【12】光熱水費
「おはよう、藍円寺。今日も寝穢いな」
キスをした後、ローラが俺を抱きすくめて、ゆっくりと髪を撫でた。
緩慢に視線を向けると、再びむせ返るような薔薇の香りに包まれて、思考が曖昧になる。
「ずっと、俺と一緒にいてくれ。いいよな?」
「……あ」
ああ、と言おうとして、俺は言葉を止めた。
ローラとずっと一緒にいられるなんて、それは嬉しすぎる事態だが、俺の中に昼威や朝儀といった家族の顔、甥っ子の斗望の笑顔がよぎる。
「藍円寺? ダメか?」
「ああ」
「良いんだな?」
「いいや、ダメだ」
「ッ、藍円寺?」
その時、心なしかローラが驚いた気配がした。薔薇の香りも強くなった気がする。
しかし俺はこの瞬間、どうしようもなく重要な事を思い出していた。
それが重大すぎて、薔薇の香りなんか意識から吹っ飛んだ。
「ローラ、今日は何月何日だ!?」
「……藍円寺、それはもう、気にしなくて良い事だ。『そうだろ?』」
「そんなわけがあるか! 昼威には、光熱水費を支払う能力がないんだ! それに朝儀もそろそろ俺に金を借りに来る頃だ。貸さなかったら、斗望と一緒に、食費に困るかも知れない!」
「っ、へ、へぇ」
我に帰った俺は、ローラの服をギュッと握った。
「早く帰って振り込まないと、全部止まる!」
焦りのあまり、必死に俺が告げると、ローラがスッと目を細めた。
その表情からは、優しい色が消えていて、僅かに不機嫌そうだった。
「安心しろ。お前がやるから、周囲はお前に押し付けていただけで、少なくとも藍円寺昼威に困った様子は無かったぞ? 光熱水費に関して」
俺は驚いて目を瞠った。
「昼威に会ったのか?」
「ああ――お前を探していたから、ここで幸せにしていると教えてやったよ」
「つまりまだ、光熱水は生きているんだな!?」
「……、あ、ああ、そのようだな」
「大至急帰る。そして振り込んでくる。かつ、引き落とし手続きに変更してくる!」
俺はそう言って立ち上がろうとし――そのまま倒れそうになった。
意識がぐらついている。
何だ? 俺は光熱水の料金を払わなければならないというのに……!
「っ、あ、ハ」
「貧血だ。急に動ける状態じゃないぞ」
「貧血? 毎日ご飯を食べているのにか?」
「――一食だけ、な。が、貧血の理由はそれじゃない」
「?」
「お前は、俺の正体まで――……俺の事まで忘れているのか?」
その言葉にローラを見て、俺は息を呑んだ。
「俺から沢山血を吸ったという事か?」
「おう」
「……?」
考えてみるが、上手く思い出せない。
しかし俺がローラを忘れるなんて事はありえない。ローラは、俺の好きな相手だ。
「藍円寺昼威、お前の次兄は一発で俺の正体に気づいたぞ」
「……そうか。まさか、昼威からも血を?」
思わず俺が尋ねると、不愉快そうに眉を顰めて、ローラが舌打ちした。
「あー、そうすりゃ良かったかもな。お前達は、顔がよく似ているし、あっちはお前と違って強い強ーい、霊能力者だしなぁ」
それを耳にした時――俺は、つい先日まで感じていた恐怖を思い出した。
俺は、あれほど悩んでいたはずだ。自分の恋心がバレて、嘲笑われたら立ち直れない、と。そして俺が、例えば別の人間だったなら、ローラは好きになってくれるのだろうかと……確かに考えていたと思う。
「お前と違って頭も良さそうだったし、色々できそうだったし、あー、そうすれば良かったなぁ。お前じゃなくて、あっちにすれば良かった」
ローラが不機嫌そうに続けた。俺は、思いの外動揺している自分に気づいた。
「俺は、お前なんか嫌いだ」
貧血で倒れかけた俺を支えながら、俺の耳元でローラが言った。
「言ってみれば良かったかもな? 昼威先生、愛してます、って」
全身の血の気がひいて、それから胸がじくじくと痛んだ。嫌いという言葉に、心がぎゅっと締め付けられる。息苦しい。俺は涙を堪えることに必死になった。
「――本当、顔だけは似てるな」
ローラはそう言いながら、俺を立ち上がらせると、いつもより優しく抱きしめた。
その温度が辛い。
「言ってみるか」
「……止め、」
「愛してるぞ」
「止め――」
「昼威先生。愛してる」
ローラのその言葉を聞いた瞬間、俺の心にピシリとヒビが入った。
パリンと俺の心が音を立てて砕け散った。
嗚咽を上げそうになったが、慌てて飲み込む。辛い。俺の両目から、涙が零れた。
「え?」
俺の反応に、ローラが驚いた気配がした。声を上げた後、ローラは息を飲み、それから慌てたように首を振る。
「悪い悪い、言い過ぎた」
「……」
「というか、本心じゃない。ちょっと言ってみたかっただけっていうか」
「……」
「八つ当たりというか。お前に意地悪したい気分だったというか」
「……」
「いや、俺はお前の次兄になんてほぼ会った事も無いし、え、おい、なんで泣いて……」
別に俺は、慰めなど、求めてはいなかった。
やっぱり、男だからとか、そういう問題ではなく、外見が理由でもなく、『俺だから』ダメなのだという突きつけられた事実と、嫌われているという真実に胸が締め付けられていた。
胸が痛くて、呼吸が苦しくて――俺はもうローラの顔を見ていられないと感じ、彼の腕を振り払った。ローラが驚いた顔をした。
俺は涙が止まらないのだが、それをローラに見られたくなくて、走った。
そのまま扉を開けて外へと出る。
ローラが慌てたように俺の名前を呼んだけど、俺は振り返らなかった。
逃げたってどうなるわけでもないのだが、俺はそのまま走り、人気のない絢樫cafeのフロアまで降りてから、ボロボロと泣いた。
――今の俺の反応を見たら、俺がローラの事を好きだと、彼も気づいただろう。
――特別な思いを持っていると悟ったはずだ。
ギュッと心臓を握られたような気分で、胸が痛い。