死に至る花の病





 姉が死んだ。

 私の姉は、長らく『花現病』と俗に言われる病いで隔離されていた。

私とは一歳違いの姉である茨木は、高校一年生の頃には、既に実家の離れで暮らしていた。私は接触を禁じられたが、元々別行動が多かったので、特別な寂しさは抱かなかった。隔離以前に私達が一緒に行動していたのは、月に一度ほどで、それは習い事の時だった。私達姉弟は、華道を習っていた。先生は、神門絢瀬と言った。絢瀬先生は、当時二十代後半で、私達が中学三年生の時に、不慮の事故で亡くなった。以降、私達に共通していた習い事は消失したし、その後すぐに姉は発病した。

 ただ、本来花現病は、死に至る病いではない。

 世間では幻の奇病と言われ、存在すら疑問視される事も多いのだが、平安より連なる、私と姉が生まれた華頂かちょう家では、時折罹患者が現れていたので、別段珍しくはなかった。華頂家の場合は、花現病の亜種が遺伝病としてあるようで、きっかけはまだ判明していないのだが、発病すると、怪我をした際に出る血液が、花びらに変化する。不思議なもので、吐血や喀血、鼻血の場合は花にならない。刺し傷や擦り傷、切り傷といった、皮膚が傷ついて血が零れた場合のみ、それが花びらになる。ただごくまれに、非常に重篤な場合、内臓から出血したものが、体内で花びらとなり、全身の皮膚の内側が花びらで埋め尽くされて、死に至る事があるそうだ。私の姉の場合は、まさにその症状だった。だが大半の場合、記録に残っている限り、花現病になっても死ぬ事は無いという。ただ――自然治癒した例は、とても少ないそうだ。

 病気になる理由が分からないから、私も感染したら困るとして、私は姉から隔離された。とはいえ、正直楽観視していた。死ぬわけがないと、私だけでなく家族や、使用人と言った周囲も思っていた。

 そのため姉は、次期当主として、専門の教育を受けていた。これもまた、元々別行動をしていた理由だ。私には当主教育は無かったので、私は普通に義務教育を経て、高校から医大へと進学し、現在は大学病院の医局に勤務している。どちらかといえば、私は科学的なものを好むし、日常的に白衣を纏って、薬品の香りを嗅いでいる。

 しかしながら私の実家は、元々が陰陽寮に属する陰陽師に連なる家系だったとの事で、姉はその家柄の次期当主であるからと、陰陽道を父から習って暮らしていた。表向きは病弱だとして、学校にも通っていなかった。籍だけはあったので、高校も通信制の学校を卒業だけはしていたが。姉はどこか浮世離れした性格でもあった。私とは異なり、夢見がちな部分もあった。それが、私の知る、姉・茨木だ。


 この現代において、陰陽道なんて、非科学的だと私は感じる。
 そんな事を考えつつ、私は結婚のニュースが、医局のテレビから流れてくるのを、プラスティックのカップに入れたコーヒーを飲みながら見ていた。政治家と旧華族の結婚という話題であり、その一方の華族――それこそが華頂家であり、これは私自身のニュースである。世間はこれが、陰陽道が理由による政略的な結婚だとは知らない。

 さて、その相手の政治家であるが、若手の実力派で、私より二歳年上なだけだというのに、既に国政の場において、大きな存在感を持っている人物だ。

 蘆屋隆史さん、三十二歳。
 現在三十歳の私は、幼少時より彼を知っていた。私達姉弟と共に、華道を一緒に習っていたから――という理由だけではない。彼は、茨木の婚約者だった。姉が亡くなったため、私と結婚する事になったのである。元々、姉が三十歳になったら結婚する予定で、許婚関係は公表されていなかったので、世間は隆史さんと姉が婚約していた事は知らない。

 蘆屋家もまた、陰陽道の家系である。だが、没落しかかっている旧華族の華頂家とは異なり、蘆屋家は資産家でもあり、政治家も多数輩出している。ただ、個人的に陰陽道の仕事を引き受ける事は多いらしい。今もなお、華頂家とは異なり、非常に強い陰陽道の力を持つそうだ。私は元々陰陽道の知識がないし、花現病より余程そちらに懐疑的であるから、事実か否かは知らないが。

 けれど――私は、結婚を二つ返事で承諾した。

 実を言えば私は幼少時に、隆史さんに初恋をした。一緒に華道を学ぶ月に一度の習い事の日は、私にとって本当に大切だった。その後、絢瀬先生と茨木と、四人で雑談をしたり、お菓子を食べたり、遊んだり、そんな時間がどうしようもなく好きだった。隆史さんを目にすると私の胸は高鳴ったし、時に切なく疼いた。理由は無論、隆史さんの結婚相手が姉であり、私の恋は叶わないと知っていたからである。正直、茨木が羨ましくてたまらなかった。一年先に生まれたという理由だけで、隆史さんと結婚できる姉が、すごく羨ましかった。

 でも、だからと言って、死んでほしかったわけじゃない。

 私は相応に、姉が好きだった。隆史さんだって、茨木を好きだったと思う。二人は仲睦まじかったのだから。隆史さんはいつも愛犬の賢ケンを伴っているのだが、二人と一匹が散歩をしている姿を、私は帰省した時に、遠くから何度か見かけた。隆史さんは華頂の人間ではないから、罹患可能性も低いとして、姉と頻繁に会っていたようだ。私は医学部進学後は一人暮らしをしていたから、詳しくは知らないのだが。

「おめでとうございます!」

 同僚にかけられた声で、私は我に返った。視線を向け、小さく頷く。

「ありがとうございます」
「華頂先生が退職なさるのは、寂しいですが……お幸せに!」

 ゆっくりと瞬きをし、私は微苦笑した。医局の出世争いは激しいから、本当は私の退職をこの同僚が喜んでいる事も知っている。それ以外にも、容姿端麗で資産家の高名な政治家との婚姻を羨んでいる同僚もいる。時に嫌味を投げかけられた。だが、私は何も言わず、白衣のポケットに突っ込んだ両手を握って、聞き流した。

 なにせ私は、隆史さんとの結婚を、誰よりも喜んでいる。
 それは――姉の死を喜ぶに等しい。
 遣る瀬無さと罪悪感が綯い交ぜになった胸中でいると、私は寧ろ、周囲の棘がある反応を、心地良く思ってしまう。私は、攻撃されて当然の考えを、抱いている最低な人間だと、己を考察しているからだ。

 私は左手に輝く婚約指輪を見る。ダイヤの煌めきに、苦しくなった。
 こうして私は、医局に勤務する最終日を終えた。




 新居は、実家の裏山の中にあった。

 古来より、結婚制度が無かった頃から、陰陽道の家系では、儀式的結婚があったそうなのだが――華頂家の人間が結婚する場合は、その山の中の家に、相手が通う形式の関係が築かれていたらしい。理由は、華頂家の式神が、その家の庭に生える桜の大樹であるからだそうだった。

 今は新緑の季節であるから、花は散っているが、緑色の瑞々しい若葉が見える。木は動かす事が出来ないため、法的・儀式的な結婚後、二者間の間に『子供』が生まれるまでは、通い婚が続くそうだ。肉体的な子供の他に、式神同士の間にも、子がデキるのだという。私にはそもそも式神が見えないから、どうすれば子供が生じたと判断できるのかも分からないが、そこは華頂家よりずっと強い力を持つ蘆屋家の隆史さんには分かるようだ。つまり私は、隆史さんが『良い』というか子供ができるまで、基本的にこの家で、使用人に世話をされながら暮らす事になる。

 隆史さんの許可が出れば、私は二人で暮らす更なる新居に移る事になるが、そうならない限りは、私はこの山の中の一軒家から出る事は許されない。軽く、軟禁されるに等しい。そしてそれは、許可が出なければ、生涯続くという約束の上での婚姻だ。隆史さんが足を運ばなくなっても、力が弱い側である華頂の人間には、催促する権利も無い。この政略的な婚姻において、華頂家は蘆屋家の強い力を『貰い受ける事』を主とした目的とし、蘆屋家側は、善意でそれに答えてくれただけ、という名目があるようだ。

 だから双方、隆史さんの相手は、誰でも良かったというわけだ。ただ……姉を好きだったのだろう隆史さんには、非常に申し訳ない形となったのは、間違いない。なにせ隆史さんと私は、中学三年生の習い事を最後に、実を言えば、一度も会話すらしていない。婚約指輪も郵送で送られてきた。家族同士の顔合わせも特になかった。結婚式は、来年と言われている。ただし式神を増やす――式神の子を増やす儀式は、早い方が良いからと、式の前ではあるが既に籍は入れたので、これから隆史さんはこの家にやってくるとの事だった。

 私は、姉のためにしつらえられた婚礼衣装や結納品の数々を見た。
 豪華な着物などがかけられている。
 畳の部屋で、桐箪笥や漆塗りの黒い卓を眺めながら、横の襖を続けてみた。
 この向こうには、布団が敷かれた座敷がある。
 儀式を行う部屋だ。

 式神の子を増やす儀式に置いても、人間の子を宿すのと同じように、婚姻した二人は体を重ねる。姉と隆史さんも、その儀式の手ほどきを受けていて、何度か練習的に体を重ねた事があるそうだ。

 ――だから、儀式の知識が無くても心配は不要だ。

 父はそう言った。隆史さんが手慣れているという意味だろう。
 だが私の心はより陰鬱になったものである。
 そもそも家族は、私と姉の体躯がほぼ同じだから、婚礼用品を仕立て直さなくて良い事を喜んだが、これらを着る事を望んでいたはずの姉を想うと、私は辛い。幸せになるはずだったのは、本当は茨木だ。私じゃない。

 それでも私は、幼い頃から隆史さん一筋であり、抱かれる事を夢想した事も多い。なお私は誰かと性的な接触を持った事は一度も無い。隆史さんだけが、好きだからだ。ずっと想い続けていて、けれど叶わないと知っていたし、姉の幸せだって願っていたから、私はその気持ちを封印していた。蓋をしたまま、一人生涯を終えようと誓っていた。だというのに、人生とは分からない。

「水城様。蘆屋様がお見えです」

 その時名を呼ばれたので、私は振り返った。使用人が頭を垂れている。隆史さんの到着の知らせに、私は無表情で頷いた。


「お通しして。直接こちらへ」
「畏まりました」

 私の言葉に、使用人は頷くと下がっていった。歓待しても良いのだろうが、目的は性交渉だ。それも、隆史さんにとっては本意ではない行為となる。姉を愛していた隆史さんは、背格好以外は似ても似つかない私を、嫌でも抱かなければならない。好きな相手の死の悲愴に浸る時間すらなく取り決められた私との結婚を、果たして彼はどう思っているのだろう。

 憂鬱な気持ちになりながら、私は襖に手をかけた。
 布団の傍らには、中身が三分の一ほど減ったローションのボトルと、開封済みのコンドームの箱がある。誰が使ったのかなど、明らかだ。姉と隆史さんである。

 いつも愛用している白衣ではなく、迎えるために和装を纏った私は、大きな布団の隣に正座し、半分ほど開けたままにしておいた襖を眺めていた。薄暗い室内には、雪洞の明かりしかない。

「久しぶりだな、水城」

 少しすると、隆史さんが入ってきた。迷いなく中へと入り、襖を閉めた隆史さんは、私を見下ろしてから、続いて腰を下ろした。スーツ姿だ。背広を脱いでから、ネクタイを緩めつつ、隆史さんは笑顔を浮かべた。

「バタバタしていて会いに来られなかった。本当に申し訳ないな」
「いえ」

 私は無表情を貫く。歓喜している内心を悟られたくなかった。姉の死をまるで喜んでいるかのような自分を、知られたくなかった。

 精悍な顔立ちをしている隆史さんは、切れ長の目をしていて、薄い唇もまた形が良い。惹きつけられる造形美をしていて、長身だ。私よりずっと肩幅も広い。

「儀式の用意は整っております」

 私が告げると、隆史さんは虚をつかれたような顔をした。

「いきなりだな。少し話をしないか? これから俺達は、法的にも配偶者同士となるんだし」
「お気遣いは不要です」

 優しい。変わらず、隆史さんは優しい。私が好きだった隆史さん、そのままだ。でも、隆史さんは姉を愛していた。姉を抱いていた。その現実は、変えられない。

「……そうか」
「はい」
「ならば、遠慮はしないぞ?」
「お願いしているのは、こちらですので。式神を増やす必要があるのは華頂ですから」

 私は式神など見えないが、これは変えられない事実だ。

「俺は据え膳は食べると決めているんだ。機会は決して逃さない」

 隆史さんはそう言うと、私を押し倒した。そして体を重ねる内、いつしか私は意識を手放した。

 目を覚ますと、私の顔に寄り添うように、巨大な白い犬がいた。犬種は知らないが、これが隆史さんの愛犬だと知っている。賢は私が目を開けると、私の頬を静かに舐めた。

「あ……」

 体が気怠く重い。声が少し掠れていた。私は手を伸ばして、そばに置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。それから上半身を起こし、喉を癒してから、賢を撫でた。長い毛並みで柔らかい。

 隆史さんの姿はない。
 その後、使用人が訪れ、隆史さんは帰宅したと教えてくれた。賢は置いていくそうだった。『また来る』という書置きを、私は使用人から受け取った。賢を置いていった以上、本当に来るのだろうと思う。そう思って気づくと私は喜んでいた。それからすぐに苦しくなって、俯いた。これではやはり、姉の死を喜んでいるみたいではないか。そもそも隆史さんは茨木の事が好きであり、私を抱いたのは儀式に過ぎないというのに。

 しかし私は、隆史さんの温度が忘れられなくなった。
 それ以後、週に一度は、隆史さんが顔を出すようになった。その度に、私の体は熱で熔かされる。蕩ける体で、私はいつも泣きながら譫言のように隆史さんの名前を呼ぶようになった。そうなるまで時間はかからなかった。それでも『好き』だとか『愛している』とだけは、告げなかった。自分に許したのは、隆史さんの名前を呼ぶ事だけ。隆史さんが私に愛の言葉を囁く事もない。それでも、それで良かった。私はいつも隆史さんを待ちながら、片想いの胸の痛みに耐えているが、抱いてもらえるだけで満足だった。たとえそれが、儀式でも。




 この日も私は、隆史さんの事を想いながら、布に刺繍をしていた。
 これは、陰陽道の作法の一つなのだという。華頂家の人間が縫った桜の模様入りの布には、特別な力が宿るそうで、婚姻後、戸籍的には蘆屋の人間となる私ではあるが、華頂の当主も一時的に兼ねる事になるので、今は刺繍は私の仕事だ。なお家督は叔父が継ぐと決まったそうだ。将来的には、私の従弟が華頂家の当主になるそうだが、まだ三歳なので、暫くは私が刺繍の担当だ。

「痛っ」

 考え事をしていたため、私は指先に針を刺してしまった。
 そして――目を見開いた。私の指から零れ落ちた赤いもの、それは最初血に見えた。布が汚れてしまうから、やり直しだと私は当初思ったが、その赤いものは、布に触れると床に落下した。布を汚す事は無かったし、血にしては巨大だった。床には、赤い花びらが落ちている。それは桜の花びらによく似ていたが、色は真っ赤だ。

「これは……」

 いつか、私は目にした事がある。急に車が突っ込んできて、なんとか回避したものの姉が転倒した時、その膝から、同色の花びらが溢れた光景を。私は蒼褪めた。背筋が瞬時に冷たくなった。冷水を浴びせられた心地で、私は畳の上に落ちている赤い花びらを見る。

 ――花現病の亜種。

 すぐに私は、それを悟った。何度か瞬きをして夢ではないかと考えようとしたが、確かに花びらが落ちている。その時、扉の外から声がかかった。

『蘆屋様がお見えです』
「今日はお帰り頂いて。体調が優れないの」

 私は流れるように嘘をつき、花びらを手に取り、ごみ箱に捨てた。
 実は、ある取り決めがなされていたからだ。
 ――万が一、二人目の華頂の人間も、花現病に罹患したら、即刻この縁談は破談とする。結婚後であれば、離婚とする。蘆屋家は、二度と華頂家に関与しない。

 これを私は何度も聞かされていたし、隆史さんも当然知っている。
 だが私は、家のためというよりも、自分のために、利己的な理由で、発病を隠蔽する事に決めた。隆史さんと別れたくない。隆史さんがいくら姉を好きだとしても、私はもう、隆史さん無しでは生きてはいけない。私は、隆史さんを愛しているのだから。

 再会して以後、体を重ねる度に、私は隆史さんの事を、改めて好きになっていく。
 優しいところ、明るい眼差し、体温、全てが好きだ。
 隆史さんがいない人生など、もう私には考えられない。たとえそれが、隆史さんの本意ではなく、隆史さんを縛り付けるだけの結果であるとしても、私は隆史さんのそばにいたい。両腕で自分の体を、私は抱きしめた。

「怪我さえしなければ、露見しない」

 一人呟く。それ以外で露見するとすれば、それこそ重篤化して、死に至る場合のみだ。死ぬのであれば、それは隆史さんとの永遠の別離であるから、構わないだろう。なにせ、一般的な医療では治癒しない、医師に見せても解決しない奇病の、それも亜種だ。そして、私自身が医師なのだ。自分の治療は、自分で出来る。だから、他の医師に診せる必要だってない。私は自分に、そう言い訳した。




「最近、会ってくれないんだな」

 その日も隆史さんが来たと聞いたのだが、私は帰ってもらう事にした。
 確かにそう使用人に伝えたのだが、部屋の扉が開いた。驚いて私は、そちらを見る。
 白衣姿の私は、慌てて絆創膏を蒔いてある指先を、何気ない素振りで背後に隠した。なんとか先程血が止まったところだが、実は今日の昼間も針で指を刺してしまったのだ。

「隆史さん……」
「俺は何か君に嫌われるような事をしたか?」
「……いいえ」

 私は最近では常に私のそばにいる賢の頭を無意識に撫でた。
 賢は私の体に鼻を押し付けている。

「体調が悪いと聞いたが、元気そうだな」
「……」
「風邪でも引いたのかと最初は心配した。が、十回も連続で断られた以上、余程の重病なのだろうと考えて、無理に上がらせてもらった。その割に、元気そうな姿を見て、安堵はしたが、俺は苛立っている。理由は分かるな?」
「……儀式が滞りますからね」

 私は導出した理由を言葉にしてから、顔を背けた。

「今俺はさらに苛立ったぞ。理由が違う。理由は、水城が俺を避けているからだ」
「それは、儀式が滞るからと同じ意味のはずでは?」

 私が避けると、儀式が出来ない。そういう事ではないか。

「茨木姉さんが好きだった貴方としては、早々に式神を増やして儀式のお役目を終えたいんでしょうね」
「――俺と茨木は確かに許婚だった。儀式もしていた。それは否定しない。姉を抱いていた男に抱かれるのが嫌だという事か?」

 当然、嫌だ。私は隆史さんが好きなのだから。姉と隆史さんの事を考えると苦痛だ。きっと隆史さんは、私に姉を重ねているのだと思う。背格好は似ているから、私はその部分は可能だと信じている。だから生理的嫌悪は無いだろうと願っている。

 だが――決して、死者に勝つ事は出来ない。私が、茨木に勝つ事は不可能だ。

「嫌に決まっているでしょう?」

 私はそう答え、顔を背けたままで唇を噛んだ。
 一番嫌なのは、それでも構わないと思い、抱かれる事を喜んでしまう自分自身だ。

「俺が誰でもいいと思って……誰が相手でもいいように見えて……気分を害しているという意味だな?」
「違います、そうじゃありません。姉を好きだった相手に抱かれるのが嫌だという話です」

 私が口早に述べると、隆史さんが息を呑んだ。
 本当の理由は、無論花現病に気づかれてはならないという恐怖からだが、こちらはこちらで、私の八割程度は本心でもある。嫌では無いのだが、抱かれるのは辛い。茨木は、隆史さんを好きだったのだから。

「茨木が俺を好き?」
「ああ」
「それは違う」
「え?」

 何を言っているのかと怪訝に思い、私はやっと視線を向けた。すると険しい顔の隆史さんが、双眸を細くして私を睨むように見ていた。その目は真剣だった。

「茨木には、心を捧げた相手がいた」
「? 姉が不貞を働いていたと?」
「そうじゃない。お互い、別に好きな相手がいたんだ。それを知った上で、俺達は婚約していた。だから俺と寝る時も、茨木はその相手の名前を呼んでいた」
「な」
「絢瀬先生だよ」

 それを聞いて、私は言葉を失った。今しがた考えた、『死者には勝てない』という言葉を、脳裏で反芻する。つまり、隆史さんも、勝てなかった……? いいや、違う。

「今度、俺が預かっている茨木の日記を持ってくる。それが証明するだろう」
「……隆史さん」
「なんだ?」

 地を這うような低い声を聞き、私は再度顔を背けた。聞ける雰囲気ではないと悟ったからだ。隆史さんにもまた、『好きな相手』がいるようだが、それは誰なのかと。そう質問する事は躊躇われた。なにせ、私との婚姻のせいで、結局その想いも隆史さんは叶える事が出来ない。

「なんでもありません。では、日記をお持ちください」
「ああ。今日は帰る」

 こうして、隆史さんは帰っていった。
 扉が閉まってから、私は椅子に力なく座り込んだ。そして両肘を机にのせて手を組み、ギュッと目を閉じた。

 ――隆史さんには、好きな人がいる。

 この事実が、私の胸を抉った。姉の想い人を盗るというそれまでの恐怖よりも、残酷な現実の到来だった。




 何故なのか、私はこの日から咳き込むようになった。
 感覚からして、胃を患ったのだと思う。吐血こそしないが、恐らく私は、相当ストレスを感じているし、それが胃痛の原因であり、胃酸を時々吐きそうになるようだった。また、他にも悪い事がある。縫物をしていて針を刺すと、溢れてくる花びらの量が、目に見えて増えだしたのだ。布は汚れないが、私の膝の上にも畳の上にも、今もパラパラと真っ赤な花びらが落ちていく。既に落ちているものも、絨毯のように散らばっている。

 ごみ箱に捨てられる量ではなくなってしまい、私は定期的に窓から外に投げ捨てるようになった。舞い落ちる赤い花びらに、既に使用人達は気が付いているが、私は緘口令を敷いている。家のためとした。華頂家のために、結婚関係が砕けてはならないのだと言い聞かせると、使用人達は皆が頷いた。そして同意し、私の隠蔽に付き合ってくれた。

 隆史さんが日記を持って訪れたのは、半月後の事だった。
 私達は応接室で、テーブルを挟んで向き合った。洋室で、私は一人掛けのソファに座り、片手で日記を受け取った。

『絢瀬先生が好き』
『絢瀬先生が忘れられない』
『どうして死んでしまったの、絢瀬先生』
『会いたい、絢瀬先生に会いたい』
『絢瀬先生だけを愛してる』

 そこには、確かに姉の懐かしい筆跡で、そう綴られていた。私は目を疑った後、脱力して椅子に背を預けた。これは、安堵からだった。私は自分が姉を裏切っていないと、この時知って、安堵したのである。少しだけ気が楽になった。

「分かったか? 茨木は、絢瀬先生が好きだったんだ。ずっと、な」
「……隆史さんには、大変申し訳ない事を……姉が、失礼いたしました」

 私は必死にそう言葉をひねり出した。

「いいや、いいんだ。俺も同意の上であったし、俺にも好きな相手がいるからな」

 そしてそれを耳にした瞬間、私の胸が激しく痛んだ。それが心の痛みなのか、胃の痛みなのか、私には判断が難しかった。ただジクジクとみぞおち付近が痛む。

「……そのお相手とは、上手くいっているんですか?」
「いいや。お世辞にも良好な関係とは言えないな。心配だから、常に式神をそばにつけているが、常日頃俺はその相手の事ばかり考えているというのに、相手は俺を見ていないらしい」

 私の胸がさらに疼いた。私の周囲には式神なんていない。勿論いたとしても見えないが、そんな話は聞いた事がない。屋敷の使用人達も皆、陰陽道に携わっているから、式神がいたら、私に存在を伝えないはずもないのだが、少なくともそんな事は一度も無かった。

「……そう、ですか……」

 しかし私は、やはり喜んだ。今度は、生者が相手だ。そして私は、公的に配偶者だ。もしかしたら、私はいつか、その人よりも好きになってもらえるかもしれない。今は違っても。そうは思うのに、片想いが苦しい。私は思わず泣きそうになったので、ギュッと目を閉じた。私はそのまま、震える手を、紅茶の浸るカップへと伸ばした。

 ――それが、悪かった。

 目を閉じていた私は、うっかりカップを取り落とした。割れた音に慌てて目を開け、咄嗟に手を伸ばす。そして……――。

「っ」

 思わず痛みに息を詰めた。割れた陶器の破片が、私の人差し指の先を深く切った。ボタボタと、赤が零れ落ちていく。勿論、血ではない。巨大な赤い花びらが、無数に私の指先から溢れて落ちていく。

「な」

 隆史さんが目を見開いた。我に返って、私は顔をあげる。そして硬直した。
 取り決めを思い出す。

「水城、その花は……」
「……これが、お帰り頂いていた理由です。取り決め通り、離婚します。どうぞ届をお持ち下さい」

 私は絶望的な気分で花びらを見た。しかし、これで良かったのかもしれない。隆史さんには好きな相手がいるのだから。そうだ、きっとそうなんだ。私が縛り付けていいはずがない。これは、罰ばつだ。自分勝手だった私には、罰ばちが当たったのだろう。

「離婚なんかしない!」

 声を上げた隆史さんが立ち上がり、私まで足早に歩み寄ってきた。そしていまだに花びらが零れ落ちていく私の右手を持ち上げた。

「俺は水城が好きなんだ。ずっと好きだったんだ。漸く手に入れたんだ。思いが叶ったんだ。水城が俺を好きでないとしても、絶対に離婚なんかしない。絶対に手放さない。俺の元から去るなんて許さない。水城は誰にも渡さない。俺は、君の事しか、愛せない」

 その言葉に私は目を見開いた。思わず私は立ち上がる。
 すると私の右手を、両手で強く隆史さんが握りしめた。

「愛してるんだ、誰よりも。俺は、水城を愛してる」

 唖然とした私は瞠目し、隆史さんを見上げる。何か言おうと思うのだが、震えるだけの唇は、何も言葉を紡いではくれない。

「中学生の頃を覚えているか? 茨木の見舞いをまだお前が許されていた頃だ。茨木とお前が――二人そろって車に轢かれそうになった時の事を」
「……茨木が膝に怪我をして、花びらが……」

 初めて私が発病した日にも、私はあの時見た花びらの色を思い出した。
 確かにあの時、一緒に隆史さんもそこにいた。賢もいた。

「ああ。茨木は擦り傷で済んだが、水城は足の骨を折ったな」
「……」
「だというのにお前は、茨木の心配ばかりしていたな。その姿を見てから、俺はずっと、水城の事は俺が守りたいと思っていた」
「っ」
「あれ以来、気づくと俺は、水城の事しか考えられなくなったんだよ。お前が好きだとはっきりと気が付いた瞬間だった」

 私はこれが現実だとは思えず、何度か瞬きをした。すると、正面から抱きすくめられた。力強い左腕が私の背中に回っている。そして、私の後頭部を、隆史さんが右手で、胸板へと押し付けた。

「その前から長い間、俺は水城が気になっていた。だからあの時だって、茨木ではなくお前を助けようとした。でも、お前は骨折した。俺はお前を守れなかった。ずっと後悔していたよ。でも、今度こそ、これからは、俺はお前を守れると、そう思っている。必ず守り抜く。俺は水城が好きだ。たとえ水城が、俺を好きでなくとも」

 その言葉を聞いた瞬間、私の涙腺が倒壊した。

「待って下さい」
「待てない。俺はもう、水城を離さない」
「そうじゃなくて……私だって、隆史さんが好きで……ずっと好きで……好きじゃないわけがない。私の方こそ愛してるんです」

 私は思わず気持ちを口にした。初めて、私は自分に課していた規則を破った。

「好き、好きです。隆史さんが好き」
「水城……本当か?」
「ええ。大好きで……隆史さんこそ、本当に……?」
「本当だ。嘘なんかつかない」

 隆史さんの腕に、より力がこもった。私は額を彼の胸板に押し付け、暫くの間泣いていた。すると私の呼吸が落ちついてから、隆史さんが私の頬に触れた。もう一方の手では、私の顎を持ち上げる。

 そして私の唇を奪った。次第にキスが深くなる。
 私達は応接間で、長い間口づけをしていた。目を閉じた私は、幸せに浸りながら、これが夢でも構わないと感じていた。幸せで、胸が満ちている。

「あ」

 その時、隆史さんが声を出した。私は目を開け、涙が滲む瞳を向ける。

「水城、見ろ!」
「っ」

 隆史さんが私の右手を再び持ち上げた。それを見て、私はすっかり忘れていた痛みを思い出した。だが、絶句して、再び痛みについては頭から消えた。先程まで花びらが零れ落ちていた指先の傷口……今、そこから溢れ出ているのは、紛れもなく赤い液体だ。血液だ。

「こ、これは……」

 自然治癒する事は滅多にないという記録がある。だが、治癒した例が無いわけではない。治癒すると、元の通りに花びらでなく、負傷箇所からは、血液が出るようになると、過去から連なる文献にもあった。

「治った……?」
「そうらしい。これで、離婚の必要性なんて消えたな。何より――俺達は両想いなんだ。相思相愛なんだから、別れる必要なんてない」

 私を片腕で抱きよせた隆史さんが、苦笑しながら言った。

「手当をしよう。まずはそれが先決だ」

 そしてそう口にすると、私を促し部屋を出た。
 その後私は、使用人に手当をしてもらった。治療の仕方は、私が指示を出したが、さすがに利き手を怪我していたせいで、自分では包帯を巻く事が出来なかった。いつの間にかやってきた賢が、私にずっと寄り添っていてくれた。隆史さんはその間に、遠隔でいくつかの仕事を済ませていた。私の治療が終わると少しして、隆史さんの仕事も終わったらしい。

「水城、明日も休みが取れた。今日は、二人でゆっくりしよう。二人で――きちんと想いを確認しよう。水城の口から、もっと聞きたい。いくらでも聞きたい。俺の事が好きだと」
「……」

 真っ赤になって、私は俯く。花びらの色より、今の私の頬の方が、もしかしたら赤いかもしれない。

「それから俺にも伝えさせてくれ。水城の事が、どんなに好きで、どんなに大切で、どんなに愛しているか。尤も、言葉じゃ語りつくせないが」

 私は気恥ずかしくなって、瞳をオロオロと動かした。
 それから私らは、儀式の部屋へと自然と向かった。布団の上で、再度唇を重ねる。

 普段着の白衣姿だった私を、正面から隆史さんが押し倒す。

 この夜私は、隆史さんの本気を思い知らされた。これまでの儀式としての逢瀬では、気遣われていた事も知った。一晩中体を貪られた私は、何も考えられないほどに、愛情を教えられた。

 空が白む頃、私は目を開けた。
 するといつもとは異なり、隆史さんが帰っている事はなく、彼は私を腕枕していた。視線を揺らすと、隣には賢も来ていた。

「おはよう、水城。少し無理をさせてしまったな」
「……嬉しいから、大丈夫です」

 私は隆史さんの腕の中にいる状態で、毛布をかぶっている。

「賢に小言を言われた」
「犬の気持ちが分かるんですか?」
「いいや? 俺は、犬は飼った事すらない」
「――え?」
「賢は、俺の式神だ。水城は、賢が見えるようだから、気づいていると思っていたんだが」
「し、式神……?」

 驚いて私は、改めて賢を見る。白いフサフサの毛並みの犬にしか見えない。大型で長毛種の犬だとばかり、私は思っていた。

「茨木には、式神を見る力が無かったが、昔から水城に見えるのは知っていた」
「えっ」
「水城の方が、陰陽道の素質はある。ただ、華頂家は基本的に、余程の事が無ければ長子存続だからな。尤も、次の代はお前の従弟だと聞いてはいるが」
「ええ。そうです」
「なぁ、水城」
「は、はい?」
「もう一回」
「!」

 そのまま悪戯っぽく笑った隆史さんにのしかかられ、私は赤面した。
 こうして完全に朝が来るまでの間、私は再び体を貪られる事となった。

 それから少しして。
 二つ不思議な出来事があった。
 私は今、庭にいる。
 そこには元々存在した桜の大樹があるのだが――その横に、小さな桜の木が生えてきた。当初、使用人達に聞いてみたのだが、誰も植樹などしていないというから、私は首を捻るばかりだった。すると訪れた隆史さんが実に嬉しそうに笑ったのである。

「水城。これからは、引越しだな。俺達の新居に移ろう」
「相思相愛になったからですか?」
「違う。見ろ、新しい桜の式神だよ」

 その言葉に私は驚愕して、目を丸くしたものだ。こうして私は引っ越し準備を始めた。賢はその間も私のそばにいたのだが――ある日、白い子犬がその横に付き従うようになった。賢は雄だと思っていたし、そうでないとしても、妊娠している気配など無かった。こちらにも驚いて隆史さんに報告すると、「まさかこちらにも幸せが増えるとは」と、微笑まれた。なんでも、予想外の事に、隆史さん曰く私にも力があったために、桜の木だけでなく、白犬の式神である賢の力も枝分かれしたらしい。即ち、賢にも子供がデキたのだという。これには華頂家だけでなく、蘆屋家の人々も大喜びしたらしい。

 桜の式神は、私の次代となる従弟に託す事になり、私達は賢とその子供の式神を連れて、少ししてから引っ越しをした。二人の新居で、これからは毎日一緒にいられる事になり、通い婚は終了した。政治家でもある隆史さんは、家の関係以外の多数の参列者を招いて、披露宴を行った。私と隆史さんの挙式は、大々的にニュースでも取り上げられた。

 それが映し出されるテレビを眺めつつ、私はコーヒーを飲み込む。
 そして隣に座っている隆史さんを、チラリと見た。すると隆史さんは、じっと私を見ていた。気づかなかったものだから、赤面してしまう。

「愛してる、水城」
「……私も」

 そう告げて、私はリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を消した。そうして目を伏せる。柔らかなキスの感触を、唇に感じたのは、それからすぐの事だった。現在、非常に私は幸せである。お腹の中には、隆史さんとの愛の結晶もいる。

 と、同時に。
 一つの推測をしている。花現病の発症理由――それは、片想いだろうという推測だ。死に至る場合は、その相手の死だと考えられる。治癒する場合は、両想い。私は半ばこの仮説を確信しながら、より深くなるキスの甘い感覚に浸る。

 茨木の分まで、私は幸せになろう。最近では、姉について、前向きに考えられるようになった。それもまた、隆史さんがそばにいてくれるからに、ほかならない。

「愛してる」

 そう繰り返し、私は隆史さんに抱きついたまま、赤い花びらを思い出した。
 しかし脳裏に浮かんだその色を、すぐに打ち消し目を開ける。
 そしてじっと隆史さんを見つめ返し、両頬を持ち上げた。

 今、私の内側には、幸せが満ちているのだから、たとえば今、怪我をしたとしても、溢れてくるのは幸福となるだろう。





     ―― 了 ――