに帰った以上、皐月にとって、嘗て相対した歩の存在なんて、微々たるものに他ならなかった。これからチケットが隣席で、露西亜まで一緒に行くことは当然知っていたけれど。

「お前さ、本当なんなの?」
「意味わかんないんだけど。俺は俺だし」
「山縣さんが言ってたよ、お前が何で保科様の部下になったのかわかんないって」
「少なくとも上司の戯言すら漏らさないほど、頭脳優れてるからじゃない」
「っ、あのなぁ」
「久阪さんさ、もうちょっと色々と気にしたら。今だって俺達のこと見てる人達、十人以上いる」
「え、ガチで?」
「気づいてないとか情報部失格でしょ」
「や、そこは気づいてるけど。久阪さん呼びにショックって言うか」
「え?」
「俺、歩で良いって言わなかった?」
「……転がってろ」
「冷たいなぁ、皐月くん」
「神保でお願いします」

 いくらでも手の上で転がせるというのが、久阪に対する皐月の心境だった。
 なのに要所要所で掴めない。

 ――そんな点を山縣がかっているなんて言う事を、当然皐月は識らない。

 外見だけ見るならば、金髪碧眼にも関わらず、そして彫りが深いとはいえ、日本人受けする外見を歩はしている。側にいて、視線が惹きつけられないと言えば嘘だった。

「俺だってあれだけやられたら、嫌がらせしたくなるだろ」
「は?」
「皐月君呼び、嫌がれば嫌がるほどしてやる」
「性格悪いな」
「好きに言えよ」

 そんなことを話してから二人は搭乗した。



 降り立った露西亜は、他の国よりも遅いクリスマス一色だった。
 寒いなと思いながら、露西亜っぽく皐月は早速ウォッカを購入する。

「あれ、ジントニック以外飲まないんじゃなかったの?」
「敵の前ではね」
「ふぅん。じゃあ俺は今、”味方”って思われてるわけだ」
「一々ウザいな。なんなの、本当」
「いやがらせ――あ、ちょっと、『ズドゥラーストゥヴゥィチェ』」

 その時通行人に歩が声をかけた。
 それから何事か話してから、歩が笑顔で顔を上げた。

「『ザイヂョーム、フ、カフェ』」
「は?」

 訳が分からず、皐月が眉を顰める。

「ああ、悪い。お前、ロシア語分からないのか」
「何それイヤミ?」
「違う、切り替えって難しくてな。カフェに行こうって話。おごるよ」
「前もそんなこと言って俺のこと暗殺しようとしただろ」
「何、俺に殺されたいのか?」
「まさか」
「だったらついて来いよ。ま、此処で凍死するんならご自由に」
「……」

 素直に皐月は従うことにした。
 元々皐月は、それ程疑い深い人間ではない。ただ仕事に熱心なだけなのだ。仕事というか忠義にあついだけだ。

 歩が連れてきたのは、直球で露西亜料理の店だった。カフェという感じではない。

「『ウ、ヴァス、ィエスチ、ムニュー、ナ、アングリースカム、イズゥイケー?』」

 歩がそう告げて暫くすると、新しいメニューが運ばれてきた。

「はい、英語のメニュー。これならお前も読めるだろ?」

 そんな歩の声に、唇をとがらせて皐月が顔を背けた。

「俺、自慢じゃないけど、日本語しか分からない」
「え、まじで? 本当自慢にならないな!」
「うっさい」
「じゃあ適当に頼んで良い? 嫌いな食べ物とか有る?」
「グリンピース」
「じゃあキノコとか、折角だしピロシキとか、ボルシチとかは平気?」
「うん」

 皐月が頷くと、メニューを片手に歩がロシア語と英語で、注文した。

「それにしても日本語しか喋れないのに、よく羽染にくっついて副外交官なんてしてたな」
「羽染先輩、英語と独逸語ペラペラだし、俺には種類よく分からないけど中華語と、仏蘭西語と伊太利亜語と露西亜語と西班牙語話せるから」
「は!? あいつ、7カ国語も話せんのかよ!!」
「お父さんが五カ国語、お母さんが二カ国語話せたんだってさ。先輩の妹なんて、プラスどこだか分からないけど、十カ国が話せる」
「化け物だろ」
「違うよ。それだけ外交官になりたかったんだよ、あの人。だから、何処に赴任しても良いようにずっと勉強してたんだ。軍人になった方が意外」
「へぇ」
「スパイやってんのも意外。あの人は、日の下を歩いてくべきだと思ったのに」
「――お前は日陰を歩くの納得してんの?」
「ま、貧乏旗本の次男だしね。そっちは?」
「俺は家族居ないからな」
「え」
「別に暗くなる必要ない。先の三次大戦で、家族死んだ奴なんていっぱいいるだろ」
「……まぁね。俺の伯父さんも死んだわ」
「ありがちなんだよ、だから。そんな顔すんなよ、だけど、有難うな」

 そう言うと歩が、皐月の頭を撫でる。

「ちょ、子供扱いすんな」

 二人がそんなやりとりをしていた時、キノコのマリネを始めとした
 料理が運ばれてくる。
 酒を飲みながら、だけど平気なはずなんて無いだろうと皐月は思ったのだった。


 宿へと戻った頃には、歩が酔っぱらっていた。

「本当だらしない」

 水を用意しながら、皐月が溜息をつく。

「飲ませろ」
「なにそれ」
「俺に可愛くお願いされたいのか?」
「吐き気がするわ」

 そんなやりとりをしてから、歩が水を飲むのを皐月は見守る。

「なぁ」
「ん?」
「――何で俺のこと殺さないで山縣さんに引き渡したんだ?」

 その時ずっと疑問に思っていたことを、酔いに任せて歩が尋ねた。

「死にたかったの?」
「まさか」
「……別に。羽染先輩と仲良いって聞いてたからだけど」
「そうか。じゃ、羽染に感謝しないとな」
「何て言って欲しかったの、本当は?」
「一目惚れ」
「死ねよ」
「冗談だって……だけどな、俺は、初めて男なのに、殺したくないって思ったのかも知れない」
「薬盛ったくせに、何言ってんだよ」
「俺は仕事と恋は割り切るんだよ」
「俺は仕事よりも恋心優先してくれる相手と付き合いたい」
「皐月くんって思ったよりもロマンティストなんだな」
「情に厚い会津の人間ですから」
「マジでお前、どこから盗聴してたんだよ……」
「全部」
「――へぇ」

 そう告げると、不意に歩が皐月の体を抱き寄せた。

「っ」

 そのまま唇を重ねる。
 始めは柔らかな感触に襲われ、直後舌が入ってくる。
 それが不思議と嫌とは思えなくて、皐月は目を伏せた。

「なんだろうな、お前と居ると落ち着くわ」

 唇を離すと、歩がそう告げた。

「俺もかも」
「だったら、このまま、付き合う?」
「男相手じゃ起たないっていってただろ」
「プラトニックバッチコーイ」
「無理」
「皐月君相手なら、起つかも知れない」
「……久阪さぁ、本気で言ってないだろ、この酔っぱらい」
「本気なら、ありなの?」
「……」
「別に良いよ、それが『仕事』でも」
「っ」
「何でも教えてやる」
「――馬鹿」

 馬鹿じゃねぇのと、皐月は繰り返した。
 あるいはそんな事を言われなかったのならば、本気で考えたのかも知れなかった。
 焦燥感と痛みが、胸にこみ上げてきたから、ただ皐月は笑う。

「絶対付き合わない」

 それが皐月の結論だった。


 愛する人としか付き合わない――愛されなければ付き合わない、それが彼の矜持だった。
 嗚呼、精神安定剤は、何処にいるのだろう?