塩のケーキに神対応



 令和の時代、初めての兎年のその日。

「行ってくる」

 いつもの通り、橘内家の玄関を開けて、主人の砂月が姿を現した。見送っているのは配偶者の香織だ。

「行ってらっしゃい」

 微笑を浮かべた香織は、線が細くどこか儚げな美貌の持ち主だ。一方の砂月は、唇の両端を持ち上げると、誰もが見惚れるような端正な顔で頷き、そのまま歩き始めた。質の良いスーツを身に纏っていて、腕時計はスイスのあるブランドの品だ。父より会社を受け継いだ砂月は、二十七歳という若さで、歴史ある企業の代表取締役をしている。

 そんな砂月と香織が出会ったのは、見合いの席での事だった。一昨年前の事で、当時香織は二十一歳だった。家同士が取り決めた、典型的な政略結婚ではあったが、二人が否を唱える事は無かった。

 どちらも見目麗しく、まさに理想の二人だと、周囲は度々噂をしたものである。
 一年間は結納などで費やし、盛大な式をしたのは昨年の十一月の事だった。
 まだ結婚して三か月しか経過していない新婚の二人が家を構えたのが、この葉澤区であり、閑静な住宅街でも人当たりの良い二人の事はすぐに評判になった。

 香織は少しだけ内気ではある様子だが、話しかければ時折小さく微笑を零す事もあるし、何より主人の砂月の評判が高い。香織を大切にしている事が伝わってくると囁かれている。

 ――実際、砂月は香織に対して、非常に紳士的だ。三歳年下の妻を気遣い、家事も手伝えば、度々土産を買って帰り、手料理には賛辞を忘れず、寝台の上でも優しい手つきだ。

 砂月が乗り込んだ車が走り出したのを見送ってから、香織は踵を返して家の中へと入った。そして鍵を閉めてから、扉に肩で触れる。その左手には、銀色の結婚指輪が輝いている。

「退屈……」

 ポツリと香織が呟いた。

 日がな一日家にいるばかりで、特に外出するような趣味も持ち合わせていないため、刺激が少ないのは事実なのかもしれない。今日の予定はといえば、宅配便が届くから受け取っておいてほしいという砂月の願いを叶える事程度で、他に予定は無い。基本的に家事は、外注しているので、時々気まぐれに料理をするだけだ。

「料理……」

 漠然と香織は考えた。あのいつも温厚な砂月は、果たして不味い品を出されたらどんな反応をするのだろうか、と。簡単な事だ。塩と砂糖を間違えた、愛らしい妻を演出すれば、その結果を見る事が出来る。

 香織は砂月の事が好きだ。見合いの席で一目惚れして以来、砂月の事ばかり考えている。だから砂月の事は全て知りたい。

 この日、香織は大量の塩を入れたケーキを作った。


 ◇◆◇


 この日は役員会議があったため、いつもよりも帰宅時間が遅くなった。砂月は、車の後部座席に乗り込み、片手の端末で香織に遅くなるという連絡がきちんと届いている事を再確認する。既読がついていた事に安堵してから、続いて別のスマートフォンを取り出した。砂月は複数の携帯端末を所持している。その内の一台を手に取り、あるサイトを表示させた。『別れさせ屋』――そう記載されたサイトに、ログインする。

「無事に宅配便は届いたのか?」

 どこか楽し気な声音で、砂月はメッセージボックスを閲覧する。予定では、本日、宅配便の業者を装った別れさせ屋が、『愛する妻』のもとに、荷物を届けるかたちで記念すべき八回目の接触を図っているはずだった。

「そうか。今日は雑談をして、家に入って、珈琲を振る舞われたのか」

 別れさせ屋から届いた証拠画像と、報告に目を通しながら、砂月は口角を持ち上げる。
 なお砂月は、別段香織と別れたいわけではない。

 香織をより深く支配するために、弱みを握りたいだけだ。別れさせ屋に肉体関係までは持たせるつもりはないが、不倫を感じさせる写真を得て、香織に突きつける日を、砂月はここ最近ではそれなりに楽しみにしている。砂月は、香織を愛している。だから本当は、たとえば抱きしめているような画像だって撮影させたくはないが、全ては香織を思っての事だと考えている。

 一目惚れだったのだ、こちらも。

 見合いの席で香織を見た瞬間から、どのようにして手に入れるかしか考えていなかった。それは単純に入籍すれば良いという事ではなかった。香織という人間の全てを、手中に収めたかった。

「別れさせ屋が妬けるな」

 呟いた声音は冷ややかだったが、その口元だけは笑みの形に歪んでいた。

 その後、秘書が運転する車が自宅前に停車したので、後部座席から砂月は降りた。車は後部座席は防音仕様だ。秘書は何も知らない。だから人の良い代表取締役としての顔で部下を労ってから、砂月はインターフォンを押した。するとすぐにドアが開いた。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 砂月の姿を目にした香織が微笑する。砂月はそれに対して、満面の笑みを返す。
 中へと入り、砂月は香織を抱きしめた。
 その背中に香織も両腕を回す。その瞬間だけ、どちらの表情からも笑みが消えた。相手には見えないからだ。だが再び視線を交わせば、お互いに笑顔だ。

「今日は、ケーキを作ったんだよ」
「そうか。丁度会議が終わって、甘いものが欲しい気分だったんだ」
「よかった。夕食は?」
「まだだ。ただ、先に香織の作ったケーキが欲しい」

 そんな甘いやり取りをしながら室内へと入り、二人はまっすぐにダイニングへと向かった。そこに置いてあった生クリームのケーキを見ながら、砂月がネクタイを緩める。すぐに香織はケーキを切り分けた。大量の塩入りのケーキを。

「はい、どうぞ」
「いただきます」

 上品に手を合わせてから、砂月がフォークを手に持つ。
 そして伏し目がちにケーキを口に運んだ。
 香織は反応を楽しみに、目を輝かせている。傍から見れば、褒められる事を疑っていない子供のような、純真な瞳に見える表情をしていた。

 ケーキを咀嚼しながら、砂月は一瞬だけ視線を揺らした。塩と砂糖を間違えたというよりも、どちらかといえば塩の塊を食べているに等しい状態の口腔に、最初は自分の頭を疑った。砂月の考えとして、ケーキとは甘い品だった。そして香織も先程、『甘い』という言葉を否定しなかった。だが明らかに塩の塊が入っている以上、間違えたというスケールではない。

「砂月さん、美味しい?」
「――最近流行しているという、塩のケーキか」
「え?」
「俺は会社で話にしか聞いた事は無かったから、人生で初めて食べたな」

 ……塩のケーキ?
 混乱したのは、香織の方だった。この反応は考えていなかった。
 砂月は疑う様子もなく、フォークを置き、柔和に笑って香織を見ている。

「香織が俺のために作ってくれた品を残す事は気が引けるが、俺はあまり好みではないな。しかし最近の流行は凄い。俺も、もう歳だな」
「……そう」

 これは俗にいう天然ボケという状態なのだろうかと、香織は焦っていた。

「ところで、今日は荷物が届く予定だったはずだが」
「ええ。業者の方が届けて下さって」
「そうか」

 頷きながら、砂月は思案した。宅配業者を装った別れさせ屋に心を惹かれかけているため、離婚しようと嫌がらせに塩をケーキに入れたという事はあり得るのだろうかと、約三十秒間熟考した。いいや、あり得ない。そんな事になれば、別れさせ屋の担当者には、社会的に人生をリタイアしてもらうほかない。その手はずは整っている。

「さて、夕食にしよう。ケーキは、香織が全て食べてくれ。好みなんだろう?」
「――砂月さんが帰ってきたら、全体の形を見せてから切り分けたかったから、まだ食べてないんだよね」
「一つ味わってみると良い。しかし知らなかった、香織が塩派だとは。卵焼きもいつも甘いから、俺は誤解していたよ。なんなら明日、岩塩を買いに出かけようか?」

 笑顔の砂月の声には、棘も怒りも感じられない。だが客観的に考えれば、これは嫌味だろうと香織は判断する。だが喧嘩をしたいわけではないのと、思った通りの反応を得られなかった事を理由に、もうこの件は忘れる事に決めた。

「明日は映画を見に行く約束だったし、帰りに調味料専門店に行くのは良いかも。砂月さんは、何派?」
「俺は貧乏舌だから、レトルトも嫌いじゃないんだ。チープなカレールーが美味いと感じる事も多い。例えばスキー場の食堂でだと、特にな。そうだ、今度二人で滑りにいかないか?」
「行きたいよ。砂月さんとだったら、どこにでも一緒に行きたい」

 そんなやりとりをした後、ケーキは冷蔵庫に収納された。そしてハウスキーパーが作り置きしていった食事がテーブルに並んだ。今日は白のワインのコルクを抜いてから、二人で乾杯をする。終始笑顔で二人は談笑していた。

 ――その後、就寝時間が訪れた。

 同じ寝室で眠る二人の間には、甘い空気が漂っている。
 しかし甘い上辺とは裏腹に、お互いに内心では考えていた。『自分の方が相手を愛している』と。だから、『もっともっと堕ちてこい』 と。双方同じ心境だ。結婚しているとはいえ、お互いの認識としては、それぞれが片想いのままだ。まだ二人は本心を見せ合った事は一度も無い。典型的な両片想いである。

 だが、双方そうだとは知らないままで、この夜はその後眠りに落ちた。


 ◇◆◇


 翌日二人は、揃って家を出た。砂月の運転する外車に乗って、最寄りの映画館の駐車場へと向かい、その後は評判の恋愛映画を見た。正直二人とも、同じ時間に上映されていたサイコホラー映画の方に興味があったのだが、言い出す事はしない。『らしくない』からだ。

 美貌の二人が並んで恋愛映画を見ている姿に、周囲から視線が飛ぶ。

 香織は別に無感動だったが、感極まったかのように涙腺を緩めたし、砂月もまた怜悧としかいいようのない視線を向けていた。それから、香織の手に己の手を重ねた。

 上映後、二人の間でスパイス専門店の話題が出る事は無く、予約してあった高級フレンチ店でラムを味わいながら、それぞれ恋愛映画の感想を語った。

「本当に胸がはちきれそうだったよ」

 香織が述べると、砂月が柔らかく微笑した。

「泣いている君が綺麗で、俺は集中できなかったけどな」
「え? 見ていたの?」
「ああ。手を握らずにはいられなかった」
「あ、あの時……嬉しかった……」

 頬を染めて見せた香織を眺めて、砂月は内心では『くだらない』と思っていた。人生で恋をリアルに感じたのは、香織との出会いの場だけであり、それ以外の虚構には興味が無いからだ。だが、もっと香織の泣き顔は見ていたいので、今度は『泣ける!』という映画を選択しようと考えていた。香織の泣き顔は麗しい。ウソ泣きか否かに、砂月が着眼した事は一度も無かった。

 同様に、今日はもう一つ予定がある。別れさせ屋と打ち合わせ済みなのだが、プライベートで遭遇するという現場を仕込んであるのだ。約束の地は、ショッピングモールだ。

「香織。少し花を買いたいから、この後は買い物に行きたい」
「ついていきます」

 疑う様子一つなく、香織は頷いた。

 しかしながら脳裏では、首を傾げそうになっていた。砂月は定期的に、花を香織に贈る。だがそれは単なるプレゼントや気配りだと思っていた。もしかして、砂月は花が好きなのだろうかと、改めて考えた形だ。

「どんな花を買うの?」
「君に似合う花がいいな」
「いつも貰ってる」
「もう花は飽きてしまったか? 初めて会った時、好きだと話していたように記憶しているが」
「気を遣ってくれなくて良いのに」

 再び香織は頬を染めた。本音としては、『その調子でもっと私に気を遣え』と思っていた。砂月の脳裏を自分で占めさせたいからだ。

「愛する相手に気を遣わないで、一体いつ気を遣うというんだ?」
「ま、待って。誰かに聞かれたら――」
「何か困る事があるのか? 俺達は夫婦なのに?」

 余裕たっぷりに砂月が笑って見せた。なので、香織も照れたフリをするにとどめた。
 こうして食後、二人は花屋が入るショッピングモールへと向かった。

「あれ? 橘内さん?」

 すると予定通り、別れさせ屋が、顔なじみの宅配業者の素振りで顔を出した。

「?」

 知らんぷりで砂月が歩みを止め、そちらを見る。

「橘内さんですよね? あ、俺、宅配業者の遠藤です」

 ちなみに偽名だ。直接会うのは依頼した日以来だなと思いながら、砂月はチラリと香織に視線を向ける。

「砂月さんの知り合い?」

 その結果、まさかの返答が来た。砂月と遠藤の両者が硬直しかかったが、どちらもそれは外には出さなかった。なお香織は、純粋に砂月にしか興味が無いため、本当に遠藤の顔を記憶していないのだが、砂月と遠藤には、それが分からない。

「宅配業者、か……会社で直接受け取るのは、俺ではないから、俺は存じ上げないが」

 砂月はすっとぼけた。遠藤は泣きたくなったが、堪える。

「ほ、ほら! 昨日も珈琲をごちそうになったじゃありませんか!」

 遠藤は踏ん張った。砂月に偽装報告していたと思われたくなかったからだ。それを聞いた香織は何度か思案した後、目を丸くした。

「ああ、昨日、砂月さんへの荷物を届けて下さった宅配便の方!」
「そうです、そうです。何度もお邪魔させて頂いて、お茶までご馳走になって、すみません」
「こちらこそいつも届けて下さって有難うございます。砂月さん、ええとこちらは、宅配便の業者の方なんだよ」
「――香織がいつもお世話になっております」

 卒なく対応しながらも、砂月は内心でモヤモヤした気分になっていた。明日は記念すべき十回目として、ついに遠藤に香織を抱きしめさせて、盗撮するという一大イベントがあるのだが、この親密度で可能なのか不安になった。これは再調整と打ち合わせが必要かもしれない。

「そ、それでは! 俺は失礼しますね。ごゆっくり!」

 遠藤は引き際を見極める事に長けた男だったため、その場を後にした。見送った砂月は、しらっとした気分だった。その横顔をちらりと見て、香織は考える。

 ――失敗したな、利用すればよかった、と。宅配便の業者を利用して、砂月を嫉妬させるという美味しいシチュエーションを逃した事を悟ったのだ。嫉妬されてみたい、砂月に。もっともっと砂月の独占欲を感じたい。そんな感覚が全身を苛んだ。

「あのね、砂月さん」
「なんだ?」
「あの方……たまに私を生々しい目で見る気がして……自意識過剰かもしれないけど」

 嫉妬させる方向に転換した香織の言葉は、別の意味で砂月の心を抉った。プロの別れさせ屋を名乗っていたくせに、演技が露見している疑惑まで持ち上がった。折角楽しみにしていたというのに、これでは香織の弱みが握れないかもしれない。

「香織は美人だからな、変な人間も多いし気をつけた方がいい。なんなら警備会社を変えるか?」
「ううん、そこまでは……」
「香織の事は、本当なら俺がずっとそばにいて守りたい」
「ありがとう、砂月さん」

 香織が儚く微笑んだ。砂月は真面目な顔を取り繕っていたが、内心で遠藤の評価を著しく下げていたのだった。その夜は、打ち合わせに精を出した。


 ◇◆◇


 翌日は、休日出勤のフリをして、砂月は家を出た。秘書は迎えに来なかったが、砂月が自家用車で出向く事も時折あるので、香織が疑問に思った様子は無い。ホテルのラウンジに向かった砂月は、タブレット端末を開いて、遠藤からの報告を待っていた。

 一時間、二時間、三時間……時間ばかりが流れていく。
 果たして遠藤は――……。
 別れさせ屋の母体の会社に苦情を入れようかと考えつつ、砂月は珈琲を飲んでいた。

「!」

 そんな遠藤から連絡が来たのは、午後四時の事だった。午前十時に家に荷物を届けたはずだったから、合計六時間もかかったわけだが、その結果……。

「よくやった」

 思わず砂月は小さく拳を握った。タブレットの画面には、遠藤からのメッセージと画像が表示されていた。そこには遠藤が香織を抱きしめている写真が映し出されている。場所は、玄関の扉の前だ。外だ。完璧だ。

 報告によると、それとなく躓かせて抱き留めた所を、外部待機していた撮影班が写真に収めたとの事だった。最高の結果である。あとはこれが、会社に手紙で届いたという設定で、数日おいてから突きつけるだけで良い。

 肩から力が抜けた砂月は、ゆっくりと珈琲を飲み干した。


 ◆◇◆


 ――そして、数日が経過した。

 遠藤はそれとなく別の業者と変わったとして、去っていった。計画していた通りである。ここの所、砂月は終始機嫌が良かった。

「香織はどんな反応をするんだろうな」

 急遽帰宅すると連絡を入れた後、砂月は会社を出た。秘書には急用だと伝えておいた。入手した封筒を手に、鼻歌さえ零しそうになりながら砂月は帰路につき、それから顔を引き締めた。激怒はそれらしくないから、淡々と理詰めで追い詰めて楽しもうと考えて、ワクワクしていた。その瞳は、玩具を見つけた子猫のようだった。

 インターフォンの前に立ち、二度瞬きをしてから、砂月が鳴らす。
 するとすぐに香織が顔を出した。

「おかえりなさい、急用って、何かあったの?」
「香織、話があるんだ」

 深刻な声音を形作ってから、俯きがちに砂月は中へと入った。いつもするように抱きしめる事はしない。香織は『真面目な表情も本当に格好いい』と感じながら、その後に続いて中へと戻った。

 砂月が無言のまま、リビングへと向かう。そしてソファに座ったので、香織も対面する位置に腰を下ろした。

「これを見てくれ」
「?」

 封筒をテーブルの上に砂月が置く。片手を伸ばして、香織がそれを受け取る。

「会社宛てに届いたんだ」

 消印などの偽装は完璧である。香織は、封筒の宛名を見て、仕事関係の話はめったにされないため不思議に思った。そして中を見て、写真を手に取り目を見開いた。

「これ……何?」
「俺が聞きたい。そこに映っているのは、先日ショッピングモールで会った宅配業者の方だな?」
「そうだっけ……? うん、多分……?」
「香織、あの日生々しい目で見られていると言っていたが、何故その相手と抱き合っているんだ?」
「ち、違う、待って」

 砂月の眼差しが冷酷なものへと変わった。内心では笑い出しそうだったが、演技は完璧だ。一方の香織は、非常に困惑していた。そういえば、転んだところを抱き留められた記憶があるが、何故それが写真に撮られているのか理解できない。

 しかも砂月の会社に届いた、これが解せない。ちょっとカメラを構えるタイミングが良すぎはしないだろうか? 狙って撮ったかのようにさえ思える。だがこの時転んだのは偶発的な事で、具体的に言うのであれば宅配業者の方が先に転んで、足払いされるような形になり躓いたのだから、偶然とも言い難い、と、ぐるぐると香織は考える。

 そして何より砂月は人気者だ。砂月狙いの老若男女をひっそりと蹴散らしている香織の経験上、自分達の仲を裂くべく誰かがカメラを構えていてもおかしくないとも判断できた。

「何がどう違うんだ? 分かるように説明してくれ」
「この人は――……」

 砂月を怒らせたくはないし、不仲にはなりたくない。だが、確かに抱き合っているようにしか見えない写真が目の前にある。香織は必死で思考を巡らせた。

 そんな困っている香織を見て、砂月は腕を組んだ。
 予定では、蒼褪めるか取り乱すかすると考えていたからだ。だが、どちらでもない。
 やはり遠藤ではダメだったのか、全て露見しているのか、と、嫌な予感に襲われる。

「……――転勤したの」
「それで?」
「私の事が好きだから、最後に抱きしめさせてほしいって言われて……」

 そんな話は聞いていないぞと、砂月は耳を疑った。転勤ではなく、別れさせ屋のフェードアウトの一形態としての言い訳としての異動の話だ。一体、香織は何を言い出したのだろうかと、じっと見据える。

「断ろうとした時には、もう抱きしめられていたんだよ……私は、砂月さん一筋だから、すぐに拒んで、そして離してもらったけど」

 ここにきて、香織が目を涙で潤ませた。自由に涙腺を酷使できる特技の持ち主である。

 砂月は戸惑った。これは完全に、香織の『嘘』である。何せ、当日の音声データの録音記録も届いているからだ。しかし、どうしてこんな嘘を? と、不思議に思った砂月は、右手の人差し指でこめかみを解す。

 過去、砂月は、自分の思い通りに物事を動かそうとして、失敗した経験は一度きりだ。それは――『父親をさっさと蹴落としてお前が社長になれ』と直接的に語りかけてきた祖父とのやりとりの時の記憶で、四歳の頃の思い出だ。

 砂月の祖父は、砂月とよく似た性格をしていた。その祖父の遺言は、『もし思い通りに出来ない相手がいたならば、それは同族だと心得えておくが良い。サイコパスという名をしているらしいが、我々を型にはめようなどとは実に下らない』との事だった。

 ……。

 考えてみれば、香織には疑問な点は多々ある。直近の例を挙げるならば、塩のケーキか。いいや、それ以前から、時々不可解な言動はあった。結婚前のたまにしか会えなかった時には気づかなかったが、一緒に暮らしてからは、あきらかなウソ泣きも何度も見た。着眼していなかったから――ウソ泣きでも麗しければ構わないと思って気にしていなかったから特に指摘はしてこなかったが、考えてみるとあからさまだ。

「腹を割って話そう、香織」
「私は嘘なんてついてないよ! 私を信じてくれないの?」
「待ってくれ。君は、その……」

 砂月はそこで言い淀んだ。

 どちらを聞くべきか悩んだからだ。『サイコパスなのか』と『俺を好きなのか』だ。後者が出てきた理由は明確だ。もしも己が塩のケーキを出して反応を見る場合、『気を惹きたい』からだと正確に導出した結果だ。もし嫌いだったら、それとなく気づかせないように塩分量を増やして天国へ逝ってもらう、じわじわと。

「……」
「砂月さん、私を信じて!」

 香織が繰り返した。

 信じてと口にしつつ、香織もまた熟考していた。しかしやはりどう考えても、写真はタイミングが良すぎる。この推測が正しいとするならば、写真を撮らせた候補に挙げるべきなのは――砂月、当人も考えるべきだ。だが、何のために? 不倫の証拠を作らせて、どうする? そんなのは、基本的に離婚したいからだ。そんなのは許す事が出来ない。

 まず最初にそう考えたが、続いて、ふと疑問に思った。

 あの塩の塊を食べても天然ボケじみた言動で流す人間が、直接糾弾……そんな事はあるのだろうか? と、香織は思った。『もしかして私の反応が見たいのではないか』と考えて、『何故?』と、なる。そんなものは、自分に当てはめれば明確だ。『好きだから』だ。

「もしかして俺を好き?」
「もしかして私を好き?」

 そこで二人の声音が重なった。二人は双方目を見開き、お互いの瞳を見る。

 暫しの間、その空間には沈黙が横たわった。どちらともなく、ぎこちなく頷いたのもほぼ同時だった。

「……俺は、一目惚れだった」
「私もです……え? 本当に?」

 二人は今度は見つめ合った。静寂が訪れる。
 次に二人が頷いたのも、ほぼ同時の事だった。この日初めて、二人の気持ちは通じ合ったのである。


 ◇◆◇


「そうか、そうだったのか……では、これからは俺は自分を隠さない」
「うん、うん」

 二人は寝室へと移動し、お互いの体に腕をまわしている。

「残酷な俺を見せたら嫌われるのが怖かった」
「もっと見たい」
「思う存分、今から教えてやる」
「私の方こそ、本音を伝えたら嫌われると思ってて……」

 二人は濃厚な口づけをする。舌と舌を絡め合い、何度も角度を変えて、お互いの口腔を貪る。目を閉じている香織の長い睫毛が震えているのを、うっすらと瞼を開けて砂月は見据えている。

 二人とも、過去の人生は思い通りになってきた。だが、本当に欲した相手が思い通りに動かず苦労した――と、思っていたら、まさかの理解者同士だった。それが尋常ではない幸福感を齎している。何もかもが上手くいきがちであるから、孤独を抱えた者同士だった昨日までとは異なり、今二人はただ純粋に、お互いだけを求めあっていた。


 ◆◇◆


 このようにして――サイコパスな二人は、お互いの気持ちを確認しあった。
 しかし、世間の人々は知らない。

「まぁ、素敵なご夫婦ね」

 二人で並んで歩けば、美貌の二人には視線が集まる。優しく香織の肩を抱く砂月はまさに理想の主人であり、その隣に佇む香織は儚い美人だ。人当たり良く挨拶する二人は、現在もご近所で大人気だ。

「私には出来た主人です」
「いやいや、俺にこそ過ぎた配偶者なんだ」

 二人が口々にそういえば、周囲は微笑ましい顔をする。
 なお、とある別れさせ屋は倒産し、遠藤と名乗っていた社員の行方は誰も知らないらしいが、それは特筆すべき事柄では無いだろう。





     【了】