【7】性教育と猥談。




 数日後。久しぶりの快晴だった。雲一つない青空のもと、キースは二階の外階段へと出た。

「階段の掃除くらいは、今まで通りやるか……手で」

 呟いてみる。片手には箒がある。柄を持って動かしながら、キースは何気なく塔の上階を見上げた。昨夜も遅くまで、ユーグはトーマに対し、知識伝授を行っていた模様である――そうキースが思うのは、四階から二階へと通じる階段が軋む音を夢現に耳にしたからだ。トーマがユーグの部屋から帰った音である。

「客人への対応も暗黒魔導師の仕事というんだから、魔獣討伐と同じ職務だよな……」

 そう呟いてはみるのだが、これまで日に一度は修行の進み具合を確認しに来たユーグが、食事時を除くと顔を出さなくなった事を考えると、キースは複雑な気分になる。

「……」

 無言で手を動かしながら、キースは唇を噛んだ。今の師匠は、まるで昔から飼っていた猫がいるのに新しい猫を迎えてそちらに夢中の子供のように、キースには思えた。

「……師匠の浮気者」
「浮気?」

 そこへ気配なく声がかかった。驚いてキースは飛び上がりそうになった。恐る恐る振り返ると、そこにはファルレが立っていた。キースは引きつった笑みを浮かべながら、金縁の黒いローブ姿のファルレを見る。金色の竜が刺繍されているそのローブは、ファルレの余所行き用のローブだ。

「やっとユーグは、君に性教育を行ったの?」
「セイキョウイク?」
「……違うみたいで不憫になってきたよ」
「それは、客人には与えている黒塔の知識か何かか?」

 ファルレは嘆息するだけだった。キースには、意味が分からない。ファルレは知っていた。ユーグが面白がって、幼少時からこの塔で暮らすキースに、性的な知識を一切教えていない事を。それは大陸に降りた時、王侯貴族が一夜限りの場を用意すると述べても、キースが何の話か理解している様が皆無であったから、すぐに分かった。夢精については、一体どのように伝えているのかをファルレは知らない。

「午後から、少し僕は大陸に降りるから、今日は準備を手伝ってもらえる?」
「あ、ああ!」

 黒塔にいる暗黒魔導師では無い者は、キースだけ……今は客人がいるとはいえ、そしてそのトーマが生活密着魔術を使用してくれているとはいえ、根本的な雑用は、キースの仕事である。

「フェニキリア王国の古地図と現代地図の用意と、過去に集積してある土地由来の魔力色の資料を書庫から運んでおいて」
「分かった」

 こうしてこの日は、やる事が出来た。階段掃除をすぐに終わらせて、キースは指示された通りに書庫へと向かう。扉を開けると、綺麗に整頓されている魔導書がすぐに視界に入ってきた。頼まれた資料は魔導書ではないので、別の書架の列へと向かい、キースは奥の机の前に座るトーマに気がついた。

 集中しているようなので、邪魔をしては悪いと思い、キースは気配を押し殺す。だが、一歩遅かったようで、トーマが顔を上げた。

「キース様」
「よぉ。何を読んでるんだ?」

 師匠を取られたようで寂しくはあるが、キースは別段、トーマが嫌いなわけではない。だから笑顔を浮かべて、トーマに声をかけた。すると本を閉じてから、トーマが頬杖をついた。

「掃除以外の生活密着魔術の文献だ。ユーグ様が是非読むようにとおっしゃってな」
「お、おう。え? 師匠はお前に、本当に雑用をさせる気なのか?」
「代わりに暗黒魔導師が自ら書いた魔導書を読めるんだ。安いものだと俺は思う」
「ふぅん」

 魔導書に囲まれて育ってきたキースには、その価値観はすぐに理解出来るものでは無かった。ファルレに頼まれた文献を抜き取りながら、キースは思案する。気になる事が他に一つあったのだ。ここにトーマが来てから、一度もあるはずのものを見ていないのだ。

「トーマってさ」
「?」
「笑わないのか?」

 単刀直入な問いである。キースは本心を口走るたちである。
 するとトーマが虚を突かれたような顔をした。目を見開いている。睫毛が長い。

「……そうだな。最近は笑った覚えが無いな」
「黒塔の生活に不便があるとか? そ、その、客間の担当は俺だからな、なにか困り事があるなら、解消できるように手を貸すぞ?」
「そういうわけではないんだ。毎日が――今が、一番充実していると俺は感じているから」

 トーマはそう言うと、緩慢に瞬きをした。それを聞きながら、キースはカップを傾ける。

「んー、ちなみに、好きな事はなんだ?」
「好きな事?」
「楽しい事でも良い。思いっきり笑えるような事って何かないのか?」

 その問いに、トーマは俯いた。それから顔を上げると、どこか白けたような色を瞳に浮かべて、淡々と言葉を放つ。

「好きな事はセックスだな。楽しい事は、相手を快楽に叩き落とす事だ。最後に思いっきり笑ったのは、自称ドSをメス堕ちさせた時だな」

 トーマの言葉を聞いて、キースは首を捻った。

「セックスって何だ?」

 本当に、キースには、性的な知識は無いのである。

「は?」

 しかしそのような事情を、トーマは知らない。てっきり冗談だろうと言われると考えていて、笑われるのではないかと思いながら発言しただけだった。己が笑う代わりに、ちょっとだけキースを驚かせたいという心からの言葉だったので、返って来た声に狼狽える。なお、セックスが好きなのは事実だ。

「快楽っていうのは……大規模魔術に成功した時の爽快感みたいなものだろう?」
「……それは特殊な性癖だな」
「そうなのか? ちなみに、メス堕ちってどういう意味だ? ドSって何だ? 全般的に初めて聞く言葉ばかりだぞ」

 困惑したキースを見て、トーマは呆気にとられた。その結果、思わず笑ってしまった。小さく両頬を持ち上げて、柔和に目を細め、唇の端を穏やかに持ち上げる。

 その表情があんまりにも綺麗に見えて、キースは目を見開き硬直した。何故なのか胸が早鐘を打ち始め、顔が熱くなっていく。その間も、トーマからは目が離せない。こんな身体反応を、キースはこれまでに経験した事が無かった。だからハッとした。

「トーマ、お前今、なにか魔術を使ったか?」
「いいや?」
「なんだかお前の笑顔を見たら、胸が煩くなって、顔が熱いんだ」
「っ、確かに真っ赤になっているな……? 猥談に弱いのか?」
「胸がドキドキする。もっとお前の笑顔を見たいし、声も聞きたい。トーマ、これはなんだろう。俺は、病気か? ずっとそばにいたい気分なんだ」

 純粋なキースの疑問を耳にし、トーマは呆気にとられた。唖然としながらキースを見て、トーマは思う。そんな反応は、恋以外には存在しない。

「――セックスと俺が言ったから、口説いているのか? お誘いか?」
「お誘い? だから、セックスって何なんだ?」
「た、ただ純粋に……そ、その……本気で俺のそばにいたいと思って、ドキドキしているだけなのか?」

 恐る恐るといった様子でトーマが尋ねると、大きくキースが頷いた。その表情を見て、トーマは瞬時に照れた。真っ直ぐに好意を向けられた気分だ。そしてそれは、羞恥を煽る。だから思わず、唇を片手で覆った。トーマの側も赤くなってしまったため、顔を隠したかったというのもある。己が赤面しているのを、トーマは自覚できたのだ。

 お互いが真っ赤になったままで、キースとトーマの間には、無言の空間が訪れた。

「お前ら、何してるんだ?」

 そこへ音もなくユーグが現れた。ハッとしたようにトーマは顔を上げ、キースは少し胸の動悸が収まったのを理解していた。

「師匠、俺は変なんだ」
「ん? いつも通りに見えるが?」
「あのな――」
「キース様、言わなくて良い」

 説明しようとしたキースを、トーマが遮った。視線をユーグとトーマの間で彷徨わせてから、小さく頷くと、キースは手に抱えた文献を示す。

「変なのはともかく、ファルレ様が魔獣討伐に行くらしい」
「おう、聞いている」

 実を言えば少し前から気配を消してその場を見ていたユーグは、二人の反応に内心で笑っていたが、可哀想に思えたので、何も言わない事にした。笑顔に一目ぼれしたのだろうと判断していたが、その笑顔の理由が、性的知識の無さを笑われてであるキースが不憫に思えたのである。またトーマが下ネタを口走るのも、ユーグから見ると意外だった。