【5】世界が涙で滲む時




 ――謙翁が流行病を患ったのは、その年の霜月の事だった。二人の想いが通じ合って、まだ僅かひと月目の出来事である。

「謙翁!」

 師匠ではなく、名前で呼ぶようになってからは、半月ほどの事だった。
 謙翁は酷く衰弱していて、熱がもう三日も下がらない。
 宮廷の薬が手に入らないかと、宗純は紫峰に手紙を出していた。母が頼んで欲しいとしたためたが、いまだ返事は無い。

 京中に、病が広がっていた。貴賎を問わず、次々と命を落としていく。

「宗純……悪いね……っ」

 起き上がろうとした謙翁を、慌てて宗純が支える。すると何度も宗純が咳き込んだ。謙翁が口元を抑えた右手に、赤い血が付着している。

「寝ていろ」
「喉が……」
「今、水を」

 宗純が傍らに用意していた水の器を差し出すと、力ない手で謙翁が触れる。しかし持つ事は叶わず、宗純がそれを飲ませた。だが、途中で咳き込み、謙翁は上手く飲めない。

 このままでは、謙翁が死んでしまう。それは誰の目から見ても明らかだった。

「謙翁、俺、母上の所に行って、薬を絶対に貰ってくる。だから、少しの間、待っていてくれ」
「行かなくて良い……私はもう長くは無い。最後は、宗純のそばにいたいんだよ」
「そんな事を言うな。きっと助かる。きっと助けるから」

 宗純は、謙翁の体をゆっくりと布団の上に横たえると、決意したように立ち上がった。そんな宗純に向かい、謙翁が弱々しく手を伸ばす。そして法衣に触れた。

「行かないで」
「俺は、謙翁をどうしても助けたいんだ。だから、少しだけで良い、待っていてくれ。本当に、すぐに帰ってくるから」
「……宗純」
「俺は……謙翁がどうしようもなく好きなんだ」
「その言葉が聞けて、嬉しいよ」
「謙翁……」
「有難う」

 謙翁が薄い唇に、微苦笑を浮かべた。どこか泣くように見える瞳を見て、絶対に失いたくないと考えながら、宗純は西金寺を出た。

 嵯峨野で暮らす母の元へと向かうと、紫峰と母が出迎えてくれた。しかし、薬はまだ手に入っていないという。

「手に入り次第、必ずお届けします」

 紫峰がそう言ってくれたので、宗純は生家を出る。続いて、縋る思いで、安国寺へと向かった。すると、昔馴染みの社僧達が、忙しなく働いていた。宗純を見ると懐かしんでくれたが、話を聞くと俯いた。

「こちらはな、既に亡くなった者達の弔いで多忙なんだ。生者に出来る施しが、今は何も無い。我々も、惨めなんだ」

 彼らは暗い瞳をしていた。泣いている者もいた。平和な時こそ、彼らの世俗的な姿勢を汚いと思いはしたが、根底では、人の死を悼む気持ちは同じなのだと、このような時なのに宗純は気がついた。彼らもまた、彼らなりに、素直に生きているのだと識った気がした。

 結局薬は手に入らなかったから、一刻も早く謙翁の元へと戻り、出来る看病をするしかないと判断し、宗純は帰路についた。

「っ」

 そして、唖然とした。戻った西金寺には、謙翁の姿が無かったからだ。吐血からだろう赤く染まった布団があるだけだった。

「謙翁?」

 恐る恐るその名を呼ぶ。それから姿を探した。寺中を見て回る。しかし、どこにも謙翁の姿は無かった。混乱しながら、再び寝室へと戻ると、血染めの布団の上に、手紙と小さな木箱がある事に気がついた。恐る恐る手紙を開く。

『――宗純へ。最後に、君に好きだと言ってもらう事が出来て嬉しかった。有難う。私の命は尽きようとしている。君の事を想うと、私は、亡骸を残したくは無い。謙翁宗為は此処で死ぬけれど、本心を言うならば、君の腕の中で死ぬのでなければ、私は生きたい。それでも、謙翁宗為はここで死ぬのが、宿命なのだと考えている。私は、何処にいても、君を愛し続けると誓う。宗純、君の事が狂おしいほどに好きでならない。だから、此処に亡骸は残さない。いつまでも君の中で、生き続けたい。そう在れる事を祈る』

 宗純は、何度も手紙を読んだ。しかし、理解するまでに時間がかかった。ただ一つ分かるのは、今この場に、謙翁がいないという事だけだ。硬直したまま、手紙を握り締める。どれほどの間、そうしていたのかは分からない。

「……」

 その後、虚ろな瞳で木箱を見た。無意識に手を伸ばし、それを引き寄せ、開けてみる。すると中には、首元で謙翁が緩く結んでいた髪が切り取られて入っていた。形見だ。遺骨の代わりだ。それを見た瞬間、全身から力が抜け、気づけば布団の上に宗純は座り込んでいた。膝が、血の感触で湿っていく。心が冷え切っていた。なのに全身が熱い。そう気づいた時には、双眸から涙が零れおちていた。頬が濡れて初めて、己が泣いていると宗純は気がついた。一度自覚してしまえば後は脆く、すぐに嗚咽を漏らして号泣した。声が枯れるまで、ボロボロと泣き続ける。

 いつか、出会った頃、鴨川の橋で泣いていた女性の事が思い浮かんだ。もう顔は思い出せなかったが、泣いていた事を鮮明に覚えている。彼女も、今の自分と同じような気持ちだったのだろうかと、同情ではなく、実感として、宗純は初めて死を身近に感じた。

 涙で世界が滲んでいく。世界を喪失していく。世界が無くなってしまった感覚だ。


 ――その後。
 どのように葬儀を終えたのか、記憶にないほど、宗純は憔悴したまま、石山寺へとたどり着いていた。気づいてみれば、葬儀を上げる費用さえ捻出できないでいたのだが、間に合わなかった薬を持参した紫峰が援助してくれて、形ばかりの葬儀は出来た。

 石山寺にたどり着いてから、七日。一度も食事をとらない宗純を、周囲は非常に心配していた。ふらふら歩いていた所を、石山寺の和尚達が心配して引き止めた為、宗純は滞在している。

 抜け殻になってしまったようで、虚ろな暗い瞳のまま、宗純は何も見ていなかった。ただ静かに手紙と小箱を握り締めたまま、布団の上に座っている。眠りもしない。水すらも飲まない。その陰鬱な表情を見て、周囲は何とか励まそうとするのだが、それらの言葉は、宗純の耳には入っていないようだった。

 大切な存在を喪失した事は、石山寺の人々にも想像が付いていた。
 この年の流行病は、それほどに悲惨だったのだ。
 何も、宗純だけが、辛い目に遭ったわけでは無い。
 しかしそんな現実は、何の慰めにもならない。

 ――宗純がふらりと姿を消したのは、十日目の事だった。

 宗純は、川を眺めていた。いつか二人で見たように、夜空の星が煌く水面。大好きなはずの風景だった。空が二つあると教えてくれた人は、もういない。もう、宗純の空は、闇色一色だった。月すらも、黒く滲んで見える。涙で何も見えなくなってしまっていた。世界との繋がりも、何処にもない。いいや、繰り返し考えている。世界が無くなってしまったのだと。謙翁という光が無ければ、世界は無に等しいのだ。

「謙翁……」

 この十日間、宗純は謙翁と過ごした日々の事だけを、戻らない幸せな毎日の記憶だけを、ずっと考えていた。

「教えてくれ、師匠」

 苦しかった。思い出が苦しかった。何も無ければ、このような想いなど、経験する事すら無かったはずだ。嗚呼、まだ習っていなかったではないか。悲愴の受け止め方を。宗純は気づくと、泣きながら笑っていた。

「世界が無いのに、人は生きていけるのか?」

 呟くように、此処にはいない師に問いかける。師であり、唯一愛を教えてくれた相手に。胸が苦しくて、呼吸が上手くできず、喉に酸素が張り付く感覚がした。

「来世になったら、そこに、師匠はいるのか? 謙翁、人は死んだら、あの世に逝って、生まれ変わるんだろう?」

 輪廻転生の教えを思い出す。仏門が救いであるという事実も、この時漸く実感した。

「そうか、来世……常世ではなく、そちら側に行けば、また会えるかもしれないな……そうしたら、師匠は教えてくれるか? なぁ、教えてくれるよな?」

 気づくと草鞋が水を踏み、脚絆までもが濡れていた。そのまま指貫まで夜の川に浸かる。それでも宗純の足取りは止まらない。腰、胸、そうして入水していく。腕を動かし、前へと進んでいく。浅瀬を越えようとしていた。このまま――世界から消えてしまおう。正確に言うならば、世界が消えてしまったのだから、自分のみが存在する理由が無いと気づいてしまっていた。

 来世などきっと無い。謙翁を喪失させるような仏など、信じる価値は無い。救ってくれなかったのではない、仏など、どこにもいないのだ。ただ、それでも暗い闇の中、一人で生きるよりも、来世を信じて謙翁と再び出会えると夢想する方が優しかったというのもある。そう思えば、頬の涙が乾き始めた。

「宗純様」
「っ」

 しかしその時、後ろから強く手首を掴まれた。驚いて息を飲む。反射的に振り返ると、そこには紫峰の姿があった。己が父のように慕っていた青年も、今では同年代に感じられる。紫峰は、険しい表情で、切れ長の瞳を宗純に向けていた。

「死んではならない」
「紫峰……」
「悟りとは、貴方にとって、何ですか?」

 紫峰はそう告げると、強く宗純の体を引き寄せた。

「素直に生きる事では無かったのですか?」
「……っ、だから、だからもう、俺はこの苦しみに耐えられないんだ。消えてしまいたい、死んでしまいたい、謙翁のそばに行きたい、頼む、離してくれ」

 涙混じりの声で、宗純が腕を振り払おうとする。しかしここ数日で衰弱していた宗純には、紫峰を振り払う力は無かったし、紫峰の側も自殺など決して認められないため必死だ。

「なりません。謙翁禅師がそれを望むとお考えなのですか?」
「お師匠様は、ずっと俺の中で生き続けたいと手紙で言っていた。自分勝手だ。無理だ、辛い」
「愛していたのでは無いのですか? その願い、叶えて差し上げるべきだ」
「愛してる、今も」

 そう口にした瞬間、再び両目から大粒の涙が溢れた。

「素直に生きるというのは、死ぬ事では無い。生きる事こそが、本意です。宗純様は、生きなければならない。生きて、謙翁禅師の教えと貴方自信の学びを広く伝え――彼の願いを叶えて愛に生き、そして往生して死ぬのです。宗純様の幸せこそが、謙翁禅師の願いのはずです」

 紫峰の言葉を聞く内に、宗純が崩折れた。体力的に限界だったというのもある。だが一番は、『謙翁の教え』という言葉に、考え直させられて、体の力が抜けたのだ。その言葉を聞いた瞬間、色褪せかけていた幸せな記憶達が、再び意味を持ち始めたのだ。先程までは、次第に闇に染まり、無価値な塵芥のようになってしまったと思っていた、あの幸せな日々が、息を吹き返した瞬間だった。

 あれらは、教えだ。己が死んだら、一体誰が、謙翁師匠の『悟り』を皆に説くのか。

「俺は――……」

 ……――生きていく。もう少しの間だけ、寿命が来るその間まで。宗純は、そう誓い直した。来世で会うのは、今でなくても良いではないか。土産話を肴に、冥土で話す方が、きっと謙翁は喜ぶだろう。そう考えて口元に笑みを浮かべた直後、宗純は意識を喪失した。

 目が覚めると、母の住まう家にいた。
 その後、約一年ほどの間、母と紫峰の元で宗純は過ごした。