【6】痛みを伴う吸血(※)
一気に牙を突き刺され、肌の二カ所に走った痛みに声を上げそうになる。
ローラは少し引き抜き、さらにググっと牙を進める。
そして強く血を吸われると、ゾクリとした。
血液が抜き取られる恐怖が、本格的に込み上げてきたのだ。体が震えた。
「う……」
再度噛み直された時、俺はうめき声を漏らした。
するとさらに強く噛みつかれた。
思わずローラの体をおし返しそうになるが――慌てて自分の両手それぞれで、指の爪を掌に突き立ててこらえた。
それからゆっくりと、牙を引き抜かれる。
俺が顔を上げると、ローラが残忍な笑みを浮かべていた。
「お前は痛みに強いんだな。我慢強い。最初の一噛みで大声あげる奴が多いんだけどな」
「うあぁ……っ」
楽しそうに笑ってから、またザクっと牙を突き立てられた。
今度は、俺は声を殺しきれなかった。
最初の傷口から少し逸れた場所――そこを何度も抉るように噛まれる。
牙が刺さる度に、最初の傷口が広げられて、ものすごく痛い。
「あああ」
気づくと、声が漏れていた。俺の喉が震える。
あまりにもの痛みに、生理的な涙が浮かんできた。
血を吸われているのだし、早く貧血状態になって、体から力が抜けないだろうかと考える。そうすれば痛みが少しおさまるかもしれないと、思ったのだ。
だが、その後もローラは、軽く噛んだり深く噛んだりをしばらく繰り返した。
痛い。とにかく痛い。俺は今日から毎日、いつもこの痛みを堪えることになるのか。
でも、きっと――ローラに毎日会えて、その上、ローラが他の人と体を重ねたりしないのなら、今までよりも良い。最初はそう思っていた。
「うう……あ……ぅぁぁ」
だが――痛い。痛すぎる。痛い痛い。
体の中に冷たいどろどろが入り込んでいくような痛みだ。黒い痛みだ。
俺は喉をそらして、大きく息を吸う。
今度は恐怖ではなく、痛みから体が震え始めた。瞳が涙で滲んだ。
痛い、どうしようもなく痛い。
俺は、これほど長い間、痛みに晒されたことがなかった。
ついに俺は、ローラの胸元の服を掴んだ。
しかし、押し返そうとしたが、ぴくりともしない。
俺の力が抜けている訳じゃない。ローラの方が力が強いだけだ。
ぐぐぐっと牙が深くなる。
俺はついに堪えきれずに悲鳴を上げた。短く小さい、俺の悲鳴。
すると、それに気をよくしたように、ローラが何度も牙を動かした。
――駄目だ、これは駄目だ。俺はやっと気がついた。
こんな痛みが続いたら、俺は死んでしまう。
逃れようと夢中で片手を持ち上げたら、きつく手首を掴まれた。
「やめてくれ」
思わず俺は口走っていた。しかし、許されなかった。
「うあああっ」
俺はついに大きな声を上げて涙をこぼした。目を伏せ、喉を震わせる。
気づくと叫んでいた。痛みで呼吸が出来なくなってくる。
俺が無意識に暴れると椅子が倒れた。
するとローラは、椅子の脇に落ちた俺を押し倒すようにして上にのった。
両手首をきつく掴まれ床にたたきつけられる。
上半身の重みで動けなくなり、足の動きも封じられた。
その間もローラの口は離れない。
俺が身動きできなくなった瞬間、さらに深々と俺を噛んだ。
夢中で首を振り、俺は泣いた。もう痛みしか考えられなくなっていく。
「いやだ、やめ、あ、いやだ」
俺は泣き叫んだ。そのまま――ずっと俺は噛まれていた。
どうしてこんなに長いのだ。まだ血は吸い終わらないのだろうか。
もう痛いのはいやだ。だけど我慢する以外、俺は他にどうする方策も思いつかない。痛すぎて意識を失うことも出来ない。俺はそれから暫くの間、ただ痛みが強くなる度に叫び続けた。
痛みが消えたのは、どれくらいしてからだったのかは分からない。
かくんと体から力が抜け、突然痛みが消失した。
そして急速に血が吸い取られていった気がした。
それまで抵抗させていた体を、俺は床にぐったりと預ける。
涙が乾いていく。意識がぼんやりとした。
俺は頬に床の感触を感じながら、横をぼけっと向いていた。
しばらくそうしていると、ローラが口を離して俺から体をどかせた。
「まぁまぁの食事だったな。約束通り、明日も来いよ。これは、『命令じゃない』――お前にはもうこういった暗示は効かないらしいしな。来るも来ないも、藍円寺、お前の意思だ。誰かに相談するのも自由だ。じゃあな」
その日、俺はどうやって帰宅したのか、よく覚えていない。
まだ夜があける前、俺は目を覚ました。
精神的に疲れきっていた俺は、帰宅してすぐに眠ってしまったのだ。
窓からは月がさし込んでいたが、時計を見ると、もう朝の四時だった。ズキズキと、首と肩の間が痛む。呼吸をすると、全身にその痛みが響いた。
意識がはっきりとしていくと、俺は激痛に襲われた。
血は止まっているようだが、触れた指先に傷口が触れた。
もしもこの上から、同じ所を噛まれたら、俺は痛みでショック死する気がした。
一階まで降りて、洗面所で鏡を見ると、首元に傷口があった。いくつもの傷跡がある。かさぶたのようになっている。しかし乾いていない傷もある。
それから、薬箱の中の痛み止めと、水を手に、俺はリビングへと向かった。
電気をつける気分にはならない。
それから寝直そうとしたのだが――痛みでよく眠れなかった。
朝には、痛みがより酷くなっていた。
全身が気怠く、重く、体を起こすのだけでも一苦労だ。
その日のバイトは全て断り、俺はぼんやりと時計を見る。
仕事をするのが無理だと確信するくらい、噛まれた場所が痛い。
けれど、まだ二日目なのに、行かなかったら、昨日頑張って取り付けた約束は、無しになってしまうかもしれない。だって、ローラは俺でなくても良いのだ。でも、俺はローラでなければだめだ。
結局、昨日と同じ時刻、夕方になってから、俺は絢樫cafeへと出かけた。
扉を開けると、店内には客の姿がなく、砂鳥くんの姿もない。
一人で、ローラが椅子に座っていた。
そして、興味がなさそうに顔を上げると、俺を見た。
「来たのか。へぇ。俺には自己犠牲といった精神はさっぱり理解できないが」
その言葉に、俺は表情を引き締めた。
俺は、そんな綺麗な感情からここへ来ているわけではない。
騙すようで罪悪感があると思った時、立ち上がったローラが歩み寄ってきた。
そしてまっすぐと俺の前に立つと、ガッと俺の服を開いて、噛みついてきた。
牙が傷口を突き破った瞬間――俺は目を見開いた。
その後、多分悲鳴を上げる前に、気絶した。痛かったのだろうが、俺にとってはそんな次元ではなく、ぶつんと意識が途切れた感覚だった。