【6】宰相閣下の精神力


「よし、落ち着いた」



 俺は使用人が用意してくれた紅茶を飲みながら、その声を聞いていた。使用人は俺にお茶を出すと、すぐに下がっていったから、現在室内には二人きりだ。考えてみると、宰相閣下と二人きりになった記憶はほとんどない。



「ええと――本日はお招き有難うございます」

「こちらこそ来てくれて感謝する」



 宰相閣下は俺の正面の席に座ると、テーブルの上にあった茶器に手を伸ばした。



「これ、つまらないものですが」

「悪いな。気を遣わせた」



 俺はチョコレートを差し出したので、とりあえず、招かれた者としての礼儀は果たしたと考えた。社交辞令のやりとりは割愛しても構わないだろう。



「あの、宰相閣下」

「なんだ?」

「どうして昨日は、俺にキスをしたんですか?」

「――してみたかったんだろう?」 

「宰相閣下としたかったわけじゃないです」



 思わず本心を告げると、宰相閣下が硬直した。それから、俯いた。なにやらどんよりとして見える。



「俺じゃ、そんなに不服か?」

「不服というか、初めてだったんですが」

「何? え、本当か?」



 今度は宰相閣下が目に見えて嬉しそうな顔になった。俺は思わず半眼になる。



「宰相閣下は誰とでもどの場所であってもキス出来る、と?」

「いいや。あの馬鹿二人の前であるし、構わないと判断して、俺は俺なりに勇気を出した」

「勇気?」

「あらゆる言葉を持ってして伝えてきたつもりだったが、さっぱり伝わっていないことを理解している」

「はぁ?」

「俺は進展が欲しい。そこで――物理的に攻めてみる方策に変える事にしたんだ」

「と、言いますと?」

「食事に誘ったり、希望するものを贈ったり――そうだ、何か欲しいものはあるか?」

「今は、竜族語の文献が欲しいですけど」

「当家の蔵書をそっくりレンドリアバーツ侯爵家に届けさせる」



 そういえば歴史の長いクロス侯爵家は、古の世には竜族とも親交があったと、先程まで読んでいた本に書いてあった。事実ならば、宰相閣下の申し出は有難い。



「言葉というのは、何ですか?」

「好きだと伝えただろう」

「……け、けどそれは、ほら俺は一応侯爵家の元跡取りだったわけで、宰相閣下もご当主ですし、無理があった話で、ただの冗談ですよね?」



 常識的に判断するならば、それ以外には考えられない。だが、俺の言葉に、宰相閣下が大きく首を振った。



「立場や身分など無関係だ。俺は、リュクスの事が好きなんだ」



 真剣な表情で言われた。宰相閣下は、冗談に聞こえない声音でいつも、俺を好きだと述べる。はっきり言って心臓に悪いので困る。



「結婚して欲しい」

「話がとっても急展開過ぎます」

「俺はお前と家族になりたいんだ」

「どうして俺と?」

「好きだからだ」



 俺は沈黙した。言葉が見つからなかったからだ。

 ――これまでにも、何度も繰り返されてきたやり取りであるのは間違いない。しかしキスをしたせいなのか、ちょっとだけ新鮮に聞こえた。ただ、俺はもう跡取りではなくなり、今後の生活を考えなければならないため、打算的に宰相閣下の言葉を真に受けようとしているだけにも思える。



 宰相閣下と結婚したら、俺は侯爵の配偶者となるので、将来的に安泰だ。

 だが、結婚って、そういう気持ちでして良いのだろうか?

 元々政略結婚をするつもりだった俺が考えるのもなんだが。



「リュクス、では、身分や立場さえ無かったならば、俺の事をもう少しは検討してくれたのか?」

「今の俺は侯爵になる予定も消えましたし、立場なんて無いです。身分でいうならば、宰相閣下のずっと下です」

「――お父上の事は残念だったな」

「あ、いえ、別にもう平気です!」



 暗い話がしたかったわけではないので、慌てて俺は笑顔を取り繕った。しかし宰相閣下はまじまじと俺を見ると、微苦笑した。



「あまり無理はしないように」



 俺の胸がドキリとした。俺は、好きだの結婚だのと言われる時よりもよほど、宰相閣下がこうして時折見せる優しさに胸を打たれがちだ。いつもは嫌味を放っている姿をよく見る分、そう感じるのかもしれない。世間では冷酷宰相と名高いのだが、俺には優しい。



「では、立場も身分も無いものとして、俺の事を現在どう思っているか聞かせてくれないか?」

「キス強奪犯」

「……あ、ああ。そうだな。それは詫びる。ただ心も強奪させてもらう予定でいると、先に断っておく」



 宰相閣下はそう言うと、カップを置いて、改めて俺を見た。



「他には、俺をどう思っている? もっとその、好きとか嫌いだとかいった恋愛感情という意味で」

「そう言われても、考えた事が無かったからな……」

「大至急考えてくれ……というか、無かったのか……」



 今度は宰相閣下が項垂れてしまった。しかし本心なのだから、偽れない。



「最近、政略結婚の相手には最適だと何度か考えました」

「俺はそれでも構わないぞ。公的にお前を手に入れてからの方が、余計な虫もつかず、安心して心を奪えそうだ」

「俺、我ながら最低な事言ってると思うんですけど、宰相閣下は前向きですね」

「強い精神力が無ければ、宰相職など務まらん」



 それはそうかもしれないが、宰相閣下はちょっとポジティブ過ぎるのでは無いだろうか。そもそも、真剣に話しているのだとしたら、これまで散々冗談扱いされてきても一切めげない精神力が凄すぎる。俺だったらとっくに諦めているだろう。



「……あの、俺のどこが好きなんですか?」

「仕事に対する直向きさに、まずは好感を抱いた。その後、気がついたら、リュクスの事しか考えられなくなっていた」

「俺達の仕事上の接点、ほとんどお茶会の席ですよね?」

「俺は宮廷の人間の仕事ぶりを定期的にチェックしている。お前は非常に頑張っている。たまに無理をしすぎているようだ」

「いつでも昇給は歓迎です」

「それを決めるのは俺ではないんだ、残念なことに」



 そんなやりとりをしながら、俺達は暫しの間、お茶を楽しんだ。