【5】僕は大奥で出世の道を進む!




 出世する事で頭の中が一色になった僕は、この日初めて、お鈴廊下で、朝――上様のお姿を前に、頭を下げる事になった。何でも、僕が所属する事に本日から決まった呉服之間は、ここから開始する両家のΩも多いらしく、専用の打掛を持参している人もいるらしい。だが、僕にはそんなものはないので、呉服之間が用意してくれていた打掛を羽織った。打掛を羽織らないと、この異世界大奥では、朝、廊下に並んではならないそうである。

 オモテをあげよ――そう声をかけられない限りは、畳を凝視していないとならない決まりだという。これでは、折角並んでも、上様の顔は見えない……。徳川家森将軍の顔に、興味がゼロでは無い僕は、残念に思った。どうせなら僕は、キリン神に、「将軍にして下さい」とお願いすれば良かった……。

 造りとしては、廊下があって、畳が両端に敷いてあって、そこに打掛を着たΩ達が役職順に並んでいる。その中央を将軍・御台所・大奥総取締等が進んでくる。御台所というのは、将軍の正室であるというのは、僕の持つ歴史知識そのままだった。

 なお、僕の前をその一行が通る事は無い。
 僕は今度は、お目見え以上の中の下っ端にジョブチェンジしたため、御一行が通らない位置、目に付かない所に、席が用意されているのである。それもあって、僕はこの日、上様の顔を見ないまま終えた。

 さて――肝心の、新・仕事。

 僕は、お世辞にも家庭科の成績は良くなかったが、孤児院育ちなので、服を縫う事のみ、若干センスがある自信がある。アップリケとかを無駄に付けてあげるのが得意だった。それもあるのだろうし――……いいや、これがΩという事なのかもしれないが、みんな、不器用だった。この部屋一番のお針子さんと言われているΩですら、非常に不器用だった。糸通しを用いずに、針の穴に糸を通せた僕は、その日のうちに、大奥始まって以来の天才と呼ばれるようになった……え? 真面目に?

「顔だけかと思っていたけど、才能もすごいなんて……」

 その日の仕事が終わる頃には、呉服之間の同僚Ω達にそう言われた。
 ……。
 複雑な心境である。

 翌日から、僕は多忙になった。至る所から、依頼が舞い込んでくる。僕は上様の顔を相変わらず見る事が出来ないまま、日々仕事だけを抱え込んでいった。何だか、予定と違う。出世したいと思ってはいたが、僕は別に、職人になりたかったわけではないのだ……!

「そろそろ、御台様の打掛を直接的に承る日も近いかも知れぬなぁ」

 呉服之間の古参が、僕に言った。僕は乾いた笑いを返しながら、必死で裁縫に励む。
 なお、僕はまだ、御台所様の顔も見た事が無い。何せ上様のそばを歩いている他は、お部屋から出ていらっしゃらないのだ。京の都よりお輿入れになられた方であり、江戸の水が合わないらしい――そんな噂を耳にはしている。

 それから半年程して、僕は切手書という役職に出世した。
 この時も、僕の前を通りかかった瀧春様が不意に足を止め、僕の名前を聞き、翌朝から勤務するようにと命じたのである。

 切手書というのは、七ツ口という場所の門番のような存在だった。
 御切手と呼ばれる手形を持ってやってくる通行人に対し、それを確認して中に通したりするお仕事である。針仕事よりも神経を遣わないように僕は思ったが、今回の同僚達は、皆、大切なお役目であるとして緊張感をかなり持っていた。うっかり不審者の侵入を許したりしたら極刑だからだという。その割に――お墓参り後に歌舞伎見物してきた人々の遅刻を、賄賂をもらって見過ごしたりするのだから、僕にはよく分からない神経回路をしている。真面目な人と、一見真面目だが中身は違う人、この二種類で構成されている気がした。まぁ良い。僕は与えられた仕事を淡々とこなすだけだ……!

 なお、この切手書の職務に就いて、僕は初めて『発情期』というものの存在を意識した。僕が来たのではない。同僚達にも来ない。何でも――うっかり、ここに立っている時に発情期が来て、出入りする所にもし仮に偶発的にαがいたりしたら大変な事になるから、『発情期抑制薬』を飲む事――という決まりが、初日に伝えられたのだ。大奥に直接食材を卸すような高級問屋の跡取りは、αの場合もあるらしい。

 発情期抑制薬は、わたあめに似ていた。見た目も味もわたあめだった。ふわふわしていて、食べると甘い……。これを、月に一度食べれば良いらしい。しかしこれ、僕は勤務開始初日にも食べたし、毎日お膳にもついてきていた。デザートだと思っていたのだが――実は、深い意味があったようだ……。副作用等は無いらしいが、下っ端には黙って薬を盛っている所に、大奥の闇を感じてしまった……。

 このようにして、段々僕は、この世界にも、大奥にも、慣れてきた。
 少しずつ出世もしているし――と、考えつつ、ある秋の日、僕は銀杏の黄色を一瞥してから、小さく決意をした。今日は、上様の顔をチラ見してみようかな、と。

 そのため、いつもと同じ朝なのだが、いつもよりも気合いを入れて、僕は頭を下げていた。チラ見する角度の研究は既に終えていた。どうすれば周囲にバレないか、散々考え、タイミングも深く深く考察し、本日に至る。

「上様の御成――!!」

 声がした。鈴が響いている。
 僕は、その時を待った。そして――チラッ。
 見た。見た……!! 見る事に成功した。すぐに顔を下に戻して、何もなかったフリをする。心臓がドキドキと言う。だが、誰かに糾弾されたりはしないから、露見してはいないようだ。

 将軍、家森様であるが――……まぁ。一言、イケメンと称するしかなかろう。
 僕が初めて見るαでもある上様は、御年二十三歳だと言う。僕より五歳年上だ。
 確かに――αとΩは、違うかも知れないと思った。

 長身で大柄な上様は、精悍な顔つきをしていて、鋭い眼差しをしていた。一目それを見かけたに過ぎないというのに、圧倒的な敗北感とでもいうのか、絶対に勝てないという本能的な恐怖というのか、不思議な感覚を覚えたのである。Ωに囲まれて生活している僕から見ると、一種異様で、それこそ生まれた種族が違うと聞いた方が納得できそうな気がした。しかし、不思議だ。何でもできるんなら、大奥の仕事もαがやれば良いのに……。

 冬になる頃――再び、僕のそばで、瀧春様御一行が足を止めた。

「そちは確か、水季と申したな?」
「は、はい!」

 何と、瀧春様が、僕の名前を覚えてくれていた……!

「明日より御右筆とする」

 こ、こうして……僕はまた、出世した。それも一足飛び、に。
 だが――この時に限っては、初めて周囲は、喜んでくれただけでは無かった。

「僕の方が勤めて長いのにどうして!?」
「まだ大奥に来て一年も経たないくせに!」
「瀧春様にどうやって近寄ったの!?」

 僕はその日の勤務終了まで、さらに終了後も、悪意にさらされた……。
 その日まで僕にとって目の保養であった可愛いΩ達の中にも、瞳に嫉妬の炎をメラメラ燃やしている人々が案外多かった……。

 ……。

 僕は、そんな時、なるべく儚い風に微笑した。
 すると周囲は硬直し、何やら捨て台詞を吐いて、いなくなった。
 さすがは、チート。僕は、顔面チートを悪用した。いいや、適正な使用法かもしれない。

 こう、儚く可憐で無力な感じの表情で乗り切り、僕はなんとか殴られずに済んだ。
 彼らには、小動物を憐れむ気持ちがあったようだ。見た目は僕より彼らの方が小動物風だが。このようにして、僕は御右筆となったのである。