<0>SIDE:時島青


俺は購買で買った、イチゴのジャムパンをくわえた。
傍らには、ヨーグルト風味飲料。続いてそのストローを噛む。これは、毎日繰り返される昼休みの一光景だ。

「良く飽きないよね」

正面で食べていた、槙永まきながに言われた。
俺はフェンスに背を預けて、胡座をかきながら空を仰ぐ。ギシギシと音がした。

「良いだろう、好きなんだから」

白い入道雲がもくもくと浮かんでいた。ラピュタがありそうだ。

「それはイチゴジャムが? それとも高山先輩が?」

高山先輩とは、俺が男なのに、恋いこがれている男の先輩だ。
次の春で卒業してしまう。剣道部の主将だ。
髪を染めている槙永や俺とは異なり、自然のままの黒髪だ。あみに槙永はピンクが強い茶色、俺は焦げ茶色に染めている。

この高山先輩が、無類の甘党なのだ。
出会いは購買だった。
俺が最後の一つのジャムパンを譲り渡した。その時先輩は、たった一言「悪いな」と口にした。それだけだ。向こうは俺のことなど覚えていないだろうが、俺はその日から、アーモンド型の先輩の視線を追わない日は無くなっていき――気がつけば恋をしていた。

「絶対に誰にも言うなよ」

たった一人だけ恋心を話した親友を、俺は目を細めてみた。

「僕の口が堅いのは知ってるだろ?」

俺が釘を刺すと、クスクスと槙永は笑った。
槙永は鋭い。何せあちらの方から、先輩を好きなのかと聞いてきたのだ。
曰く――いつも俺のことを見ているからとのことだった。流石は親友だ。
俺と槙永は、同じ中学を卒業していたが、高校まではあまり話しをすることがなかった。仲良くなったのは、去年同じクラスになった時のことだ。現在の俺達は高校二年生だ。

「それにしても、今日眠そうだけど、どうしたの?」
「昨日遅くまで映画を見てたんだよ」

俺はあくびを噛み殺した。

「またホラー? それとも自然災害パニック系?」
「ゾンビ」
「ゾンビかぁ――時島は、哲学的ゾンビって知ってる?」
「なんだそれ?」
「自分が……そうだな自分の意志が作られた物ではないと誰も証明するのが難しいみたいな問いだよ。指向性の問題」

槙永の問いは、時に難しくてよく分からない。流石は図書委員だ。少しだけ垂れ目の彼の顔は、どこか理知的だ。

「じゃあ米国の大学で、ゾンビ学の講義があるのは知ってるか?」

俺も負けじと雑学(?)を披露することにした。

「全く知らないよ」

そんなやりとりをしながら、俺はパンを一つ食べ終えた。次はコロッケパンだ。

「だけど考えれば考えるほど、ゾンビって不思議な生き物だよな」
「心臓は動いてるの?」
「モノによるけど、頭を潰すと止まるパターンが多い」
「じゃあゾンビに血圧って有るのかな?」
「血圧?」
「人は死ぬときに血圧が下がるでしょう? そう言う言う意味では、低血圧の時島なんかは、天国に最も近いところにいると言っても過言ではないね」

時島青ときしませいが、俺の名前だ。

「高血圧だってやばいんじゃないのか?」
「まぁね――血管がバン」

そんなやりとりをしている内に昼休みは終わりを告げた。


そして放課後が訪れた。今日は、高山先輩の顔が見られなかった。残念に思いながらも、まっすぐ俺は帰宅した。

「あれー、おかえり! 早かったね」

リビングのソファに鞄をおいたとき、弟の、シロに声をかけられた。
ちなみに兄の名前は、シキと言う。親戚の名前も、色シリーズだ。時島紫ときしまゆかりと、みどりだったりする。名付けが面倒だったのだろうか……。

「今日はテスト前だからな」

俺はお世辞にも頭が良いとは言えない。
白は、天然物の色素の薄い髪を揺らしながら、肉じゃがを作っていた。
帰りが遅い父母の代わりに家事を引き受けてくれている。
俺は壊滅的に家事が出来ないので、任せっきりだ。
警察官の兄は、一人暮らしをしているし。
鼻を擽る良い匂いに食欲がそそられる。
俺にとって白は、本当に大切な弟だ。白がいるから、いつだって俺は安心して家に帰ってくることが出来る。何があっても、兄として力になりたいし、守ってやりたいと思っている。俺にソレが出来るのかは不明だけど。

その後両親が帰宅した。父が言う。

「今日は肉じゃがか、丁度食べたかったんだ」
「本当に白は料理が上手ね。青、貴方もたまには作りなさい」
「あー、分かってるって」
「良いよ、俺、料理好きだから」

監視カメラを扱う会社の重役をしている父と、TVのアナウンサーをしている母。そして弟。此処に兄さんがいれば完璧だった。
俺は心底家族に恵まれていると思う。

――翌日。
今日は移動教室の時に、高山先輩を見ることが出来た。いつもは仏頂面なのに、珍しく、くすりと笑っていた。その笑顔に心が温かくなった反面……笑みを浮かべた対象を見て、僕は胸が疼いた。そこにいたのは先輩の幼なじみの香堂先輩だったからだ。高山先輩は、香堂先輩にだけは、柔和な笑みを時折見せるのだ。それが少し羨ましい。

その日の放課後は、槙永と何とはなしにハンズに行った。予定では、その後サイゼで勉強することになっている。その前の軽い現実逃避で向かったのだ。今日は曇天で、もうすぐ雨が降りそうだった。ああ、傘を持ってこなかったな。

「木工用具って、見てて何が楽しいの?」

俺が長生きの棒を手にしていると、槙永が半眼になっていた。

「猫用の遊び道具作ったり楽しいぞ」
「本当手先だけは器用なんだから」

俺の趣味は日曜大工だ。
それから大きめのペンチとネジとワイヤーを購入した時の事だった。
階段を、光の加減なのか青白く見える誰かが降りてきた。

「何か具合悪そうだな」
「そこで声をかけようとする時島の優しさが僕は嫌いじゃないよ」

ただし俺達がいた位置は階段から遠かった。
だから、先に声をかけた人物がいた。

「大丈夫ですか?」
「……」

その瞬間だった。青白い人物が、声をかけた青年に噛みついたのは。血が飛び散る。鮮血で白い床が汚れていく。
青白いと思っていた人物は、よく見れば、顔の色が紫色――腐っているような、そんな趣だった。紫なんて色が人間にあるわけがないから、思いこんでいたのだ。その時紫色の頬の肉が崩れ落ちた。辺りには腐臭が漂う。

助けようとした青年の絶叫だけが、ただ嘘くさかった。。
フロアにいる人々は、皆動きを止めている。

――映画かドラマの撮影だろうか?

多分誰もが思った事柄だろうし、俺もそう考えた。
人間とは不測の事態が訪れると、現実感を失うのかも知れない。

それが阿鼻叫喚に変わったのは、腐肉の主が、助けた青年の腕をとり、喰べはじめた時の事だった。皆が悲鳴をあげながら階下へ向かって走り始める。その時助けようとした青年が不意に立ち上がった。見れば、眼窩から目が飛び出し、唇は紫に変色し、皮膚は腐り始めているのか、茶褐色に変わっている。

俺は未だ呆然としていた。
すると槙永に袖を引かれた。

「逃げよう」
「――……いや」

階下に緩慢な動きで向かっていく二人の――”人であったモノ”を見据え、俺は首を振った。先日見たゾンビ映画を思い出していたからだ。”あれら”は、たちの悪い病気にでも感染した患者なのだろうが、俺の中では”ゾンビ”にしか思えなかった。ゾンビといえば、相手にするなら武器がいる。それに、人間の血肉を食べて存在を広げていく存在ならば、より人が殺到している階下は危険に思えた。だから視線で、安全そうなスタッフルームを見つけて、唇を噛んだ。

「とりあえず、あそこに避難して様子を見よう」
「……分かった、付き合うよ」

こうして俺達は、そのフロアの小さな部屋に入り、中から施錠した。

――多分、俺が”ゾンビ”だなんて考えたのは、現実逃避だ。
そんなことがあるわけがない。


しかし、現実は残酷だった。