【13】引越しについて



 昨夜は、そのまま俺は眠ってしまったらしい。

 目が覚めると既に朝方で、俺はもう一度風呂を借りた。

 宰相閣下は起きていて、仕事をしていた……やはり、大変そうだ。



 気怠い体を引きずって入浴を終えた俺は、執務机の後ろにあるソファに座り、宰相閣下を眺める。宰相閣下は、時折俺に振り返ると、微苦笑していた。



「眠いと言っていたのに、さらに眠れぬ夜をもたらしてしまったな。そこは悪かった」

「それ以外も悪いだろう!」

「例えば?」

「意地悪だった! もっと優しくしてくれ! 俺は初めてなんだぞ!? 経験がないんだぞ!」

「嬉しい誤算だったが――俺としては最大限優しくしたつもりだが?」

「え、あれで?」

「あれで。なんだ、悪かったか? 良くはなかったか?」



 露骨な言葉に、俺は瞬時に赤面した。自分の痴態が脳裏をよぎる。良い所ばかりが思い浮かんでくる。正直言って、気持ちが良かった。



「イルゼは、どうだったんだ?」

「ん?」

「そ、その……俺で、満足できたか?」

「全く足りない」



 それを聞いて、俺の胸が抉られた。涙ぐみそうになる。やはり未経験の俺の手腕で、というより俺は寝転がっていただけであるし、それではダメなのだろう。



「もっと欲しい。仕事さえなければ、今日も明日も明後日もずっと繋がっていたい」

「――え? 俺の体じゃ満足出来ないって意味じゃなくて?」

「体? それはお前以外では満足する事がありえない。お前に惚れてから、ずっと俺は乾いていたというのもあるが……片思い中であっても俺は個人的な感覚として浮気はしないんだ。つまりかなり久しぶりで、がっついてしまった事は謝る。余裕が消えた」



 そう言うと宰相閣下が筆記具を置いて、立ち上がると俺の正面に座った。



「俺はどんどん贅沢になる。それが悪い事だとは思っていない――毎日リュクスと過ごしたい。だから引越しの件、早急に検討して欲しい」

「え、け、けど……普通は結婚してから引越しだろう?」

「俺は今日にでも結婚しても構わない――が、お互い侯爵家や王宮の仕事の兼ね合いで、式には何人も招かなければならないだろうしな……面倒なものだな、貴族というのも」



 苦笑してから、卓上のロックグラスをひっくり返して、宰相閣下が水差しからレモン水を注いだ。そして俺を改めて見る。



「だから、同居だけ先にしないか? そういう事例は多々ある」

「家族と相談してみる」

「お前の家族は、既に俺だという認識だが?」

「!」



 その言葉が嬉しくて、俺は思わず目をきつめに閉じた。我が家に帰ると、確かに若干疎外感がある――から、というわけではないが、自分にきちんと家族がいると思うと、何故なのか無性に嬉しくなる。



「俺も……イルゼの家族になりたいと思ってる」

「本当に俺の事を好きになってくれたみたいで、俺は嬉しくてならないんだ」

「……だって。仕方ないだろう? 意識しだしたら、イルゼの言葉はいちいち甘いんだよ! 俺にとっては優しすぎた。あれで好きにならない方が難しい」

「セックスが意地悪でも、それは変わらないか?」

「バ、バカ! な、何言い出すんだよ!」

「変わらないらしいな、その反応は。安心した」



 俺達はそれから、朝まで雑談をして過ごした。そして朝食をご馳走になり、俺はクロス侯爵家の馬車で、この日は宰相閣下と二人で登城する事になった。



 こうして職場に行くと、ユースが窓の前に立っていた。非常に遠い目をしている。



「ユース、どうかしたのか?」

「一緒に出勤とか……精が出ますね、いろんな意味で」

「へ?」

「この位置からだと馬車がよく見えて……朝から上司の同伴出勤とか嫌なもの見ちゃったよ、僕は!」



 宰相閣下と一緒に来た姿を見られていたと知り、俺は赤面してしまった。



「キスマークついてますけど」

「え!?」

「――嘘です。そのかっちりした服で見えたら奇跡だ。から、カマかけたんですが、やっぱりご同衾も?」

「!!」

「まじすか。うわぁ……宰相閣下とか絶対ドSっぽいのに、よく体が持ちますね」

「やめろ、やめてくれ、もう聞かないでくれ!」



 俺は思わず両手で顔を覆った。するとユースが嘆息した。



「それで、式はいつなんですか?」

「まだ正確には話していないが、恐らく来年だろうな。会場の手配や招待もあるし」

「――それまでは、日参ですか? クロス侯爵家に」

「いいや、そうだ。一緒に住もうと話していてな」

「は? じゃあ、書類書き換えないとじゃん……王宮に提出しないと」

「そうだった! 住所変更手続きが必要だ。ええと……他には何が必要だ?」

「自分で調べてくださいよ!」



 そんなやりとりをしてから、俺達は本日の仕事を開始した。今日は朝から翻訳魔術の更新作業に従事出来た。考えてみると、竜族語の文献も、これからクロス侯爵家で過ごすのならば、送り返さなければならないだろう。



 そう考えながら、この日は、我が家――レンドリアバーツ侯爵家へと帰宅した。本日は、宰相閣下は夜遅くまで会議らしい。だから、一度も顔を見る事が出来なかった。それが少し寂しいと思ったが、考えてみると朝まで一緒だったのだから寂しいも何もないはずだ。



「おかえりなさいませ」



 フェルナードに出迎えられると、それはそれで、やはり落ち着いた。この慣れ親しんだ家から出ていくというのは、考えてみると、俺にとっては一大転機でもある。



 晩餐の席へ行くと、ニコニコしている母と、俺を見て微笑している叔父と、レノンの姿があった。



「遅くなりました」

「本日もお疲れ様」



 母はそう言ってから、扇を手にし、口元を隠した。



「リュクス、宰相閣下より手紙が届いておりました。私と旦那様宛に、それぞれ」

「え?」

「――君をクロス侯爵家に、式前から住まわせたいという内容だったよ」



 叔父が補足してくれた。それを聞いて、俺は自分から報告するはずだった為、驚いた。その上叔父は、俺が本日用意しようと考えていた、住所変更の書類まで手にしていた。



 いつか宰相閣下が口にしていた『外堀』という言葉が、俺の脳裏をよぎった。



「私としては、寂しいです……リュクスには、せめて、結婚までの間は、こちらで暮らして欲しかったんだもの。ねぇ、旦那様?」

「私も同じ気持ちだ」



 二人の言葉に、俺の胸が少しだけ温かくなった。俺個人が、自分は邪魔なのではないかと考えていただけなのだろうなと深く思い知らされた気がする。



「ただ、相思相愛の二人の邪魔をする事は出来ない」

「そうなのよねぇ。私も旦那様と同じ事を思うのですよ……」

「リュクスはどうしたいんだい?」



 叔父の問いかけに、俺は暫しの間悩んだ。悩みながらフォークとナイフを手にする。そして、意を決して告げた。



「俺は、イルゼ――宰相閣下の所で暮らしたいと思っています」



 だって仕方がない。会えない今夜を寂しいと感じてしまったのだから。

 その夜、俺の出した答えを、家族は結果的に祝福してくれた。