【9】「俺、抱き枕サービスをやろうかなぁ」




 その夜も、俺達はかなりの距離を置き、ルカス陛下は背中を俺に向けて横になっていたと思う――が、朝。俺は陽の光を感じながら静かに目を開けて、ぼんやりと瞬きをし、今日は余裕を持ってルカス陛下の顔を見た。本日も陛下は、俺を抱きしめて寝ている。寝相が悪いのだろうか。熟睡しているらしく、健やかな吐息が響いてくる。これでは、俺が抱き枕サービスに従事している気持ちにさせられる。

 しかし国王業は、妃業とは比べ物にならないくらい多忙なのだろう。いつも起きている時は、余裕そうな顔しか見ていないが、朝眠っている姿を見る限り、疲れている風だ。

「ん」

 その時、ピクリとルカス陛下が動き、ゆっくりと目を開けた。それからぼーっとしたように俺を見た後――再び目を閉じた。あ、二度寝の危機だ!

「陛下! おはようございます!」
「もう少し眠らせ……――!!」

 そこで陛下が飛び起きた。勢いよく双眸を開くと、俺をじっと見て、唖然としたように唇を震わせた。その後勢いよく俺を腕から解放すると、代わりに陛下は毛布を抱きしめて顔を覆った。

「すまなかった……悪い……ああ、もう、嘘だろう、どうして俺は……俺は一体、いつ、どの段階でお前を抱き枕に……」
「俺、抱き枕サービスをやろうかなぁ」
「……オルガ。お前は、いつから起きていたんだ?」
「五分前くらいです」
「何故その段階で、俺を起こさなかった?」
「え? いやぁ、お疲れなのかなと思って。眺めてたんだ」
「気遣いは有難いが、眺めて……ああ、自分が恥ずかしい……」

 本日もルカス陛下は真っ赤である。朝になると余裕が消える陛下が、面白く思えた。その後俺達は、レストを始めとした侍従の手で着替えた。本日の朝食は、宰相閣下も交えて、三人で食べる事になっているとの報告を受けた。

 そうして後宮一階のダイニングへと向かうと、宰相閣下は既に来ていた。
 その頃には、ルカス陛下は普段の様子に戻っていた。

 宰相閣下は、俺達が到着するまでの僅かな時間すら仕事に当てていたらしく、何人もの宰相府の秘書官が指示を仰いでいた。だが、俺達の姿を見ると、彼らはすぐに下がり、宰相閣下は立ち上がった。

「おはようございます、陛下。オルガ様」

 ……宰相閣下は当然のように、俺を『様』と呼んだが、慣れ無さ過ぎて困る。

「せっかくの水入らずのお食事に、お邪魔して申し訳ない」

 その後笑顔で宰相閣下が、あまり心のこもっていない感じで続けた。社交辞令だと分かる。瞳が、『早く仕事の話に入らせろ』と語っているからだ。その時、俺の隣でルカス陛下が息を呑んだ。

「べ、別に構わない! オルガと二人でなくとも、何の問題もない」
「? ええ。当然本気で問題があると思ったら、ここへは参りませんが?」

 宰相閣下が首を傾げた。俺も首を傾げた。するとルカス陛下が咳き込んでから、何故なのか一人で焦るような顔をし、席に着いた。俺も座る。宰相閣下は腕を組み、暫くの間ルカス陛下を見てから、心なしか呆れたような顔をした後に、ゆっくりと座った。

「それで本題だ。視察の件です」

 宰相閣下が切り出すと、ルカス陛下が細く吐息してから、冷静な顔に戻った。

「ああ、フェルスナ伯爵領への視察は、明後日出発だったな」
「陛下、二泊三日とし、中の一日で各地を回って頂きますが、大体はいつも通りで良いです」
「分かっている」

 二人のやり取りを聞きながら、俺はスプーンを手に取った。すると宰相閣下が、少ししてから俺を見た。

「オルガ様は基本的に、陛下の隣に並んで立ち、手でも振っていてくれれば良い」
「分かりました!」

 大きく俺が頷くと、ルカス陛下が嘆息した。そして俺に言った。

「黙って手を振っているようにな」
「はい」
「くれぐれも、黙っているようにな」
「え?」
「話すと、聡明ではないと露見してしまう」
「おい!」

 思わずムッとした俺を見て、ルカス陛下が吹き出した。宰相閣下まで笑っている。宰相閣下はそれからゆっくりと頷いた。

「確かに、新聞記事には大きく『聡明な文官だった』という見出しが出ていましたからな。嘘ではないが――悪い、笑った」
「嘘ではないんだ、宰相。俺もそれは認めよう」
「二人共、酷いですよね!」

 そんなやりとりをしていると、宰相閣下は優雅なのに高速で食事を終えて、席を立った。

「途中で悪いが、立て込んでいるから、失礼する。ああ、いや――水入らずの場を邪魔するのも悪いですしね」

 それから少しだけニヤリと笑い、ルカス陛下を見た。するとルカス陛下が咽せた。
 俺は再び首を傾げつつ、美味しい料理を堪能していた。

 こうして、この日も妃業務が始まった。

 ――今日こそは、書類の山は無いはずだ。そう確信しながら、レストが開けてくれた扉の先を見て、俺は顔を引きつらせた。今日も、膨大な量の書類がある。

「おはようございます、王妃様」

 デイルさんに挨拶された瞬間、思わず俺は声を上げた。

「この書類の山は、どこから来るんですか!?」

 夜中に誰かが運んできているのだろうか……そう考えていると、デイルさんが虚を突かれたような顔をした。そして、室内へと振り返り、何もない壁を見た。

「ええと、ですね」

 それからその壁まで歩み寄ると、ぴたりと端の花の模様に触れた。すると壁が上に登って行き――莫大な量の、雪崩も起きないくらいびっしりと敷き詰められた紙が見えた。ぽかんとして、俺は目を見開く。

「ルカス陛下が即位なさってから、王妃様は一人もおられなかったので、数年前の分から、今後予定される数年先の分まで含めつつ、表の書類も内部の書類も裏の書類も溜まりに溜まっております。普段は、急ぎの仕事や、オルガ様に処理が可能な量を調整しながら、こちらへお持ちしています」

 俺は気が遠くなりそうになったのだった。これでは、一日で終わらせるなんていうのは、無理である……!

 その後内容を聞くと、無論ハンコやサイン以外も必要な書類が大量にあると発覚した。俺はこの日、昼食も忘れ――夜は、ルカス陛下の誘いも断り、ひたすら仕事に没頭した。だが、そうであっても、壁の向こうの書類は、ほとんど減らなかったのだった。