【8】意識する素人童貞。



 キースがその後、羊皮紙の束と書籍を持って階下へと向かうのを見送り、ユーグはトーマの正面に座った。そして深々と背を椅子に預けると、無地のローブを纏った腕を組み、長い足も組む。トーマは、先程のキースの反応を思い出しながらも、何とか平静を保とうと努力していた。

「いやぁ、お前……意外と良い趣味をしてるんだなぁ」

 その時、ユーグが声をかけた。聞かれていたと気づき、トーマが苦い顔をする。

「一人旅が長かったので、花街に行く機会は相応にありましたから」
「素人童貞?」
「っ、な、なんで――」
「言ってみただけだ。そうだったのか」
「……」
「そんなお前を見込んで頼みがある」

 ユーグはそう言うと、喉で笑った。片手で無精髭を撫でている。

「俺は弟子と性的な話をするのが苦手でな」
「……」
「キースに性教育をしてこなかったんだ」
「はぁ……なるほど、そうだったんですね。それでキース様はあんなに動揺を……」
「動揺ねぇ」
「俺に頼みとはなんですか?」

 トーマが改めて尋ねると、ユーグが唇の両端を持ち上げた。

「キースに性教育をしてやってくれないか?」
「え?」
「筆おろしも込みで。お前は上のようだから、キースが下で別に良い」
「は?」

 呆気にとられてトーマは目を見開いた。ユーグはただ、楽しそうに笑っているだけだ。

「基本的には、トーマは真面目そうであるし、弟子を安心して任せられそうだ」
「な、何をおっしゃっているのか、ちょっと俺には理解が……」
「お前だって素人童貞を捨てられる貴重な機会だろう?」

 トーマが露骨な言葉に咳き込んだ。噎せている彼を見ながら、ユーグが続ける。

「俺はなんて弟子思いなんだろうなぁ」
「……」

 自分だったら、と、トーマは考える。預かり知らぬ所で、貞操の危機をもたらす師など非道ではないのか。ただ……先ほど真っ赤になっていたキースを思い出すと、興味がわかないわけではない。

 このグリモアーゼという世界は、大陸の一部の国を除いて、性別を問わずに恋愛や結婚という行為がなされる。その為、性別は問題にはならない。好きになったら、好き、愛がそこにあれば構わない――例えばそれは一夜限りの仕事でも同一だ。

「今夜から頼むぞ」
「え」
「キースには、お前の部屋に行くように伝えておくし、夜にやっていた俺からの知識伝授はもう終わりとしよう。これは前々から思っていたんだ。以後は昼、キースとお前に一緒に稽古をつける。稽古というより、キースの苦手分野である転移や透過の魔術をお前に見せて欲しいんだ。それもまた、黒塔に有益な事象をもたらすという理由で招く客人の義務だ」

 つらつらとそう告げると、ユーグが立ち上がった。そのままユーグはトーマを残して、書庫を出る。そしてゆったりとした足取りで階段を下りていき、二階の居間の床を踏んだ。そこではキースから受け取った資料を、ファルレが読んでいた。

「キースは?」
「今度は旅支度をお願いしたから、上に行ったよ」
「そうか。気をつけて行ってこいよ」
「何があるかは分からないからね」

 そう言ってファルレが羊皮紙を綺麗なテーブルの上に投げた時、キースが荷物をもって降りてきた。それを受け取って、ファルレが立ち上がる。

「予定より少し早いけど、行ってくるよ」

 そのまま――残されたユーグとキースが瞬きをした瞬間には、ファルレは転移をしていた。遠距離の転移魔術は非常に難易度が高い。呼吸をするように、それを操るファルレは、このグリモアーゼの人間で一番膨大な魔力を持つだけでなく、相応の知識と実力もある。

「俺も転移魔術を磨かないとなぁ」

 キースが漠然と呟くと、その肩をユーグが叩いた。

「明日の昼からは、トーマに転移魔術や透過魔術のコツを聞く形で、三人で鍛錬場に行くぞ。俺は、まぁ、毎日は行かないかもしれないが。ちょっとやる事が山積みでな。お前がトーマの相手をしてくれ」
「コツ……やっぱり俺より優れた技法の持ち主、って事だよな?」
「そうだな。しかし俺は信じているぞ。キースなら、覚えればトーマと同じ事が可能だ。ただ、な」
「ん?」
「同じになる必要はない。キースが二人いる必要はないし、それはトーマも同じだ。全く同じならば、一人いれば十分だ」

 それを聞いて、キースは大きく頷いた。

「やる事っていうのは、研究か?」
「まぁ、そんなようなものだ。ファルレが帰ってくるまでにまとめてしまいたい事柄があってな」
「手伝うか?」
「――いいや。お前はいるだけで、手伝ってくれているも同然だ」
「へ? どういう意味だ?」
「その内分かる。それよりもキース、今夜からは、夜の客人の相手も代わってくれ」
「俺が?」
「トーマから多くの事を学ぶといいし、お前も教えてやるといい」
「何を? 魔術は昼間学ぶんだろう? 俺に出来る知識の紹介なんて、何かあるか?」
「キースは、とりあえず夕食後、入浴を済ませたら、今日から毎日トーマの部屋に行けば良い」
「行くだけで良いのか?」
「おう。トーマがよほどの失態を犯さない限り、行けばなんとかなるさ」
「ふぅん」

 曖昧にキースは頷いた。これまでの間、ユーグの指示で間違いがあった事は一度もないし、信頼しきっていた。まさか、ユーグが、ほぼ面白がっているだけだとは考えてもいなかった。

 その後ユーグが己の研究室に向かったのを見送り、キースは昼食作りを始める事にした。メニューを考えながら、食在庫を見ている内に――ふと、先ほどの胸の動悸について思い出した。

 瞬きをすると、トーマの笑顔が頭に浮かんでくる。あんまりにも綺麗に思えたし、今もそう感じているが、こんな体験は初めてである。思い出すだけで、頬が熱くなってきた。

「俺には、生活密着魔術はほとんど使えないけどな……料理は褒められたから、そこは優っているのかもしれない、し、う、うん……」

 ブツブツと呟きながら、キースはトーマに美味しい料理を出したら笑顔を再び見る事が出来るだろうかと考える。すると料理にも気合いが入ってしまった。

 しかし昼食の時間には、ユーグもトーマも二階に来なかったので、一人で虚しく子羊の肉を食べる。ナイフとフォークを動かしながら、早くも夕食について考えていた。ここの所一緒にお茶を飲んでいたファルレも、今日からはいないから、午後はずっと一人なのだろうと考える。それが少し寂しい。

 ――午後。

 二階の綺麗になった居間で、食後キースは、魔導書を開いていた。明日から一緒に訓練をすると聞いていたから、その予習だ。以前トーマ本人には断られたが、師であるユーグのお墨付きなのだから、共に魔術を使ってみるのは確実だろう。

 そう考えながら活字を視線で追いかけていると、階段が軋む音がした。

「あ」

 顔を上げると、トーマが降りてきた所だった。目が合うと――瞬時にトーマが赤面し、片手で唇を覆った。その反応の意味が分からず、キースは首を傾げる。

「どうかしたのか?」
「……別に」

 書庫でのキースの言動や、先ほどのユーグの言葉から、トーマはキースに対して尋常ではなく意識してしまうという事態に陥っていた。だが、トーマから見るとあんまりにも普通のキースを見ると、自分だけが意識しているらしいと気づいて恥ずかしくなってくる。

 キースは、いつもの無表情が崩れているトーマを見て、もっとこういった様々な表情が見たいと感じた。

「座れ。美味しいケーキを作ったんだ。チーズ!」
「あ、ああ……」

 立ち上がったキースを見ながら、トーマはソファに座る。対面する位置だ。そこへキースがケーキを運んできて、魔術でコーヒーを二つ用意する。

「キース様、その……」
「ん?」
「夜の話を聞いたか……? ユーグ様が、伝えると話しておられたんだけどな……」
「おう、俺に出来るか分からないけど、頑張る。何をするか詳細は、トーマに任せる形だろう? 師匠はそう言う口ぶりだった」
「……キース様は、それで良いのか?」
「え? そりゃあ、俺はまだ暗黒魔導師ではないから、力が不足している部分もあるかもしれないが、精一杯頑張るし、俺も知識が欲しい」

 まさか性教育であるなどとは知らないキースは、何度も頷きながら口にした。トーマは無論、キースは事態を正確に聞いていると思っていたので、どんどん緊張していく。

 トーマは黒塔に来てからは自慰などもしておらず、相応に欲求不満だった。同時に、率直に言って、キースが好みでもあった。笑顔が多く、まだ多少のあどけなさが抜けきっていないキースは、見ていて明るい気持ちになると同時に、根が生真面目なのが伝わってくる上、本当に知識が無いらしいと聞くと――汚してみたくなる。

 ユーグに指摘された通り、トーマは素人童貞である。なので、手とり足とり、好みの人物に快楽を教えてみたいし、初めてを貰ってみたい。

 トーマからすれば、目の前に、ポンと据え膳が置かれた形だ。恋かと言われるとそれは違うのだろうが……既に頭の中は、キースを抱く空想でいっぱいだ。

 しかし表面には、まったくそんな想いは見えない。俗に言う、むっつり……それが、トーマに対する、適切な形容だろう。

「夜は、よろしく頼むぞ、トーマ」
「ああ。努力する」

 こうして二人は、コーヒーを飲み始めた。それはキースが夕食の準備で厨房へと向かうまでの間続き、長い間二人は雑談をして過ごした。

 これが――またトーマの心臓には悪かった。一度意識してしまうと、キースの声を聞くだけで、体が硬く緊張してしまう。なおキースの方は、こちらはこちらでトーマの事が気になって仕方が無かったのであるが、色々な表情を見たいという思い一色で、その感情の名前について考える余裕は無かった。というのも、終始トーマは冷たい無表情を変えなかったからである。すぐに赤面もとれたからだ。

 夕食は、ユーグも交えて三人で食べた。こうして、夜が訪れた。