【13】幸せな夢は醒めない。
「光熱水費……払わないとな」
静かに呟き、俺は玄関の前に立った。そして扉を開けようとした。
「行かせるか」
すると後ろから腕を回され、抱き寄せられた。
視線だけで振り返ると、そこにはローラが立っていた。
「おい……あの強度の薔薇香を破って、そこまで泣くほど、人間にとって――いいや、藍円寺、お前にとって、光熱水費は大切な存在なのか?」
驚いて硬直していた俺は、思わず真っ赤になった。
貧乏なことが、バレてしまった。
「なんで赤くなったんだ?」
「……忘れてくれ」
俺がそう言うと、ローラが俺の体を反転させた。そして、じっと俺を見た。
「あー、っと、その……あー、だから、その」
「?」
「傷つけるつもりはなかったし、あれで傷つくとは思ってなかった。泣いてたって事は、その……だから……」
ローラの声に、俺は自分の気持ちが知られたのだと思い出し、慌てて俯いた。
再び胸が痛み出す。
「……離してくれ。振り込みに行かないとならないんだ」
「だから、行かせないと言ってるだろうが」
そう言われても、俺はこの場にいたら、心が痛すぎてもう立ち直れないかもしれない。
「あのだな。俺がもう、この際体だけで良いと決意して、お前を囲ってるのに、どういう事だよ。あ?」
ローラはそう言って、笑みを引きつらせた。その言葉に、俺は首を傾げて、顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「――お前を快楽堕ちさせて、俺無しじゃいられないようにしてやろうと思ってな。嫌でも俺と一緒にいるしかないようにしたいと、な」
「?」
よく意味が分からない。そもそもローラと一緒にいたいと考えていたのは、俺だ。
「お前が悪い。藍円寺が悪い。あんなに俺の事が好きそうで、脈がある風だったのに、俺が吸血鬼と知った途端、心を読めないようにして、俺から距離をとっただろう? ま、お前は怖いのが苦手だろうし、俺の事は怖いんだろうけどな」
その言葉に、俺は目を見開いた。
「――最初から、暗示付きのマッサージで肉欲に溺れていただけかもしれないけどな」
「ローラ……」
「暗示が効いていて、あの状態を維持できるなら、それでも良かった。少しずつ、解くつもりだった。なのにまさか、なぁ。この俺が……はぁ。失恋はそれなりに慣れてる。吸血鬼バレは特に多い理由だ――なのに、なんで……お前が悪い」
ローラはそう言うと、俺を強く抱きしめた。
「俺はお前が欲しい。藍円寺が拒絶するなら、体だけで良いと思うくらいに」
「そんなに俺には、食料としての価値があるのか?」
「無い」
「じゃあどうして?」
「お前を食料だなんて、ここの所一回も感じていない。言わせるなよ、好きなんだ」
「!」
「俺は、藍円寺の事が好きなんだよ」
俺は衝撃のあまり、硬直した。
「え?」
「なんだよ? 俺が、藍円寺を好きになったら悪いのか?」
「い、いや、待ってくれ、ま、ま、まさかの、両思い!?」
俺が思わず口走ると、ローラの腕に変な力が入った。
「――へ?」
「いや、え? だ、だって、そ、そんな? ローラ、本当に? 本当か?」
「待て待て待て、藍円寺。お前は、俺が吸血鬼と知って、嫌いになったんじゃ?」
「ん!? 俺は、最初から今に至るまで、ずっとお前が好きだ――あ、いや、あ、あの」
言ってしまった。勢いだった……。
……その場に、奇妙な沈黙が流れた。
少ししてから、ローラはゆっくりと俺から腕を離し、俺の肩に両手を置いた。
「それ、本心か?」
そして呆然としたように、ローラが呟いた。
「ああ……ローラこそ、本当か? というか、これも、夢か?」
「夢じゃない。暗示じゃない。え……藍円寺、正真正銘にそれが本音なら、手首の数珠を外してくれ。絶対に暗示はかけないと誓う」
「これを外す……?」
俺は数珠に手をかけながら、首を捻った。
「それだけは、身につけた本人でなければ外せない代物で、心を読む専門の妖怪でもなければ、お前の心は視えないようになっていたんだ。だから、まぁ砂鳥は別として――俺には、お前が俺を嫌いだとしか、感じられなかった」
砂鳥くんの名前に首を傾げつつ、彼も妖怪だったのかと漠然と思う。
「俺は、ローラが好きだ」
もうバレているのだから、言ってしまおうと俺は決めた。今後笑われても、構わない。一度口に出したら、堰を切ったように想いが溢れてきた。
「外した」
「お前の感情を血液経由で確認させてくれ。吸えば、分かる。嘘なら許さない。俺を弄んだという事だからな」
そう言うと、ローラが俺に噛み付いた。
息を飲む間に、さらに深く噛みつかれる。痛みはない。
その内に、俺の頭の中には、ローラと過ごしている何気ない光景が広がり始めた。
他にも見かけた時の嬉しさや、笑顔を見た時の喜び、優しくされた時の幸福感。
ぽかぽかした癒されるような気分、そして甘いのに苦しく辛い胸の疼き。
これはなんだろうかと考えながら、俺は最初、その感覚に身を任せていた。
それからハッと気づいて、俺はローラを突き飛ばそうとした。
これは、俺のローラに対する恋の記憶だ。こんなもの見られたくはない。
ローラは短く息を飲んだが、俺を離してはくれなかった。
焦って俺はローラの体を押した。羞恥と困惑で体が震える。
思わずギュッと目を閉じて、俺はローラの服を握った。
すると少ししてから牙を抜き、ローラが俺の両頬に手を添えた。
それから額に触れるだけのキスをされたので、恐る恐る目を開くと、そこには――真っ赤な顔をしているローラがいた。
「え、本当なのか?」
「……」
「好きって……噛まれたいとかヤりたいって事じゃなくて、ほ、本当に俺のことを?」
「……」
「わ……やばい……嬉しい。そっか……そうか……」
つらつらと呟きながら、ローラは更に真っ赤になった。
そして、おろおろと俺を見ている。
視線を逸らしてはまた俺を見るのだ。「そうか、そうか」と呟いて、時折じーっと俺を見る。かと思えば、顔を背ける。その繰り返しだった。激しく照れているように見える。
「や、そ、そのっ……ちょ、ちょっと待ってくれ。うわぁ」
「……ローラ?」
俺の前で、ローラが挙動不審になった。
「あ、あのさ、俺、藍円寺に酷いことしたけど嫌いにならないでくれ。俺のことこんな風に好きだって分かってたら、絶対しなかったし……! って、いや、だから、あ、あの! 俺は最低だな、でもとりあえず藍円寺に嫌われたくないわけで……うわぁ、やばっ、え、本当に? だめだめだめ、嫌いになったら駄目だ。絶対駄目だ」
そして俺を改めて抱きしめた。
「ローラ……?」
おずおずと俺も、ローラの背中に腕を回してみる。
「俺、噛んでほしいとか、抱いて欲しいとか、そういう風に、体を求められて肉体に惚れ込まれてばっかりだから、ちょ、ちょーっと初体験に等しいぞ。ま、まぁ俺も血とか抱きたいとかそう言う基準で人間を好きになるから人のことはいえねぇんだけど」
すると腕に力がこもり、ギュッと抱き寄せられた。
「も、勿論それはそれでいいんだけど……俺の方は当然感情的にも恋心があるのが常で、でもそれを返されたことはないというか……りょ、両思い……信じられない……」
俺は、何を言えばいいのか分からなくなった。
「うわぁ……何これすごい嬉しい。しかもこれまでの中で一番好きで、過去の恋愛は食欲だったのか悩むほどの、藍円寺と、りょ、両思い……!」
ローラの腕が、少しだけ震えている気がした。
「俺としては噛んでって求められるようになったら十分だと思ってたんだが……天は俺を見捨てなかったんだな!」
吸血鬼なのに、天国(?)を信じるのだろうかと、俺は少しだけ吹き出した。
それから――俺はローラをまじまじと見た。
段々落ち着いてきたようで、少し赤いのがおさまってきているようだった。
それでもなお、ローラはどこか嬉しそうに見える。
俺もそれを見ているうちに、ちょっと落ち着いてきた。
その時、ローラが、俺の肩の上に両手を置いた。
驚くほど優しい強さで、壊れ物を扱うようだった。
そうされたまま、ローラを見上げていると、顔が近づいてきた。
驚いて最初は目を丸くしたが、どんどん近づいてくるから瞼を閉じる。
すると唇が重ねられ――俺達は触れるだけのキスをした。
すぐに離れたから名残惜しいと思ってじっと見てしまうと、今度は深く深く貪られた。
幸せだ。幸せすぎる。
ギュッと抱きしめられ、俺は胸の動悸が速くなったことに気づいたが、恥ずかしい以上に幸せだったから、それが辛くはない。
最初は緊張して少し震えたが、ローラの温度で次第に体が解れていく。それから何度も俺とローラはキスをした。深く長く口づけた時も、鳥が啄むようなキスであっても、官能的と言うよりは心を通わせるような優しい感覚だった。
それからしばらくして、ローラが小さな声で言った。
「なぁ、藍円寺」
「なんだ?」
「――俺の、恋人になってくれるんだろうな?」
その言葉に、俺は目を見開いた。
「だ、だめか?」
「い、いや、あ、あの、ローラは、俺で良いのか……?」
「お前が良い。藍円寺じゃなきゃダメだ。俺は、お前がいないとダメ、無理」
「ローラ……」
「愛してる。本当は、お前にだけ、ずっと言いたかった。他の誰でもなく。これから、全力で大切にする。だから、素直に俺のものになれ」
その言葉に、俺は派手に照れた。
「――ローラも、俺のものになるんだろうな? 俺も大切にしてやる」
不器用な俺の口は、内心の『はい! よろしくお願いいたします!』を、おかしな風に換言した……。すると、ローラが小さく吹き出した。
「初めて言われた。期待してるぞ」
こうして――俺達は、恋人同士になったのである。
俺はとにかく幸せな気分でいっぱいだった。
もういっそ夢でも良いかと思ったが――現在の所、この幸せな夢は醒めていない。
なお……寺に戻ったら、光熱水費は生きていたが、それは蘇生であり……停止形跡があった……。この話は、また別のお話である。