【8】大変な作業
その後、手続きの準備をすると言って、叔父と執事が出ていった。俺は――泊まっていく事になった。帰りたかったし、帰って叔父の誤解をときたかったが、もう彼らは乗り気であり、俺の話など微塵も聞いてくれる気配は無かった……。
虚ろな目をした俺は、客間の窓から庭を眺めていた。すると宰相閣下が戻ってきた。
「俺は今日、外堀を埋める重要性を、再確認してしまった」
「酷いです! どうして誤解だって言ってくれなかったんだ!」
「俺の婚約者になるのは嫌か?」
「良いとか嫌とかの問題じゃない!」
「政略結婚には、俺は優良物件なのだろう?」
「そういう問題でもない!」
俺は怒っていたのだが、宰相閣下は楽しそうに笑っているだけだった……。余裕たっぷり過ぎて、そこがまた憎らしい……が、別段嫌いではないんだよなぁと漠然と思った。嫌いではない、と、好きが同じで無い事は分かるが――意外と口に出した効果は大きかったようで、宰相閣下を見ていると怒りだけでなく、無性に恥ずかしさに似た困惑が浮かんでくる。
「リュクス、改めて言う。俺と結婚してくれ――」
「……」
「――ないと、既に国王陛下にもレンドリアバーツ侯爵が報告に出向いたそうだから、王宮全体の誤解をとく作業が仕事外に加わるぞ」
「は!?」
俺が目を丸くすると、宰相閣下がクスクスと笑った。
「無論、本当に嫌ならば、誤解をとく作業は俺も付き合う」
「むしろ率先してお願いしたい」
「――誤解ではなくする方向の大仕事が俺には入ったから、余裕がなくてな」
「え?」
「どうしてもリュクスと結婚したいんだ」
宰相閣下はそう言うと、そっと俺の頬に指先で触れた。背が高いなと改めて感じた。
「な、なんでそんなに俺と……?」
「ずっと見ていたから分かるが、最近、お前は寂しそうな顔をする事が増えたな」
「え?」
「それを見ていたら、無性にそばにいてやりたくなった。俺はお前のそばにいたい」
実際、家の件で俺は、若干寂しい顔をしていた可能性はある。しかしそれを見られていたと思うと羞恥が募る。
「俺と結婚してくれ」
「……誤解をとくより楽か?」
「恐らくな」
「……そんな理由で結婚しても良いか?」
「ああ」
宰相閣下はそう言うと、俺の額に唇を落とした。無意識に俺はそれを受け入れてから、ハッとして宰相閣下の胸元を押し返した。
「何するんですか!」
「キス」
「それは分かってる! っ、ン」
すると続いて、唇を掠め取るように奪われた。頬が熱くなって、俺は目を見開いたまま硬直した。宰相閣下はそんな俺を両腕で抱きすくめる。
「俺はお前のそばにいたいし、お前にも俺のそばにいて欲しい」
「……」
「結婚しよう」
「……うん」
俺は、ここまで愛してもらえている気がする上に、自分の心拍数の異常さにも気づいていたから、押し流されてしまおうと決意した。
――その日は、その後晩餐を共に食べ、俺は客間で、宰相閣下は自室で眠った。
そして翌日、改めてやってきた叔父立ち会いの元、俺は宰相閣下と婚約したのである。
こうして急展開で休息日の二日は終わってしまった。帰宅すると、宰相閣下が話していた通り、ごっそりと竜族語の本が届いていたのだが、馬車七台分も届いていた為、俺の部屋は本で埋め尽くされていた……。俺の部屋だけでは入りきらず、現在のレンドリアバーツ侯爵家の各地には、本が積まれている。
「帰ってきたら読もう」
呟きながら、週の初め、月の曜日、俺は職場へと向かった。本日はいつもより三時間早く出た。理由は、宰相閣下と共に、国王陛下に婚約した報告をする為である。俺も宰相閣下も雑用と国の要という違いはあれど、相応に多忙なので、適した時間が他に無かったのだ。
「あ、そう」
国王陛下は、眠そうな顔で玉座にすわっていて、俺達が挨拶すると、興味がなさそうに頷いた。
「こちらから見ると、遅すぎるくらいだよ。イルゼも、よく五年も片思いに耐えたというか、実って良かったというか」
俺は、『五年』と聞いて驚いた。俺が王宮に仕え始めた頃から、宰相閣下は俺を知っていたのか……。そういえば、仕事をチェックしていると話していたな。
「結局、脈ゼロ風だったのに、どうやってリュクスを口説いたの?」
陛下の言葉に、宰相閣下が腕を組んだ。そして、チラリと俺を見た。本日は笑顔がない。こちらが王宮での通常の宰相閣下の顔だ。たまに鋭い眼光にゾクリとする事があるほどである。が、この日はやはり特別だからなのか、目が合うと柔らかく口元に笑みを浮かべた。ちょっと目を惹く笑顔で、俺の胸が煩くなる。
「幸運な偶然があったとだけ言っておきます」
「あ、そう」
このようにして報告は終了し、俺達はそれぞれの職場へと向かった。俺が執務室に入ると、本日もユースが来ていた。しかし俺を見ると、いつもとは異なり、奇っ怪なものを見る顔つきになった。
「隊長? あの冷血宰相閣下と婚約したとかって噂、あれ、本当だったら、頭大丈夫ですか?」
「ん、ん? 噂ではなく、今、陛下にもご報告してきたが――……宰相閣下は優しいぞ?」
「は?」
俺の言葉にユースが驚愕したように目を見開き、ダラダラと汗を流し始めた。
「どこが? え? どこが?」
「どこって……言動?」
「ええええええ? 嘘? そうなの? 恋人の前では変わるタイプ? あの冷血が?」
「逆に聞きたい。イルゼのどこが冷血なんだ? 確かに冷徹な宰相閣下としての噂は聞くが……」
……が。俺には優しい。沢山愛の言葉も囁いてくれる。こう考えたら、途端に恥ずかしくなってきてしまった。俺は自分で考えていたよりは、ずっと宰相閣下が好きであるようだ。
「敵認定されたら容赦なく王宮追放コースを逝く事になるじゃないですか!」
「敵? 政敵か?」
「それも含まれるだろうけど、そ、それに、ご自分にも厳しいけど部下にもひたすらに厳しいと聞くし」
「仕事だからな、厳しい方が良いだろう」
「何そのフォロー!?」
ユースが珍しく俺の前に、お茶を置いた。そして俺を小さな応接席のソファへと強制的に座らせると、隣に並んで腰を下ろした。彼は自分のカップからゴクゴクとお茶を飲み、そうして続けた。
「雑談といえば嫌味、笑顔といえば冷笑、鬼のような恐ろしさじゃないですか!」
「俺には嫌味を言わないし、笑顔は……少なくとも冷たくはない。恐ろしい方じゃないぞ?」
「本当に相思相愛みたいで、僕は死ぬほど驚いてる!」
その言葉を聞いたら、一気に俺の側に『相思相愛である』という自覚が芽生えた。思わずにやけそうになる。
「隊長、仕事は出来るけどぼんやりしてるから、どうせ外堀埋められて強引に結婚させられる事になったんだと思ってた!」
「う」
そ、それは、事実だ。間違っていない。しかしたった今、俺の中では自覚が芽生えたのだ……。宰相閣下も話していたが、口に出す効果というのは大きいらしい。
「とりあえず、今日の仕事に取り掛かるぞ」
「あ、はーい」
俺は少しだけ濁すようにしつつ、仕事を開始する事にしたのだった。