【14】忘れられたくないのだろう。




 まとめるといっても、荷物なんてほとんどないし、僕はまとめる必要性を感じなかったので、カフェスペースに座って、ローラの帰りを待っていた。

 しばらくして戻ってきたローラは、僕の正面の椅子をひいた。

「ローラ、藍円寺さんだけどさ」
「聞きたくない。何も聞きたくない」

 僕が藍円寺さんの煩悩を伝えようと思ったら、ローラが大きく首を振った。

「もういい。どうせ明日には、この都市の心霊協会の奴らが、総出で除霊に来るだろうさ。もういいんだ」
「ローラ……そ、そう? そんな事はないんじゃないかな?」
「いくら馬鹿な藍円寺でも、『相談するのは自由だ』と俺が言ったんだから、その術を思いつくだろう。一人じゃ無理だってのは最初からわかっていたみたいだし、今日ので本格的に悟っただろ。あいつはもう、ここには来ないだろうな」

 ローラはそう言うと、足を組んで僕を見た。

「人間と本格的に揉めるなんぞというのは面倒だ。特に、こういう土地ではな。さっさと逃げるぞ。逃げることは、決して恥ずべきことじゃねぇよ」
「それはそうだけど――ローラはさ、失恋の辛さから逃げてない?」
「は?」

 思わず僕が言うと、ローラの力が溢れかえった。僕は傷に塩を塗ってしまったらしい。
 だけど、出て行く時の心も見ていたけど、今もまだ二人は、相思相愛だ。

「この俺が、人間なんかに本当に惚れるわけがないだろ」

 好きすぎて辛いとかこの前言っていたじゃないかと思いつつも、僕は刺激せず、その日は眠る事にした。

 朝起きて、僕はいつもと同じように食卓へと向かった。
 するとローラと火朽さんが話をしていた。

「――というわけだから、今日にはこの店を消す。引越しの準備を完了しておけ」

 ローラがそう言った時、火朽さんが僕に気づいて微笑した。

「おはようございます、砂鳥くん」
「おはようございます」

 引越しをする――としたら、火朽さんは、大学はどうするんだろう?
 僕は挨拶しながら椅子をひきつつ、そう考えた。
 すると火朽さんが嘆息した。

「弱りましたね」
「おう。人間も束になってやってくると厄介だからな」
「そうですか? 僕はそうは思いませんけど」
「じゃあお前は何に弱ったんだ?」
「勿論、今後の住居の事です。この場所は、大学まで通いやすくて気に入っていたんです」
「は? 引っ越すんだから、大学なんてもう行かなくていいだろ。行きたいんなら別の土地の大学に潜り込め」

 ローラが怪訝そうに声を上げると、照れくさそうに嬉しそうに何とも言えない感じで火朽さんが微笑した。

「僕はもうどこにもいかないで欲しいと紬くんに頼まれていますので、他所に行くつもりはありませんが」

 それを見て、ローラがワナワナと震えた。

「なんでお前だけ幸せそうなんだよ!」
「? 砂鳥くんも、何か不幸せな出来事が?」
「ううん。僕もこのお店、結構満足してるけど? ローラだけじゃないかな? 辛くて、引っ越したいのは」

 僕がそう言うと、ローラがダンと机を叩いた。

「お前らには、危機感が足りない!」

 僕と火朽さんは顔を見合わせた。

 その後ローラが不機嫌そうに、いかに人間が面倒な存在であるか語りだしたので、僕達は適当に頷きながら食事をした。そしてローラが荷物整理にいってから、僕と火朽さんは改めて顔を見合わせる。本日は、大学が午後かららしい。

「――確か、藍円寺享夜という住職でしたか」
「うん」
「ローラは、吸血鬼だと露見した時点で、その人物の記憶を消さなかったんですか?」
「今ね、藍円寺さんは、強力な法具類をつけているから、暗示が効かないみたいなんです」

 僕が伝えると、火朽さんが首を捻った。

「暗示が効かない? 通常の暗示が効かないとしても、ローラであれば、直接自分の血を摂取させてそれを経由させたり、例えば薔薇香といった妖怪薬を用いれば、記憶操作程度可能だと思いますが。なんなら、僕が操作してきましょうか? ここからそのたった一人の人間のために引っ越すなど面倒です」

 冷静な声に、僕は苦笑した。

「単純に、自分の事をローラは忘れて欲しくないんじゃないかなぁ」
「ローラの都合ですか……本当に自分勝手ですね」

 火朽さんはそう言ったが、火朽さんだってたった一人の人間に、ここに居ろと言われて、引っ越さないと言い張っているのだから、同レベルだと僕は思った。

「ローラの片思いなんですか?」
「ううん」
「――ならば、除霊されるといった心配は、一体どこから?」
「ローラが勝手に思ってるだけだよ。相思相愛だよ、あの二人」
「では、引越しの必要はないでしょう」
「うん。僕もそう思います」
「引越準備が終わっている風を装って、とりあえず今夜、見守りましょう」

 火朽さんの声に頷いて、僕もそうする事にした。
 本日は、店を開けない。

 昨日、ローラは、藍円寺さんが来ないと断言していたが、果たして来るだろうか?
 そう考えながら、僕は何度か窓の外を見た。
 そして――夜になった。

「砂鳥、奥に行って逃げる準備をしておけ」
「うん」

 藍円寺さんが近づいてくる気配がした時、ローラが言った。
 頷いて僕は、厨房側ではなく、店から直通の二階へと続く階段へと向かう。
 そこに丁度、火朽さんも降りてきた。

 二人で影からローラを見た時、店の扉が開いた。
 入ってきたのは、藍円寺さんである。


 ローラは藍円寺さんを見ると、そっけない顔をした。興味などゼロという顔だ。
 しかし――やっぱり指先が震えているから、泣きそうなのだろう。
 同時に、驚きが伝わって来る。

 本当に来たのかだとか、そんなに地域の人々を守りたいのかだとか、ローラはぐるぐると考えている。そして、守りたいならせめて玲瓏院に言いに行くべきだったと脳裏で考え、一緒に火朽さんの悪口も玲瓏院家で散々言って、玲瓏院紬が火朽さんを嫌いになるように仕向けてくれば良かったのに、と、考え始めた。

 僕が思わずチラッと火朽さんを見ると、気づいているのかいないのか、火朽さんは半眼でローラを見ていた。

「来たのか。へぇ。俺には自己犠牲といった精神はさっぱり理解できないが」

 ローラがそう言うと、藍円寺さんが、錫杖を握り締めた。
 今日もホラー映画の主役風だ。格好良い。
 表情を引き締めて、ローラを睨めつける様は、正義感にあふれているようにしか見えない。

 ――だが、心の中には煩悩と……あと、強い痛みしかない。

 表面上は、どちらも全く見えない。それはそれですごい。
 そう考えていると、ローラが藍円寺さんに歩み寄り、唐突に噛んだ。

「あ」

 僕は思わず声を出した。その瞬間、痛すぎたらしく、藍円寺さんが気絶してしまったのだ。
「え……?」

 ポカンとしたように、ローラが藍円寺さんを受け止めた。
 床に激突する事は無かったが――改めてよく見ると、藍円寺さんの顔が真っ青だった。
 元々肌は白いが、今は血の気が失せていて、死人みたいだ……。

 目を伏せ、ぴくりとも動かない。

「お、おい? 藍円寺、おい? え?」

 ローラがものすごく焦っている。心配そうにゆっくりと床に座り、藍円寺さんを抱き起こしながら、何度も名前を呼んでいる。しかし藍円寺さんは身動きをしない。完全に意識がない。

「藍円寺!」

 焦っているローラに、見かねて僕は声をかけた。

「ローラ、藍円寺さんは、痛すぎて気絶したみたいだよ」
「な……そ、そんなに痛いのに、ここに来たのか? てっきり、昨日程度の痛みでは、耐性がある分足りなかったんだろうと……」

 ローラがブツブツと言った時、呆れたように火朽さんが溜息をついた。

「人間の噛み方について忘れるほど、気が動転していたという事ですか?」

 その言葉が終わった直後、周囲に薔薇の香りが溢れた。

 これは、ローラが好んで使う、妖のみが使用可能な薬の一つだ。
 花の名前がついたお香である。

 薔薇香というこの品は、三つの効果を持っている。

 一つは、痛覚を和らげる。これが本来の効果だ。
 薔薇の荊棘がつきささった時のような痛みを、排除してくれるという妖怪薬だ。

 だから吸血鬼は、大抵持っているという。

 二つ目の効果は、その痛みを和らげる時に、思考を鈍くさせる事で和らげているから、そのものの思考を曖昧にできるというものだ。同時にこれは、恐怖の軽減にも使える。

 最後の三つ目は、そうした状態のものは、暗示にかかりやすくなるので、暗示の補助効果が期待できる。

 用途によって、香りの強さを変える事で、適切な量を調整可能だ。
 ただ――本来は、妖怪同士の薬なので、人間には使わない。

『そのもの』というのは、存在あるいは妖怪の事で、人間ではない。
 しかし、人間にも使用できるし、妖怪の薬は、人間の医学よりも進歩しているものも多い。

 必死で香りを調整し、藍円寺さんを抱きしめながら、心配そうにローラが何度も名前を呼んだ。するとそれが功を奏して、藍円寺さんは一度意識を取り戻したのだが、すぐに眠ってしまった。

「まったく、世話が焼ける」

 ローラは死ぬほどホッとしたような顔をしながら、そんな藍円寺さんを両腕で抱き上げた。大切そうにお姫様抱っこをしている。

 階段の方へとやってきたので、僕と火朽さんは入れ違いに下へと降りた。
 そして隣を通る時に、火朽さんが言った。

「その状態ならば、少し休ませるべきですし、今夜の引越しは取りやめですね」
「――おう。ね、念のため今夜ひと晩は、様子を見る。死んだら後味が悪いからな」

 ローラはそう言うと、基本的に人間を招かない住居スペースへと歩いて行った。

 僕と火朽さは、ローラと抱き上げられている藍円寺さんを見送った後、リビングに行く事にした。