天狗はかく語りき





 ――時々、不思議な夢を見る。

 双眸を開けた、譲原春花は、上半身を起こしながら、今見た夢をぼんやりと思い出した。

 日溜まりの中が舞台で、木の葉の囁くような音がしていて、とても穏やかな夢の記憶。

 昔からよく見る夢で、登場人物がもう一人いる。鴉の濡れ羽色の瞳と髪をした青年が出てくる。優しい色を浮かべた眼をしていて、表情も柔和だ。夢の中ではいつも、『またこの夢だ』と理解するのに、朝になって目を覚ますと風景も人物の顔立ちも鮮明には思い出せなくなる。それが常だった。

「まぁ、夢には深い意味なんて無いのかなぁ?」

 呟きながら、春花は布団から這い出た。

 大学に入学し、三年目。二十一歳になった今年は、久方ぶりに父方の祖父の実家へと訪れた。普段暮らしている場所と比較するならば、まさに秘境のような土地である。独特の山岳信仰がある町で、小さい頃など遊びに来る度に、『珠樹天狗に攫われるぞ』と祖父に脅された思い出もある。なんでも、ブナ林の中に住んでいるという昔話があるらしい。

 今回この土地を訪ねた理由の一つは、実はその一風変わった山岳信仰について、調べるためだ。卒論の題材にする事に決めたのは秋の事で、今の内から準備を始めるべきだと指導教授に勧められた結果でもある。

「やだなぁ、卒論……一年後の今頃は、修羅場かな」

 戦々恐々としつつも、春花はその後顔を洗ってから、身支度を整えた。
 鏡を見ながら、己の耳に何気なく触れる。

 そこには、三日月のようなホクロがある。生まれつきのものだそうで、たまにピアスに間違われるが、正真正銘のホクロだ。祖父は春花が生まれた時それを聞いて、『天狗紋は縁起が良い』と語ったらしい。なんでも、珠樹天狗の番いには、天狗が月を齧ったようなホクロが備わっているというお伽話があるそうだ。それを天狗紋と呼ぶらしい。

「まぁ、天狗自体、イヌワシがモデルだという話もあるし、イヌワシは番で行動するとは言うから、天狗に番伝承があっても不思議は無いけどね。イヌワシ……って、あ、今日はブナ資料館でやってる猛禽類展に行くんだった。急がないと」

 慌ててキッチンへと向かい、簡単にパンを食べてから、歯磨きをして春花は外に出た。泊めてくれている祖父の、俊季としひでは、既に外出していた。近隣の温泉へと出かけるのが、春花の祖父の趣味だ。

 二月の風は冷たく、この土地ではまだ雪が深い。

 歩道を進みながら、コートのポケットに両手を入れた春花は、手袋を持ってくるべきだったと後悔した。靴に関しては、長靴を祖父に借りている。

 ブナ資料館は、駅前にある。この町の数少ない観光スポットらしい。

 だが地元民は特別足を運ばないとの事で、イベント時でもなければ、非常に空いているという噂を聞いた。それも祖父が教えてくれたものだ。なんでも、資料館の案内をしてくれる『岩鞍』という人物が、非常に伝承に詳しいとの事で、祖父は春花に、じっくりと話を聞くと良いと勧めたものである。




 資料館に到着したので、春花は扉を押した。すると受付の所に立っていた青年が振り返った。その胸元に『岩鞍』という名札があるのを見て取り、春花は会釈をする。青年はスーツ姿だったが、民芸品らしい首飾りを下げていた。

「こんにちは。猛禽類展の見学と、あとは電話で民話の語りをお願いしていた、譲原です」
「ああ、俊季さんのお孫さんだと伺っている。今日は、宜しくお願いします」

 岩鞍が両頬を持ち上げて、穏やかに笑った。その優しげな黒い瞳を目にした時、春花は既視感を覚えた。どこかでこの二十代後半くらいに見える青年と会った事があるように思う。尤も、狭い町であるから、すれ違った事が過去にあったとしても不思議はない。

「宜しくお願いします」
「分からない事があれば、いいえ、興味がある事があれば、何でも聞いて下さい。俺にもわかる範囲でしか、答える事は出来ませんが」
「助かります。そうだ、あの――鷹と鷲って、そもそもどう違うんですか? 初歩的ですみません」
「大きさですね」
「なるほど」
「ワシタカ展を開催中、という謳い文句では、ある意味では分かりにくいかもしれないな」

 和やかに笑いながら述べた岩鞍の声は、聞き心地が良い。
 話しやすいと感じながら、片手で岩鞍に促されたため、歩きながら春花は続いて尋ねる。

「この写真は、どちらですか?」
「これは、イヌワシですよ」
「イヌワシって確か、絶滅危惧種なんですよね?」
「ああ。絶滅危惧TB類だ。環境省の分類だと、レッドゾーンとなる」
「それが、この、雪狗せっく町のブナ林に来るんですか?」
「ええ。繁殖行為が確認されています。雪狗の土地には、イヌワシに由来すると考えられる伝承も多い」

 素直に耳を傾けながら、春花は重ねて問う。

「なるほど。そういえば、鷹とか鷲って、どのくらい生きるんですか?」
「――長くて四十年ほどだな」

 すると春花を見た岩鞍が、どこか考えるような顔をした。
 その瞳が僅かに翳ったように見えて、春花は首を傾げる。

「自然界に生きるものには、逃れられない宿命の一つだ」

 だが岩鞍は軽く頭を振ると微苦笑して、すぐに穏やかに答えた。なので春花も気を取り直して続けて訊く。

「食物連鎖?」
「そうとも言えるだろうな。例えば、餌としては――」

 岩鞍が展示パネルの一角へと視線を向けた。つられて視線を春花が向けると、岩鞍が歩き出す。春花もその後を追いかけた。

 こうして見学が始まった。

 主にイヌワシの生体について写真付きで展示されている説明文を、一つ一つ丁寧に岩鞍が説明してくれる。何度も頷きながら、春花は耳を傾けていた。そう広い展示ブースではなかったのだが、熱心に話を聞いていたせいなのか、時が過ぎるのはあっという間だった。

 町内放送が午後の五時を告げた時、春花はハッとした。

「すみません、話し込んでしまって。確か、ここは午後四時が閉館ですよね?」
「平気だ。こちらこそ長々と話してしまって悪いな」
「いえ、もっと伺いたいです。それに普通のブナに関する展示物も見たいので、また明日来てもいいですか?」
「ああ、勿論。予約を入れてもらった昔話もしていない事だしな。いつでも来てくれ」

 そんなやりとりをして、この日は帰る事とした。


 陽が落ちている外は既に暗い。幸い雪は降っていなかったが、明日こそは手袋を忘れないようにしようと春花は誓った。こうして祖父の家へと帰宅した後、二人で夕食を取ってから、入浴してすぐ、春花は本日の成果をルーズリーフに走り書きする。

「折角教えてもらってるんだし、録音させてもらった方がよかったかなぁ」

 就寝前にそう呟いてから、スマホのアラームをセットする。そうしてこの日は少し早く眠った。そしてまた夢を見た。しかしその夢は、朝になれば忘れてしまうとよく知るそれで、実際翌朝起床した時には、上半身を起こしつつ、春花はぼんやりとしてしまった。

「……うーん」

 ただし昨夜の夢は、いつもと少し違った。いつも夢に出てくる青年の顔が、昨日顔を合わせた岩鞍に似ていた気がしたからだ。似ていたというよりも、そっくりで本人のようだった。

「日中残差っていう奴かな?」

 漠然と呟いてから、この日も身支度をし、軽食を口にしてから、春花は資料館へと向かった。そして歩き出してすぐ、思わず両手をポケットに突っ込んだ。

「また忘れた……」

 昨日決意したばかりだというのに、今日も手袋を忘れてしまった。しかし早く資料館に行きたい気持ちが強かったので、そのまま雪道を進む。何故なのか、もっと詳しく話を聞きたい気持ちが強い。

「おはようございます」

 こうして資料館に向かうと、本日も岩鞍の姿があった。春花を見ると、岩鞍が両頬を持ち上げて、穏やかに笑った。

「おはよう」
「今日も寒いですね……」
「この土地ではマシな方だぞ?」
「本当に? 私の手なんて凍りそうなんですけど」
「手袋は?」
「忘れました!」

 春花がポケットから出した両手を見せると、岩鞍が困ったような顔をした。それから春花に歩み寄ると、不意にその右手に触れた。

「冷たいな」
「岩鞍さんは手が温かいですね」
「いいや、俺は普通だ」

 岩鞍が両手で、春花の右手をギュッと握る。温めようとしてくれているのだとは分かったが、なんだか気恥ずかしくなり、春花は微苦笑した。

「明日は手袋をはめてくるから大丈夫」
「……ああ。それを勧める」
「今日は、ブナについての展示を見せて下さい!」

 話を変えた春花から手を放すと、ゆっくりと岩鞍が頷いた。


 それから岩鞍は、そっと春花の肩に手で触れ、上階に続く階段を見た。理由は不明だが、岩鞍に触れられると、どことなく懐かしいような気がしてきて、春花の胸の奥が温かくなる。不思議と、心がトクンと疼く感じがする。

「あちらにある」

 こうして本日も岩鞍に案内してもらい、春花はブナやこの土地の四季について学んだ。本日は開館してすぐに訪れたため、午前中いっぱい話を聞いてから、正午を迎えた。丁度ブナ林についての話が一段落した所だったので、春花は問う。

「岩鞍さんは、お昼休みとかはあるんですか?」
「寧ろ、客がいない時はほとんどが休憩時間だぞ?」
「あ、今日は私がいる! え、えっと、午後もお話が聞きたいんですけど!」
「勿論構わない」
「でもちゃんとお昼ご飯は食べないと。お弁当ですか?」
「――普段は、近くの定食屋に出向く事もある」
「そこって今日もやってますか? 私は食べるあてが無いから」
「やっているはずだ。一緒に行くか?」
「え? いいんですか?」
「ああ。案内する」

 こうしてその後は、二人で資料館の外に出た。冬の風が険しくて、慌ててまた春花はポケットに手を入れようとしたが、その時岩鞍が苦笑して手袋を春花に渡した。

「え? これは?」
「使ってくれ」
「岩鞍さんの手が冷えるんじゃ?」
「俺は慣れているから平気だ」
「……じゃあ、片方だけ貸して下さい。もう一つは岩鞍さんが使って」
「それでは片手が冷たいだろう?」
「手を繋げば温かいです!」

 我ながら名案だと考えた春花は、左手に手袋をはめ、右手で岩鞍の左手を手に取った。すると岩鞍が驚いたような顔をしてから、短く吹き出した。そのまま二人で手を繋いで歩き、定食屋まで向かった。

 名物だというソースかつ丼を注文してから、お茶を飲みつつ二人でテーブル席で待つ。その間もずっと話していた。何故なのか、岩鞍と話していると楽しさと懐かしさのようなものを感じる気がして、春花は時間が経つのが惜しく思える。

「岩鞍さんは、どうしてブナ資料館で働く事にしたの?」
「理由は二つある」
「ほう」
「一つは、探し物ものをするために町中で過ごしたかったからだ」
「探しもの?」
「ああ」

 微笑して頷いた岩鞍が、首から下げている民芸品の首飾りに触れた。

「それは見つかったんですか?」
「まぁな」
「ふぅん。二つ目は?」
「いつまでも、あるブナの大樹の記憶を、語り継ぎたいと思ったからだ。人々の記憶に刻みたかった」
「それで昔話もしているの?」
「ある意味では、そうなるな」

 そんなやりとりをしていると、ソースかつ丼が運ばれてきた。
 柔らかな肉とジューシーなソースがよく合うご当地の名物に、春花が舌鼓をうつ。
 食後はまた、手を繋いで、二人で展示館へと戻った。
 そして春花は、ふと初日にも見たイヌワシの剥製を一瞥した。

「そういえば、私聞いた事があるんだけど、鷲や鷹って『自分で嘴や爪を岩にぶつけて折る』って本当なんですか? 老化して肥大化した時に、一度折って再生を待つ、とかって」
「それはデマだ」

 即答した岩鞍が、それから吹き出したのを、春花は見ていた。

 なんだか気恥ずかしくなってしまった。本当に己が知らない事ばかりだと、春花は考える。もっと下調べをしてくるべきだったと改めて後悔した。

「なるほど」
「ただ――雪狗山の天狗になる為には、山頂付近の、神宿磐かみすくいわで、修行中のイヌワシが嘴と爪を折るという伝承がある」
「え?」
「兎に角、昔話が多い土地だからな、そちらもなんでも聞いてくれ」

 岩鞍の楽しそうな声音に、大きく春花は頷いた。

「そういえば祖父から、珠樹天狗という名前を聞いたんだった。どんなお話なんですか?」

 何気なく春花が告げると、追憶に耽るような眼差しをしてから、悠然と岩鞍が笑った。

「ああ。そうだな――ざっと昔、ある所に……」

 こうして岩鞍が語り始めた。





 物心ついた時。
 与えられた野兎の肉を、夜野は、弟の、狗鷲である、昼奈に奪われていた。それが、初めて世界を理解した瞬間の記憶である。名前をつけたのは、父である雪狗山の天狗神、夕陽だ。卵から孵化し、数十日。それまで己らを抱いていた母は、普通の狗鷲だった。そんな母に合わせて、恋に堕ちた父もまた、常時は狗鷲の姿を象っていた。

 巣があるのは、巨大なブナの木の上だった。

 もう少し下るとブナ林があるが、この近隣には、ブナの木は二本しか存在しない。
 理由は一つで、ブナは毒素を出して、他のブナを駆逐してしまうという習性があるからだ。遺伝子が同一様態の個体のみが毒から逃れる為、二本だけが存在している。

 餌を必死で求めて嘴をあけた夜野であるが、昼奈ばかりが餌を食べる。狗鷲は兄弟喧嘩が多いため、片方しか巣立たないというのは、有名な話だ。自然界は厳しい。空腹を覚えるようになったのは本能だったが――この、『物心がつく』という経験をしたのは、夜野のみだった。天狗となる素質を宿して生じたのは、夜野のみだった。

 最初にそれに気づいたのは、父だった。大層喜んだ父天狗は、それから楽しげに、二本あるブナの、巣がある側に話しかけた。

「珠樹! 我の子が、天狗となる素質を持っているぞ」
「それは、それは。喜ばしい事ですね」

 するとブナの木が答えた。響いてきた流麗な声音に、夜野は目を丸くする。見ていると、木の枝の所に座る麗人の姿があった。艶やかな長い髪を、後ろで一つに結んでいる。その存在が人間ではなく、珠樹という名のブナである事に、すぐに夜野は気が付いた。

「すぐに、神宿様に報告してまいる!」
「いってらっしゃい」

 この時の夜野は、まだ『言葉』をほとんど理解出来なくて、喋る事は叶わなかった。だが不思議と聞き取る事は出来た。それは毎日、父と珠樹が人間の言語で会話をしていたのを生まれながらに耳にしていた結果なのだろう。

「大丈夫。お父様は、すぐにお戻りになりますよ」
「……」
「神宿様というのは、この山の一番上におられる、この山で一番偉い神様です。動植物の血を引くものには自然界の、そして私や夕陽様のような神格しんかくを持つ存在には、この雪狗山独自の、序列があるのですよ」
「?」
「夜野も、将来的には、夜野もまた、神宿様の元に鍛錬に行く事になります。色々と学ぶと良い。私も色々教えてあげるから」

 柔和に微笑む木の神に、この日夜野は魅了された。
 季節は、春。
 まだ孵化してすぐの事である。




 その後――両親は、獣として、昼奈に重点的に餌を与えるようになった。最初は空腹と寂しさに耐えていた夜野であるが、代わりに父が、人型を象る術を教えてくれてからは、毎日が明るくなった。ブナの木の枝に座ったり、幹から出てくる珠樹が、夜野の相手をしてくれるからだ。勿論飛び方は、弟と共に両親に習ったが、それ以外の時分、夜野は珠樹とばかり遊んでいた。遊んでいるつもりではあったが、珠樹は適切に人の言葉や山での礼儀作法を教えてくれる。夕陽にも教育を頼まれていたらしい。

「ざっと昔、あるところに――」

 人間の幼子に語り聞かせるように、珠樹はいくつものお伽話を聞かせてくれた。事実もあればただの伝承もある。

「そのお話はもう聞いたぞ!」

 生まれて一ヶ月半、既に大きくなりつつある夜野は、初めて人型になった時はそれこそ五歳児程度の大きさであったのが、今では十代半ばの外見に変化した。狗鷲が巣立ちを迎える梅雨の時期が来れば二次性徴は完全に終えた姿になるだろうし、その後五年もすれば成鳥となり、人間でいう所の十八歳から二十歳程度の姿を象る事が可能になる。天狗の素質があっても、序盤は変わらない。

「随分と言葉が上手くなったね」
「それは珠樹のおかげだ」
「その通り。先生の言う事はよく聞くように」
「う……」
「中身はまだまだ子供だね」
「も、もう立派な大人だぞ! 餌をきちんと自分でとる事も出来るようになったんだ!」

 両頬を膨らませて、夜野が唇を尖らせる。それを見ると、珠樹が吹き出した。
 木漏れ日の下、穏やかな初夏の昼下がり。
 雪狗山の一角には、笑い声が絶えなかった。




 その後、梅雨が来た。弟の昼奈は無事に巣立った。無論、まだ両親のテリトリーにおいて、狩りの練習などに励んでいる。両親は、気を利かせてくれて、隣のブナに新しい巣を作るとの事で、珠樹のブナに残された巣は、そのまま夜野が使って良い事になった。

 そうして秋が来ると、昼奈は父母のテリトリーからも独り立ちしていったが、この部分は、夜野に父が『天狗教育をする』という名目で、残る事を許された。

 夕陽達夫妻は、隣のブナの木――珠樹の双子の弟なのだという、木魂の元に新たに構築した巣で幸せそうにしている。木魂もそちらの会話に混じる事があり、あちらはあちらで楽しそうだ。遠目にそれを眺めつつ、夜野は今日も珠樹と視線を合わせる。

「今日の昔話は、中々だったぞ!」
「夜野はこういうお話が好きなの?」
「ああ。姫と結ばれるというのは、ようするに父上と母上のように、番となるって事だろう? 俺も早く、番が欲しい」
「恋に恋するお年頃、かな」
「な! 子供扱いするな!」

 夜野が抗議すると、クスクスと珠樹が笑った。するとブナの木が揺れて、葉が擦れる音がした。そして、内心で考えた。もう己は、本当に子供ではないのだと。何せ、きちんと恋という感情を学んでいた。夜野は、珠樹の事がとっくに大好きになっていたのだ。だけど、その気持ちを無理に押し付ける事もしない。その程度には、精神的にも成長していた。

 このようにして、新しい冬が来た。

 雪狗山の名を冠するくらいには、この一帯は、雪が深い。紅葉の衣から白銀の着物に装いを変えた珠樹の元で、夜野は生まれて初めて雪を見た。それからも、成鳥する五年目までの間、毎年二人で山の雪化粧を見た。幸せなひと時が続いていく。





「もう……二十三年も経つのかぁ」

 立派な狗鷲――天狗の素質を持つ存在になった夜野を見て、珠樹が微笑した。艶やかな唇の両端を持ち上げて、まじまじと夜野を見る。もう、己と変わらない年頃に見える。どちらも二十代半ばの姿だ。

「立派になって、私も嬉しいよ」
「だろう?」

 大人びた夜野は、もう『子供扱いするな!』とは言わなくなった。余裕ある素振りに、ドキリとさせられる事があって、珠樹は時折困ってしまう。鴉の濡れ羽色の髪と瞳をしている夜野は、精悍な顔立ちをしていて、今では背丈も珠樹よりずっと高い。

 人の姿を象る時、夜野は黒い羽だけはそのままにしている事が多い。今もそうだ。その腕と羽で抱きしめられ、珠樹は微苦笑してみせた。頬にさした朱には、気づかれたくない。当初は抱きつかれても、きっと寂しいのだろうと思っていた。だが今では、その温度と肌触りが優しく感じて、頻繁に珠樹は戸惑う。

「ん、何?」

 白い珠樹の顎を持ち上げて、じっと夜野が覗き込んでくる。

「綺麗だな、珠樹は」
「まぁねぇ。ブナは美しい木だと私も思うよ。我ながら」
「そろそろ答えを聞かせてくれないか?」

 夜野の言葉に、珠樹は息を呑む。

「俺の番になって欲しい」
「いつか、ね」
「約束だぞ?」

 ……珠樹とて、夜野の事を十分すぎるほどに意識している。ただ、自分達には越えられない寿命の差がある。

「私から見ると、まだまだ夜野は若いからなぁ」
「今、珠樹は二百五十歳だったな?」
「正確には、二百五十六歳です。ブナとしてはまだまだ若輩者だけどさ」
「俺はもう成鳥だ。時期がきたら、神宿様の元へと行く」
「それは、そうだね。夕陽様も、待ち遠しいと思ってるみたいだね」
「――父上に習った」
「何を?」
「天狗紋をつけておけば、番になる約束をしたという証になると」

 夜野がそのまま、珠樹の右の耳朶を噛んだ。するとツキンとその部分が疼いてから、熱を帯びた。唇が離れてすぐ、真っ赤になって珠樹が耳を押さえる。

「これで、約束となった」
「い、いつかって、言ったよね?」
「うん? いつか、時が来たら、番になってくれるのだろう?」
「――ほ、ほら、人間は、さ。『前向きに検討します』は『お断り』だったり、『遺憾です』は『激怒』だったりするんでしょう? いつかというのも、だからつまり、さ」
「方便だという事か?」
「う……」
「俺の番になるのが嫌なのか?」

 悲しげな声を発した夜野に対し、珠樹が引きつった顔で笑う。無論、嫌なわけではない。珠樹だって夜野が好きだ。

「嫌ではないけど、いつかは、いつかだよ。今じゃないよ」
「そうか。では、きちんと俺が、天狗神になったら、また請う。俺を愛してほしいと」
「……う、うーん。だ、だからさ、今も愛はしてるよ? でも、私達は寿命も違うでしょう?」
「神にとってはあって無きようなものだろう? 特に雪狗山の天狗となれば、俺は永劫の時を生きる事になる。ほとんど不老不死となるぞ」
「そうだねぇ。私の場合も、木がある限りは生きているから、あと二百年くらいは、何事も無ければ無事だけどさぁ」
「二百年も先の死別など、俺は問題にはしていない。現に、父上だって母上を失ったけれど、今も天狗として生きている」
「夕陽様は、それでも一途だよね? 後添えをどうかと、神宿様に言われているのに、ずーっと断っているし」
「それは俺にも受け継がれている。俺だって、珠樹以外は考えられない」
「口説き方も教わった感じ?」
「? ただの本音だ」

 そんなやりとりをしてから、夜野が珠樹の唇を掠め取るように奪った。ドキリとした珠樹は、反射的に目を閉じる。そのままキスが深くなっていった。二人が唇を重ねるようになって、もう一年は経った。


 秋の山には、ブナの木の葉が色づいて落ちている。

「そのいかにも獲物をとります、みたいな、眼の色。本当、反則だよね」
「どういう意味だ?」
「さぁね」

 夜野の瞳にも、存在にも、とっくに己が絡めとられている事を、珠樹はよく自覚していた。

 ただ、気持ちに応えることには戸惑いがある。

 ――天狗神になるには、雪狗山では試練がある。それを越えられなければ、通常の狗鷲と同じ寿命しか、夜野には与えられない。そして素質を持つからといって、皆がその試練を乗り越えられるわけではない。寧ろ、乗り越えられない場合の方が、圧倒的に多い。

 だから、いつか、なのだ。

 いつの日にか、夜野が無事に天狗となったならば、少なくとも二百年程度はそばにいられるだろうと、そう珠樹は考えていた。

 既に外見年齢は、夜野の方が上であり、彼は二十代後半に見える。この日はその後夜まで一緒に話していた。夜野の腕と羽に包まれながら、珠樹は星空を見上げた。それから、ゆっくりと目を閉じる。

「もうすぐ、神宿様の所に行くんだよね?」
「ああ。必ず試練を乗り越えて戻ってくる。そうしたら、俺の正式な番になってほしい」

 珠樹の耳に触れながら、夜野が笑みを吐息にのせる。そこには、天狗紋がしっかりとついている。月を噛んだみたいな、そんな小さな痣がはっきりと見える。

「いつか、ね。それより、約束だよ? ちゃんと、戻ってきてね」
「勿論だ。俺は、珠樹を一人にしたりしない。俺は、ずっとそばにいたい」

 そう述べた夜野は、珠樹の肩に顎をのせる。艶やかな黒髪が頬に触れた時、嘆息してから、散らばる着物に忍ばせてあった首飾りを、珠樹は手繰り寄せた。この雪狗山で産出される鉱石を蔓細工の紐に通した品である。勾玉の形をしている。

「これ、持って行って。君のために作ったお守りだよ」
「っ、これは……有難う、珠樹」

 両頬を持ち上げて、夜野が嬉しそうな瞳をした。そして両腕にギュッと力を込めて、さらに強く珠樹を抱きしめた。その夜、二人は朝が来るまで交わった。

 夜野が旅立ったのは、その翌々日の事だった。
 見送った珠樹に、双子の弟である木魂が声をかける。

「行っちゃったねぇ」
「うん……」
「寂しくなるねぇ」
「……きっと、帰ってくるよ。多分、きっと、おそらく」
「来ないと思ってる声に聞こえたけど、僕としても応援しておくよ。珠樹姉さんの初恋が叶う事」
「な」
「――長いブナの生涯ではあるけれど、恋に堕ちるのは稀だからね」
「うん。でもまぁ、私と夜野の約束は、あくまでも『いつか』だけどね」
「無事を祈ろう」

 木の葉が音を立てる中、そんな話をした双子は、それからそれぞれ空を見上げた。

 最近の秋の空は不穏で、今日の空も紫色だ。旅立ちにはふさわしい色には思えないし、時折稲妻が空を走っている。それが不安をより一層、かき立てる。

「どうか、無事に……」

 呟き珠樹は目を伏せたのだった。夜野の生存率の方が、無事に帰還する確率の方が低い事は、知っていた。








 ――狗鷲は、自分で嘴や爪を岩にぶつけて折るというのは、ただのデマだ。
 だが、こと『天狗』に限っては、事実である。

 まずは、人の姿を象り、崖を登る事から、試練は始まる。人の形の手の爪は、すぐに折れ、剥がれ、指先は真っ赤に染まる。痛覚は当然ある。そうして秋口から冬までの間、長い崖を、羽を用いずに登り切り、初雪が山を染める頃合いまでには、神宿様と呼ばれる岩の前に立つ。この雪狗山の一番神格の位が高い神の前に。

「参ったか」
「はい」
「それでは、春に至るまでの間、その嘴と残りの爪を折るように。新緑と共にそれが治癒し再生したならば、そなたもまた真の天狗神となる」
「頑張ります」

 当然、嘴と爪が無ければ、人型であろうが狗鷲の姿であろうが、餌をとる事は叶わない。飢餓に耐える事もまた、試練と修行の一環だ。

 それ以降、神宿様は沈黙した。次に口を開くのは、試練が終わった時だと、父天狗から聞いていた夜野は、最後に首から垂らした飾りの勾玉を握った後、狗鷲の姿を象る。そうして、神宿様に嘴をぶつけて折り始めた。強い痛みがあったのは最初だけだったが、その刺激だけでも、心までもが折れそうになってくる。けれど――どうしても、珠樹に再び会いたいからと、無心に嘴を岩にぶつけた。少しずつ少しずつ、嘴が抉られ、削られていく。

 この試練、失敗すれば、待ち受けるのは、ただの死だ。

 素質があっても神になる事が叶わなければ、獣の狗鷲同様に、その命は尽きる。
 それを分かってはいたけれど、全力で夜野は励んだ。珠樹の事だけを考えながら。

「必ず戻って、番になるんだ。いつか、なんかじゃなく、春になったら……」

 そんな想いで嘴と爪を折り切り、そこからは大雪の最中、空腹と極寒に耐える日々を迎えた。彼の羽は、雪にまみれ、凍り付いた。それでもその瞳には、希望の煌めきがある。瞬きをする度に、脳裏を珠樹の笑顔が過ぎる。狗鷲の頭部から下げたままの首飾りが、時折吹雪に揺られて音を立てた。

 そうして一冬が過ぎるのを、時に意識が遠のきそうになりながらも、夜野は待った。




 雪狗山がある一帯の冬は険しく、雪解けは五月だ。場所によっては、山頂付近は雪が一年中残る事もある。朦朧とした意識で、巨大な鳥の体躯を神宿様の前で横たえ、傍から見ていると、生きているのか死んでいるのか不明瞭な状態となった夜野に対し――声がかかったのは、梅雨の手前の事だった。

「夜野、そなた。生きておるか?」
「……っ」
「息はあるようだな、これは認めるしかあるまい」
「あ……」
「その見事な嘴、爪、そして神々しい羽――立派な新天狗となりおって」

 神宿様の声だと理解し、ゆっくりと夜野は体を起こした。まだぐらつく意識の状態ではあったが、気づくと人の姿を象っていた彼は、ぼんやりと己の右手を見た。そこには、再生した爪が見えた。それにハッとして、首から下がる勾玉を握る。

「俺は、天狗に?」
「ああ。もうそなたは、一人の立派な天狗神だ。新たなる神を迎える際、一つ願いを叶える事としているが、何か望みはあるか?」
「――俺は、俺は……珠樹に、ブナの木の神に、番となってもらいたい」
「……」
「ずっと、珠樹と共にいたい」
「ほう。天狗紋は既につけておったのか?」
「はい」
「そうか。しかしながら、神とて寿命はある。序列により、岩である余や、天狗――即ち、余の一番の遣いであり、山で二番目に力の強い夜野や夕陽とは異なり、木の神には、寿命がある」
「長くても四百年と聞いております」
「――ずっと、か。一つ、余に可能な提案があるとするならば、この雪狗の一帯には、輪廻転生の力が働いている。よって、夜野が天狗紋をつけた者が輪廻転生した際、必ず目印として、同じ場所に同じ形の印を生じさせると約束しようか。そうであれば、その者が、同じ魂を持つ者であると、ひと目で分かるであろう? そなたは何分、不老不死に等しいからのう」
「はい。有難うございます。それで構いません、俺が必ず都度見つけ出し、迎えに行くので」
「では、降りるが良い。山の神々も、皆が祝福しておるぞ」

 こうして神宿様に見送られ、久しぶりに夜野は狗鷲の羽を出現させた。

 そして、大空を舞う。目指す先は、愛しいブナの大樹のもとだ。真っ先に報告したい。

 焦る気持ちを抑えきれないまま、早く会いたいという一心で、夜野は珠樹の所を目指した。そこが彼女の家でもあったからだ。いいや、これからは二人の家、か。そうなれば良いと、いつかの約束が果たされたのだと、今後は番になるのだと、幸せな気持ちで夜野は羽ばたいた。

「――っ」

 そして、懐かしいはずの風景が、そこに無い事を知った。
 珠樹がいるはずだった場所には、真っ二つになった幹の残骸があるだけだった。

 何が起きているのか、当初夜野には理解が出来なかった。手を伸ばしてみれば、残っている一部の幹と根も、枯れていた。触れた指先と硬直していた体が、次第に震え始める。

 そうして立ち尽くした夜野の前に、夕陽と木魂が並んで立った。

「夜野。お前が試練に向かったその日だったよ。姉さんに、雷が落ちた」

 木魂はそう述べると項垂れた。
 その傍らで、夕陽が難しい顔をしている。

「落雷で真っ二つに割れて、すぐ訪れた冬の間に、珠樹は枯れてしまったんだ。死は、避けられない事だった」

 父の言葉に、表情も声も失って、夜野は立ち尽くす。
 ――いつかの約束。
 番になるというその約束は、珠樹と夜野の間では、果たされなかった。これが、結末だ。




 それ以後、新しい若き天狗神は、それでもなお、ずっと珠樹という名であったブナの木の残骸のそばにいた。

 本来であれば、神の遣いとなった以上、やるべき事は数多ある。けれど喪失感に苛まれた夜野は、いつもぼんやりと虚ろな目をして、既に珠樹という神格の無くなってしまった木々の残骸が、朽ちて土に還っていくのを呆然と眺めているだけだった。夏も、そして秋も、次の冬も。既に食物をとらなくても生きていられる体となったが、それが逆に忌々しい。珠樹のそばにいたかったから、二百年でも良いから隣にいたかったから、必死で天狗神となったというのに、結果は残酷だ。世界は冷酷だ。

 次の春が訪れる頃には、既に雪狗山からは、珠樹の気配が消えてしまった。大雪の最中、夜野が羽で守るようにしていた僅かに残った幹の残骸も、春になれば完全に腐食し、土に還ってしまった。

 食べないからではなく珠樹を喪失した結果から、窶れ、やせ細っていく夜野を、周囲は心配そうに見ていた。だが、誰の声も、夜野には届かない様子で、夜野は夜になれば悪夢に魘されるか、幸せだった頃の夢を見ては、目を覚ましてから、どちらにしろ涙を零す事が増えた。辛い夢も幸せな夢も等しく、珠樹の不在を思い知らせるから、夜野にとっては迫る朝はいつも絶望からの開始だった。

 時々首から下げている勾玉を握っては、昼間であっても珠樹を思って慟哭した。
 しかし、死は等しく訪れる以上、もうどこにも珠樹はいない。
 バサバサと音がしたのはある日の事で、ぼんやりと夜野は空を見上げた。
 そこには一匹の若き狗鷲の姿があった。

「……昼奈?」

 弟の気配を感じてポツリと呟いてから、すぐに違うと気が付いた。それは寿命があるからでもあったが、すぐに木魂の幹に背を預けていた夕陽が気づいて笑顔を浮かべたからだ。

「昼奈の孫にあたる」
「孫……」
「我の曾孫だ。が、夜野の言う通り、魂は昼奈と同じだ。この一帯の輪廻の中にいる以上、こうして再び再会が叶う事もある」

 それを聞いた時、夜野は息を呑んだ。
 そして、神宿様の言葉を、夜野は思い出した。

『夜野が天狗紋をつけた者が輪廻転生した際、必ず目印として、同じ場所に同じ形の印を生じさせると約束しようか』

 あの日、己は、必ず珠樹の魂を持つ者を見つけに行くとも誓ったではないか。
 そうだ、確かに誓った。

「……では、珠樹もどこかに?」
「魂を同じくする存在は、どこかにいずれ生じる可能性は高い」
「っ」

 夜野はギュッと目を閉じた。そして、久しぶりに悪夢とも幸福な夢とも、日中の思い出の回想の結果でも無く、幾ばくか温かな気持ちで涙を流した。そうだ、珠樹には確かに天狗紋を残したのだから、見つけ出す手掛かりはある。魂が同じであっても、それはきっと珠樹とは別の存在なのだろうし、記憶だって持ち合わせてはいないかもしれないが、そうであっても構わない。珠樹に会いたい。珠樹の気配を感じたい。

「夜野。生きるとは辛い事だ。だが、神宿様は約束を違える事はしないぞ」
「……はい」
「我に似て一途なのも良いが、再会した時に今のように酷い顔をしていては、心配をさせてしまうのではないか?」
「……はい」

 父天狗の言葉に、涙をぬぐってから、夜野は頷いた。

 こうして、この日から、夜野は待つ事に決めた。そうしてその後、齢を重ねた天狗神となった現在もそれは変わらないらしい。隣の木魂という双子の弟が、テング巣病で朽ちた後も、ずっとその珠樹というブナのあった場所に、夜野は暮らし続けた。それは、今も同様らしい。だから、いつからから、夜野は――『珠樹天狗』と呼ばれるようになった。きっと今も、いつか天狗紋を刻んだ珠樹が再来するのを待っているのだろうと、地元民は囁いている。そして正確には、今では自ら、珠樹の魂を持つ者を探し始めた。




「――というわけで、夜野は……『珠樹天狗』と呼ばれるようになったそうだ。きっと今も、いつか天狗紋を刻んだ珠樹が再来するのを待っているのだろうと、地元民は囁いている」

 つらつらと語った岩鞍の言葉が終わった時、春花は思わず瞠目した。
 そして、つい尋ねた。

「その珠樹というブナの木の神が贈った首飾り、今も身につけていたりする?」
「当然だ。俺はひと目でわかったぞ、その耳に天狗紋が仮に無かったとしても、俺は珠樹を見間違えたりはしない」
「今は、春花って名前なんだよ。そう、そっかぁ。あー、解決した。夢に出てきたのは、確かに君だったし、あの場所は私達が過ごしたこの山だ。雪狗山の、私達の家の風景かぁ。たった今、私はすべてを思い出したよ。探しものって、私の事だったんだよね?」
「その通りだ。そして俺が天狗だと町の者は知っている。俺がずっと待っている事も、な。例えば、今のお前の祖父とてそうだ。会えて良かった。やっと、『いつか』が来たと思って良いのか?」
「私も会いたかった、の、かなぁ? 兎に角、夜野が天狗神になれてホッとしてる。私はずっと君が先に死んでしまうと思っていたからね」

 苦笑した春花を、岩鞍夜野を名乗って、人の姿を象っているある天狗が抱きすくめる。

「今度こそ、俺の番になって欲しい」
「待っていてくれたのかぁ、ああ、まずい、嬉しいなぁ」
「それで、いつかの約束は?」

 嬉しそうな顔をしているのは、岩鞍もまた同じだった。二度瞬きをしてから、春花が目を伏せ、軽く顔を斜めに傾ける。二人の唇が触れ合ったのは、その直後だ。それが、答えでもあった。

「大学を卒業したら、私はこの町に『戻ってくる』よ」
「そうか」
「そうしたら――今度こそ、きちんと番にしてもらおうかな」
「断る」
「え?」
「今が良い。もういつかなんてこりごりだ」

 微苦笑しながら岩鞍が述べると、春花がクスクスと笑った。そして自分から岩鞍に、更に強く抱き着いた。

「私も、もう死別が怖いなんて言い訳をするのはやめる。今で良いよ。だけどまさか、君より先に私の方が逝くとはなぁ」
「何があるかは、誰にも分からないものだな。閉館作業をしてくる。俺の先生はお前なのだから、もうこれ以上の御伽噺の講義は不要だろう?」
「そうだね。まぁ卒論用には、ちゃんとしたインタビューの記録とかも欲しいから、あとで協力は求めるけど」

 その後は岩鞍が作業をするのを、楽しそうに春花が見ていた。
 そして陽が落ち始めた外へと、二人そろって歩き出す。

「夜野が雪狗山の珠樹の所に今も居るという部分はお伽話だよね? だってここにいるんだから」
「町の中に、人の姿で暮らす家がある。だが何かと山には戻っているぞ?」
「そっか。私の足ではもう山にすぐには行けないけど、町の中でも話せるんだね」
「ああ、俺ももっと珠樹と――……春花と話がしたい」
「うん。今の私は、春花だよ」
「会いたかった」
「ごめんね、私はすっかり君のことを忘れていたんだよ」
「いいや。逆に、記憶が戻った事に驚いている。それに何も謝る事は無いだろう? お前は悪い事なんて何もしていないのだから」





「ううん、やっぱり、謝るべきだよ。一途に待っていてくれて嬉しいって喜んでるもん。君を悩ませたはずなんだけど、それすらも嬉しくて。私は本当に、忘れていたしね」
「構わない。記憶が無くとも姿が変わっても、俺にとって珠樹は珠樹なんだ。名前が変わっても、それは同じだ。今後も、ずっと俺はお前を見つけ続ける」
「嬉しくて死にそうだよ」
「やめてくれ。なるべく長生きして欲しい」
「切実だね」
「ああ、切実だ」

 そんなやりとりをしてから、そしてどちらともなく視線を重ねてからキスをした。

 譲原春花という人間になってから、珠樹は誰かに恋をした事は無かった。だが、甦った記憶が、それで正しかったのだと教えてくれる。何せ今、夜野が大切だという想いでいっぱいなのだから。

「夜野、好きだよ」
「俺の方が、お前を愛している。本当は、どこかで諦めていたんだ。もう会えないのではないかと。でも、信じる事しか出来ない俺がいた。だが、信じていて良かった」
「待っていてくれて、有難う」

 夜野がその言葉を聞くと、嬉しそうに笑ってから、春花の耳朶を噛んだ。すると春花の天狗紋がツキンと疼いた。夜野が何度も何度も、天狗紋に力を込めなおし、より深く魂へと番の証を刻み込む。

「――あ、そうだ。私、考えたんだけど」
「なんだ?」
「お伽話、続きをきちんと今後は付け加えないとならないでしょう?」

 春花はそう言って笑う。

「『無事に珠樹というブナと再会を果たした夜野という天狗』について、きちんと書かないとね」
「――そうだな。だが、最後の言葉は、口にするまでもない」
「最後?」
「それ以外の未来を、俺は決してお前に齎したりしない」
「それって?」

 首を傾げた春花を見ると、夜野が楽しげに笑った。

「『めでたし、めでたし』だ」