【6】歴史管理人



 翌年宗純は、華叟宗曇(かそうそうどん)と出会い、以来、暫しの間、華叟の庵で暮らした。五十歳も年上の好々爺は外見こそ似ても似つかないが、根底の考えが幾つかの部分で謙翁に似ていた。例えば、寺が権力を持つ事には反対だったり、清貧であったり。謙翁は正確に言うならば、貧乏だったが、こちらは違うから、完全に同一では無いのだが、謙翁との暮らしを何度も宗純は思い出した。思い出すためにも――日々を、学びを、忘れないためにも、華叟との生活は貴重だと言えた。

 今では、水面に映る空を見る度に、決して謙翁を忘れたりはしないと考えられるようになった。謙翁と出会ってから、約十年が経過しようとしていて、宗純は二十六歳となっていた。死別してからは、六年だ。季節は初夏、琵琶湖を眺めながら、一人、座禅を組む。

 昼間から、ずっと座禅をしていた。日は傾き、そして落ち、逢魔が時を過ぎ去って、真夜中が訪れる。新月の夜だった。星は無い。しかし、もう世界は闇には見えない。宗純は再び世界と繋がっていた。周囲には自然がある。自然は謙翁が愛したものであり、教えそのものだ。だから、今の世界は色彩豊かだった。例え、黒い夜空であっても、既にそこに広がるものは、闇では無い。そう考えながら、宗純は空を見上げた。

 すると、鴉の羽音と鳴き声がした。

 黒一色の空では、飛ぶ鴉は見えない。
 ――そこで宗純は、明確に気づいた。
 羽が一本、落ちてきて、膝の上に乗る。

 視覚では捉える事が叶わなかったが、鴉は確かに存在したのだ。見えなくとも、そこに鴉はいたのだ。御仏は、見えない。いつか、仏など存在しないと呪った事もある。しかし違うのだ。御仏の教えは確かに存在する。この大自然に、謙翁の教えが溢れているのだから。即ち、見えずとも仏はいるのだ。御仏は、教えと学びを考える――自分の中にいるはずだ。これが、宗純が悟った瞬間だった。宗純なりの悟り、宗純がたどり着いた独自の境地だった。


 この日から――宗純は変わった。

 まず、髪をこれまでよりも、乱雑に切る事から始めた。結局形から入るのは、変わらないとも言えるが、それすらも、謙翁と過ごした愛しい記憶の一つであるから良いと決めた。

 次に、初めて酒を飲んだ。
 飲み方が分からず、すぐに酔った。ふわふわした体で、謙翁の事を思い出すと、体が熱を帯びた。その夜は、手淫して己を慰めた。肉欲も開放したのである。酒の肴は、鮭だった。味噌汁も飲んだ。贅沢三昧の食事をしてみた夜でもある。華叟は何も言わなかった。現在の師は貧乏では無いから、宗純の望む物を用意し――ただ、見守っていた。

 翌日は、二日酔いで酷い有様だった。読経も掃除も自堕落に休み、昼過ぎまで眠っていた。そして夜には、再び酒を飲む。

 何も変わらないのだ、この世の、ちっぽけな雑事では。

 ただ一人、謙翁が教えてくれた愛だけが、自分を変えたと宗純は考えている。悟りの境地に行き着くために必要だったのは、謙翁という愛そのものの世界だけだったのだ。

 その後の宗純は、生真面目さが嘘のように消えた風に見えた。しかし、違う。ボロボロの法衣を纏い、気まぐれに豪遊したり、清貧な生活に戻りながら、いまだ世俗に拘る他の寺を風刺して過ごす事に決めた。

 煌びやかな袈裟を見せ合う行事と化していた法事には、敢えて質素な格好で赴きつつも、心の中では故人を誰よりも偲ぶ。権力を持ち、偉そうに振舞っていた僧侶の印象を一変させるかのように、気さくで快活な物言いをする。髑髏つきの錫杖を握ってみたり、僧侶ながらに剣の鞘を腰に携えてみるなどの、彼の振る舞いに、ある日華叟が言った。

「お前が悟っているのはよく分かったよ。儂も、もう歳だ。儂から与えられる法財はもう左券くらいのものだ」
「不要だ。俺はな、生涯、左券を受け取るつもりは無ぇんだよ」

 物言いも乱暴に変わっていた。しかし破戒僧として名を馳せるようになった宗純は、誰よりも御仏の心に忠実だ。己の中の仏を、決して裏切らない。

「ではせめて、道号を贈らせてくれ」
「道号?」
「一休。今後は、一休宗純と名乗るが良い」
「……おぅよ」

 宗純は、いつか謙翁に戒名をもらった日の事を思い出した。今では、華叟もまた大切な師であるから、純粋に嬉しさもある。

「そうだ。紫峰殿が訪ねて来たぞ」
「紫峰が? いつだ?」
「お前が街中で遊び呆けている頃だ。何でも、明日、琵琶湖の外れに儂が建てた古い庵を貸して欲しいとの事でな。二人きりで、お前と話したいそうだ」
「ふぅん」
「酒と肴は、こちらで用意しておく。ゆっくりと過ごすと良いよ」

 宗純は、華叟にいつも感謝している。きちんとそれを伝える事も忘れない。この頃には、宗純は三十代になっていた。外見も謙翁と変わらないか、自分の方が少し年上に見えるかも知れないと、時折考えている。

 翌日向かった朽ちた庵の中は、外観こそまるで西金寺のように古びていたが、中は今日のためか、小奇麗に掃除されていた。卓の上には、宗純が好む酒や魚、味噌汁が並んでいた。姫飯もある。直前で運び込まれたらしく、どれも温かい。

 少しの間、手をつけずに待っていると、すぐに紫峰が顔を出した。相変わらず、紫峰は外見が変わらない。今では、宗純と変わらぬ見た目に見えるほどだ。

「宗純様」
「何か用か?」
「――貴方が悟りを開かれる日を、ずっと待っておりました」
「紫峰がいてくれたからだ。有難うな。あの日、助けてもらわなかったら、今の俺は無い」

 苦笑しながら宗純が伝えると、紫峰が満面の笑みを浮かべた。

「本来は、これは為すべきでは無いのですが、貴方が無事に悟りを開かれ、きちんとその教えを世界に広められると分かった日には、私は一つ、貴方に贈り物をしたいと考えていたのです。世界が、正常に近づく――救われるお礼に」

 それを聞くと、宗純が首を傾げた。

「命を救ってもらったんだ。礼をするなら俺のほうだ」
「いいえ、逆向転生者を監視する歴史管理人として、私は貴方を尊敬しています。本来、愛という史実は、師弟愛以上のものは存在しなかったはずであるので、宗純様の喪失感は、計り知れず、歴史が変わってしまう所でした。よく、立ち直られましたね」

 宗純は、酒を注ごうとしていた手を止めた。何を言われているのか、理解出来なかったからだ。

「さすがは、宗純様ですね」
「どういう意味だ?」
「今から、貴方に愛をお返しします」
「何を言って――?」

 首を傾げた宗純の前で、紫峰が立ち上がった。そして振り返る。

「どうぞ。私はこれにて」

 紫峰はそう告げて一度、宗純に一礼すると、そのまま部屋を出て行く。入れ違いに、一人の青年が中へと入ってきた。その姿を見て、宗純は目を見開く。

「謙翁……謙翁なのか?」
「――うん。ごめんね。私は、やっぱり死にたくなかったんだ」
「生きていたんなら、どうして、どうして今まで……っ、何処に? どうやって? 助かったんだな?」

 立ち上がり、宗純が手を伸ばす。指先が震えていた。そして確かめるように、謙翁の腕に触れる。するとしっかりと感触があった。そのまま――思わず、宗純は謙翁を抱きしめた。その温もりは、紛れもなく、たった一人の愛した人物と同じものだとすぐに分かる。本物だ。夢では無い。

「私は、さ。そうだな、わかりやすく言うならば、来世からこちらへと来たんだ。輪廻転生は一方通行では無いようでね、様々な時代に産まれるようでね。基本的には、未来に生まれるそうだけれど、時々私のように過去へと産まれる者もいるらしい」

 そんな事はどうでも良いと思いながら、宗純は抱きしめる両腕に力を込める。もう絶対に手放さないというように、強く強く抱きしめる。

「私は、その上、記憶まで持っていてね。最初、歴史管理人の紫峰さんに、逆向転生して『謙翁宗為』になったと言われた時は、何の話かと思ったんだよね。聞いた事すら無い名前だったからさ」

 無言で、宗純は謙翁の額に顎を押し付けた。涙腺が緩みかけていたので、それを見られたくなかったからだ。

「歴史管理人は、逆向転生者が保持している記憶を元に、歴史を改変してしまわないか注意して回る存在らしいんだけれどね――史実とは異なり、私と君は愛し合ってしまったらしい。紫峰さんはね、私達の死別を哀れんでくれて、実はあの日、特効薬を届けてくれたんだ。ただし、歴史が変わってしまわないように、私に死んだふりをするようにと話していて……酷な嘘をついたね」

 小さく宗純は頷いた。

「全くだ。俺は、謙翁を失う以上の苦しみを、おそらく今後の一生でも、二度と知る事は無いぞ」
「だけど、紫峰さんがね――君が悟りを開いて教えを無事に広める事が出来るようになった頃へと、私を時間移動させてくれると言ったんだ。だから私の体感的には、病気が治癒してから、まだ三日しか経っていないんだよね。この三日間、時間が流れる内に、君の愛が冷めていたらどうしようかとずっと不安だった」
「ずっと好きだ。一生好きだ。生涯好きだ。好きでいろと手紙に書いたのは、そもそも謙翁だ」

 必死に涙をこらえながら、宗純が言う。

「紫峰さんはさ、私に最初に会った時に、『今は一休さんに纏わる仕事をしている』と話したっきりで、それは私が話せるようになってすぐの事だ。前世……こちらから見ると来世の記憶はあったんだけれどね、驚いたよ」
「今は俺が驚いている。謙翁が生きていて嬉しすぎて」

 再会の感動を噛み締めている宗純に反し、こちらはたった数日離れていただけの気持ちである謙翁は、嬉しそうに続ける。

「必要最低限しか関わらない事になっていたんだけど……私が逆向転生者だったから、少しだけ歴史が変わりそうになっていて、監視をしていたみたいでね。それが、私達の恋だ。私が私に生まれなければ、この愛は無かったみたいなんだ」
「俺の中で謙翁は、たった一人だ。唯一の、俺の世界で、光だよ」
「まさか、一休さんが、宗純だったとはなぁ。私は、一休さんが名前だと思っていたよ」
「それは昨日貰った道号だ。もう良い、黙れ」
「ん」

 堪えきれずに、宗純は謙翁の唇を奪った。柔らかな感触も変わらない。宗純はそれを懐かしく思い、謙翁はいつもと同じだと思っていた。

「本当に私の事を好きでいてくれて、有難う。君が私を愛してくれたから、紫峰さんは、こうしてハッピーエンドを用意してくれたんだ」
「『はっぴーえんど』とは、どういう意味だ?」
「こうしてまた、会えた事。これからは、またずっと一緒にいられる。私は、ここで貧乏に――……清貧に暮らす事にするよ。既に華叟禅師には許可を頂いているんだ」
「俺もここに住む。もう、離れたくない」

 そう言ってから、腕を一度解き、謙翁の肩に宗純が両手を置く。

「そばにいてくれ」
「勿論」

 それから再び、二人はキスをした。