ささやかな願い
それは――ささやかな願いだった。
ただただ同じ景色を見ていきたい、ただそんなちっぽけな願いだ。
だけど僕にはそれは許されない。
宮様と僕では、立場が違いすぎる。宮様ほどの高貴な御血筋の方に目をかけて頂いただけでも、本当に名誉ある事なのだ。
そんなことを考えながら今日も僕は生きている。呼吸している。ただそれだけだ。
いつからなのだろう。会津を守るという意志よりも、宮様のことを考える日が増えるようになったのは。これでは藩主失格だ。元々そんな資格無かったのかも知れないけれど。
それでも僕は、会津を守りたい。この意志だけは本当なんだ。
「保科君?」
「……っ、はい?」
「何を考えているんだい? 私と一緒なのに」
宮様はそんなことを言うとクスクスと笑った。
いつもと同じ穏やかな笑み。
僕はこの笑顔が決して嫌いじゃないけれど、いつも変わらないから、
不安しか抱けない。きっとこの笑みを湛えたまま、僕は唐突にあきて切られるのだろう。
そして僕にはそれに抗う術はない。
「許せないな」
「え?」
「私と共にいる時に、他の誰かのことを考えるだなんて」
胸が締め付けられた。
宮様のこういう、色恋じみた言葉遊びにいちいち辛くなる僕がいる。
本気で、そう本気で、そう思われていたらいいのに。
「家時君のことかい?」
「家時様……?」
「――彼といる時は、随分と楽しそうだから」
「良くして頂いているとは思いますが、僕には宮様だけです」
「ふぅん」
気持ちを込めた僕の言葉。それを悟られ重いと思われないように配慮した僕の言葉。
だけど宮様は頬杖を突いて、興味なさそうに笑うだけだ。
ベッドサイドのテーブル前に座り、僕を眺めている。
僕はと言えば、未だシーツを被ったままだ。
「保科君が本気でそう思ってくれる日はいつになったら訪れるのだろうね」
宮様は、何故僕の言葉を信じてくれないのだろう。
けれど信じられて、切り捨てられても困るのだ。飽きられるのが何よりも怖い。
こんな時だけ『子供』だと言い訳するのは嫌だけれど、僕は未だ恋の駆け引きなんてよく分からない。恋なんてしたことが無かったからだ。宮様に体を暴かれるまでは。
「僕の方こそ、宮様の御心がどうすれば得られるのか分かりません」
「どういう意味かな?」
「そのままです」
「私の気持ちが伝わっていないとでも言う気かい?」
「高貴な宮様の思慮深いご思考など僕には分かりません」
「……そう」
宮様は、珍しく深々と溜息をついた。
何か僕は間違った返答をしてしまったのだろうか?
回りくどいやりとりが宮様は好きだと思っていたけれど、違うのだろうか?
考えれば考えるほど分からなくなっていく。
そして胸が辛くなっていくのだ。
好きすぎて辛い。
辛いから、だから、もう好きだなんて考えるのを止めたくなる。好きじゃなくなりたくなる。なのに好きだというこの矛盾。僕はいつまで押しつぶされそうなこの感情に耐えていけるのだろう?
「ねぇ、保科君」
その時立ち上がった宮様が、寝台の上にギシリと両手をついて屈んだ。
首を傾げてみていると、正面から視線が合う。
唐突に近い場所に顔があるようになったものだから、瞬間的に息を飲んで硬直した。
それから膝を寝台に着いた宮様に、正面から顎を手で持たれた。
少し冷たい温度に、皮膚が鋭敏になる。
「好きだよ」
最も聞きたいと常々願っている言葉を告げられて呆気にとられた時、深々と唇を貪られた。いつもの丁寧なキスとは異なり、どこか性急で激しい。
「っ」
反射的に逃れようと舌を絡め取られて、吸い上げられる。
息苦しくなって腰が引けそうになった時、もう一方の手でそれを阻止された。
骨張った指の感触が、直に伝わる。
「ン、は」
歯の裏側をなぞられ、ゾクゾクと熱が燻り始める。
思わずきつく目を伏せると、睫が震えた気がした。
頬が熱い。
「ッ、宮様……」
「保科君は可愛いね。嫌だったかな?」
「……」
再び正面からのぞき込まれ、羞恥に駆られた僕は思わず視線を逸らしてしまった。
まともに宮様の顔を見ていられない。
これでは僕の気持ちなんてとっくに露見しているに等しいのかも知れない。
「そう言う顔をされると保科君も私のことを好きだと勘違いしそうになる」
「僕は……その……」
「好きじゃないだなんて言葉は聞きたくない。少なくとも今は」
「宮様こそ――」
――僕を好きじゃないくせに。
そう言おうとした言葉は、再び口を塞がれて、飲み込むしかなかった。
「……やっぱり保科君には、藩主を止めてもらおうかな」
「!」
「私だけのモノになって欲しい。もう、私は疲れてしまったよ。権力に頼ることにしようと思う。君は今日から、この部屋から出さない」
「宮様……?」
宮様は笑っていたけれど、どこか仄暗い色を瞳に浮かべた。
不安になって、何度か瞬きをする。すると僕の不安を打ち消すように、強く抱きしめられた。
「嫌?」
「……宮様、僕は――」
「気持ちなんて無くても良い。私はもう君無しでは生きられない。君が他の誰かと夜を共にする事なんて考えただけで耐えられない」
力強い腕の感覚に、僕は思わず目を伏せた。
本気なら、どこかで嬉しいと思う自分がいた。
だけど。
「宮様、それでも僕は、会津藩の藩主なんです」
「っ」
「僕は会津と生涯共にあります」
「私にはそれを許さないだけの力がある」
「例え立場が変わろうと、この意志だけは変わりません」
「――そう」
宮様の顔が見られなかったから、肩に額を押しつけた。
僕の声は笑っていたはずなのに、なんだか涙が出てきてしまった。
「だけど、僕は宮様のことを愛しています。ダメなのに」
「!」
「宮様のことが好きです。だから、もうそんな事言わないで下さい。辛くなるから」
「保科君……真に受けるよ」
「……いつだって信じてくれないのは宮様です」
ポツリと呟くと腕にさらに力がこもった。
そんな些細なことがいちいち嬉しい。嬉しいんだ。
「私は、私はね、私達の関係の落ち着く所をいつだって探していたんだ。だけど――本当に保科君がそう言ってくれているのなら……満足することにしたい。そう思うんだけれどね、私は貪欲だ。その言葉だけじゃ満足できない」
「僕には、何も出来ないんです」
「そんなことはないよ。口約束で良いからくれないかな」
「?」
「私だけを愛すると誓ってもらえるかな?」
「宮様だけを? 当然です、僕はずっと前から――」
流れるように口にして、ああ、言い過ぎてしまったなと後悔した。
弄ばれて捨てられる未来が過ぎっては消えていく。
「……」
「ずっと前から何?」
「宮様……」
「私の恋人になるとここで誓ってくれないのならね、やっぱり君のことは、今日から生涯側に置く決断をするよ。嫌、誓ってもかな」
「……」
僕には告げる正答が思いつかない。
なんて答えれば宮様は満足してくれるのだろう?
ただ、もう嘘はつけない気がした。なぜなら咄嗟に唇が動いてしまったからだ。
「宮様こそ、生涯僕だけを見ると誓って下さい」
「ッ」
「僕のことだけを、見てくれたらいいのに」
「――そうしたら私のものになってくれるかい?」
「……いいんです。冗談です」
「待って、保科君」
「僕、そろそろ帰ります。明日も早いから」
「行かせない。保科君も私のことを好きだと思って良いのかな?」
「……」
「逃げないで。いいや、逃がさないからね。もう、私は本当にたえられないのだから」
たえきれないのは僕の方だった。
宮様は今度は僕の両肩に手を置くと、額に唇を落とした。
「今日から私達は恋人だ。いいね?」
「え……?」
「約束するよ、君だけを見るとね。だから、私の恋人になって欲しいんだ」
僕は、その言葉に何一つ、その時は実感をもてなかった。
けれど。
以後僕は、どろどろに甘やかされることになる。
僕は、確かに紫陽花宮様を、愛している。