白い病室にて



 国際条約機構とアトランティス軍の和平条約締結。

 そのニュースを、ベッドを半分ほど起こして、英字の新聞で如月輝也は目にしていた。ニューヨークにあるその病院の病室は白が基調になっていて、右手の壁は一面がガラス張りだ。左手には大きな窓がある。

 紛れもなく輝也は人間だ。普通の人間だ。けれど、アトランティス人の師を持ち、戦時中はそちらの陣営からもたらされる仕事をしていた。だが人間の体には過ぎた力や技術力を与えられ、体に反動が来た。

 最初に吐血をしたのは、もう十数年ほど前になる。

 以後、現代医学では病名がつけられない――しいて言うなら多臓器不全のような状態で、次第に体は蝕まれていった。

 元々白かった肌が、今では青白い。綺麗な金色の、長めの髪が、肩のところで外はねになっている。目の色は、藍色だ。輝也は今年で三十六歳で、親の顔は知らないが、純粋な日本人ではないのは明らかだった。育ての親である師には、クォーターだとチラリと教えられた事がある。

 師の名前は、妃魔夜。非常に端正な顔立ちをしていて、不老不死だ。アトランティス人であるが、アトランティス人は見目が非常に麗しく特殊な力と超科学技能の知識を持つ以外は、人間と差異はない。魔夜と輝也は、色彩だけはよく似ている。髪の長さも同じくらいだが、あちらはどちらかと言えば外はねだ。

 その魔夜の弟子は、輝也の他にもう一人いて、名前は真先まさきという。苗字は、安斉のようだ。輝也は長らくシングルファーザーとして己の二人の子供を育てつつ、その真先の一人息子である深成の事も見守って、人間として過ごしていた。だが、大戦が始まり、師の元へと戻ってからは、我が子とも顔を合わせてはいない。

 己は、もう長くはない。

 輝也はそれを知っていた。そんな時、誰に会いたいかと問われたならば、答えは一つで――誰にも会いたくない、が、導出した答えだった。やつれ、やせ細った己の姿を、見せたくはない。それは死に場所を探す猫に似ているのかもしれない。

 だから偽名を用いて、この病院の特別室に、入院して死を待っている。
 ここは、ホスピスだ。

 亡くなった妻を愛していなかったわけではない。だが、輝也の心は、ずっと真先にあった。だが真先は、妃凛という、魔夜の実子であり――恋人でもある人物に惚れていると、若い頃から知っていた。真先の中の特別は、凛ただ一人らしい。あちらは叶わぬ恋でも構わないと思っているようだったが、輝也は、叶わない恋をしたくはなかったので、気持ちをずっと押し殺してきた。だが、不思議なもので、死が間近に迫ると、脳裏に真先の顔が浮かんでくる。

「お食事ですよ」

 そこへ看護師が訪れた。運ばれてきた入院食を台の上に載せると、看護師は微笑して、すぐに踵を返した。輝也が他者と、最低限の会話しか望んでいない事を、熟知しているからだ。食べやすそうなスープとパン、気を遣ってなのか和食の気配を感じさせる豆腐を見てから、輝也は新聞をベッドサイドのテーブルに置いた。

 ズキンズキンと、全身が痛む。中でも酷いのは胸だ。体の節々に痛みが走っている。

 食欲など無い。だが、義務的にスプーンを手に取り、一口・二口と、ミネストローネを口に運んだ。左手の甲には点滴針が刺さっていて、そちらからも栄養を取っている。

「あと、三ヶ月くらいか」

 宣告された余命を、輝也は思い出していた。ここに入院したのは三か月前で、その時の診断で半年だと宣告されていた。医師は原因不明だが、多臓器不全だという診断を下していた。アトランティス人の力を得ていた事は、輝也は言わなかったし、伝えたとしても、己の体を治すには、それこそアトランティス大陸に残る超科学医療で処置されなければ無理だと理解していた。そして、師は、恐らく己にそれを施さないだろうという確信があった。人間の生死に介入する事を、基本的によしとしないからだ。そして輝也自身も、助かりたいとは思っていなかった。これが、運命さだめなのだろうと、漠然と思っていた。それは恋心を諦観した事に似ている。

 普段、自信家で嫌味に振る舞っている輝也であるが、実際には様々な物事を諦めて生きてきた。

「俺が死んだら、真先は喜ぶかもしれないな」

 自嘲気味に笑った輝也は、食事の大半を残した。

 魔夜に似ている輝也の事を、凛は比較的可愛がる。凛の方が二歳年下の三十四歳なのだが。そして三十五歳の真先は、それが面白くない様子で、いつも眉間に皴を刻み、嫌そうな顔で見ていたのが印象的だ。

「少し……疲れたな」

 呟いてから咳き込んだ輝也の掌を、赤い血が濡らした。それを拭いてから、ベッドを倒して、輝也は横になる。そのまま目を閉じれば、すぐに暗闇に飲み込まれた。あるいは意識を喪失したのかもしれない。

「――さん。面会ですよ」

 次に輝也が目を開けたのは、看護師に揺り起こされた時の事だった。不審に思いながらも、ベッドの区度を変え、上半身だけで起き上がる。そうして看護師が出ていくのを見ていると、入れ違いに一人の青年が入ってきた。真先だった。明るい茶色の髪は短く、切れ長の目をしていて、瞳も同色だ。

「……なんの用だ?」

 真先が扉に施錠したのを確認しながら、輝也は冷ややかな声を放った。それから、吐き捨てるように吐息すると、今度は口角を持ち上げて、嫌味に笑って見せる。

「さしずめ、凛に探せとでも言われたか?」
「探しはした。消息を辿らせないようにしていただろう?」
「ああ、春日かすがにちょっとな」

 雨己春日というのは、情報屋だ。アトランティス陣営と国際条約機構の間で上手く立ち回っていた青年である。真先と春日は、真先が春日の家庭教師をしていた縁で親しいが、春日の口は固い。

「何故病院にいる?」
「愚問すぎて滑稽だな、真先。病院には病者や怪我人がいると決まっていると思うが?」

 輝夜がニヤリと笑ったまま答える。すると真先の表情が険しくなり、眉間に深い皴が刻まれた。それを見た直後、輝也が咳き込む。視界が霞んだ。だがはっきりと、掌を汚した紅は見えた。それは同時に、真先にも見られたという現実に他ならない。

「おい、大丈夫か?」

 慌てたように歩み寄り、真先が輝也の背中を擦った。ぜぇぜぇと苦しそうに呼吸をしている輝也の瞳は、痛みと苦しさで、涙が浮かんでいた。少しして、落ち着いたところで、輝也は瞬きをしてから、再び笑った。

「それも愚問極まりないな。大丈夫ならば、俺は今ここにはいない。それより、どうしてこの場所が分かったんだ?」
「凛に紙片を渡されて、この住所へ行けと言われた」
「やはり凛が俺を探していたのか? 用件は?」
「……探していたのは、俺だ」
「お前が? それこそ、何故?」
「……」

 真先が沈黙した。表情は相変わらず厳しいが、その眼にはどこか苦しそうな色が浮かんでいた。

「素直になれと、言われたからだ」
「何に対して?」
「――自分の気持ちに」
「どんな感情なんだ?」
「輝也。どんな病状なんだ?」
「あと三ヶ月は生きられるらしいぞ」
「っ」
「だから話を今だけは聞いてやってもいい」

 輝也がそう言って意地の悪い顔で笑うと、真先が唇を噛んだ。

「魔夜先生に頼めば、助かるだろう。何故そうしない?」
「いいや、それは無理があるだろう。アトランティスの医療に与れば、それは人としての輪廻の輪からはずれ、不老長寿になるという事だ。それを先生はよしとはしない」
「だが、だからと言って――」
「いいんだ。死を怖いとは思わない」

 寧ろ、楽になれる。輝也はそう思う。もう、真先の事を、真先への愛を、そして愛する事の苦しさをも、感じなくてよくなるのだから。少なくとも、意識上では、そう考えていた。

「それで、話は?」
「輝也……俺は」
「ああ」
「――お前を馬鹿だと思ってる」
「は?」

 輝也が眉を顰めながらも笑ったその時、不意に真先が輝也を横から抱きしめた。

「な、なんだ? 何を……」

 その強い腕の温もりに、輝也が目を瞠る。

「俺は、とうにお前の事が、好きになっていたんだぞ」
「――え?」
「だから逝くな。頼むから」

 目を伏せている真先の眉間には、相変わらず皴が刻まれている。けれどその声には沈痛な響きがあった。力の入らない両手の指先で、おずおずと輝也は、真先の腕に触れてみる。すると胸が情動的な意味で苦しくなって、恋情で満ちた。

「なんで、今更そんな事を」
「気づいたのが、最近だったからだ。俺も、馬鹿だった」
「お前が馬鹿なのは知ってる。ただ、止めてくれ」
「……」
「止めてくれ、離してくれ。頼むから」
「……嫌だ」
「じゃないと、死ぬのが怖くなる。もっとお前と一緒にいたくなる」

 切実な声音で輝也が言う。その華奢な肩が震え始める。気づくと輝也は、静かに泣いていた。

「一緒にいればいい。俺が、魔夜先生に頼んでくるから」
「無理だ。きっと叶わない。本当に俺の事が好きだというのなら、それなら――残りの時間、一緒にいて欲しい」

 震える声音で告げた輝也に対し、目を開けた真先は、しっかりと頷いたのだった。