夜の帳




 月を眺めながら、有馬の部屋で羽染は和装の胸元を締め直していた。
 今日は有馬は遅番だ。羽染は今日は早番で明日は休みだから、一人有馬の帰りを待っていた。どこにも行かずに、ただ有馬を待っていた。

 こんな何気無い日々がどうしようもなく愛おしい。
 部屋の鍵が回ったのはその時のことだった。

「悪い、遅くなった」
「いや。お疲れ様。何か飲むか?」
「麦茶を取ってくれ」

 一つひとつ有馬のことを知って行くから、今では冷蔵庫の中身のことだってわかる。それがどうしようもなく嬉しい。嬉しかった。冷凍庫に冷やしてあったグラスに麦茶を注ぐ。

「何か食べるか?」
「羽染は食べたのか?」
「いいや、まだだ」
「先に食ってろよ」
「一緒に食べたかったんだ」

 いつだって二人でいられたらだなんて考えて、羽染は苦笑してしまった。
 そんな羽染の体が、有馬は心配だった。
 だから麦茶をおいてすぐに、衝動的に抱きしめた。

「有馬?」
「待ってなくていいからな」
「それは……」

 無理だと続けようとした。いつだって己は有馬のことを待っている。
 人の世の旅路を急ぎ歩んでいるのだとしても、有馬との時間だけは緩慢であれと願う自分がいた。例えば会えない夜など、寂しさで胸が疼く。

「俺がどこまでも追いかけるから」
「有馬……」
「お前がどこにいようとも俺は絶対にお前を手放さない」

 力強い腕の感触と言葉。
 羽染は、なぜなのか涙ぐみそうになったから、笑って見せた。
 時にはこんな感傷的な夜も悪くはないのだと、幸せを噛みしめる。



 ――そして、二人はいっとき離れた。
 羽染は朝倉の暗殺を選んだ。有馬ではなく。

 終わりを覚悟した。戸惑い、悲痛、いつか二人で行きたい場所は沢山合ったと羽染は思う。けれどそれは諦めた。はずだった。有馬の手にかかることができたらそれで満足だったはずなのに。再会してから次々と浮かんでくる欲望。

 今では、羽染の帰りを待つのは、圧倒的に有馬であることが多い。


 羽染は黒いネクタイを緩めながら、エントランスの扉を開けた。
 するとソファに座っていた有馬が立ち上がり、出迎える。

「悪い、遅くなった」
「全くだ。何か食ったか? ポトフを作っておいたぞ」
「有馬は食べたか?」
「当然」

 いつか似たようなやりとりをした。けれど、有馬の回答は己とは違う。
 だが有馬が羽染を心配しているのは変わらない。


 そんな二人を見守るのは、やはり月だった。
 あゝ、もうすぐ夜の帳がやってくる。