【15】刻印
それから雑談をし――夜中になった時だった。
「「あ」」
僕と火朽さんは、思わず揃って声を上げた。
ローラが『刻印』したのが分かったからだ。
吸血鬼には、人間を自分だけの餌にする力がある。それが『刻印』だ。一度刻印してしまえば、その人間は、刻印した吸血鬼以外から吸血される事は無い。だが、同時に刻印した場合、吸血鬼はその人間からしか、血や精液が吸えなくなる。
長い目で見れば、人間はすぐに寿命が来るから問題がないのかもしれないが、刻印は一人にしかできないから、藍円寺さんが死ぬまで、ローラは藍円寺さんからしか、血が飲めなくなった。それは何かと不便だから、いかに惚れようとも、これまでにローラが刻印した姿など見たことが無い。
どうして刻印したと分かるのかといえば――ローラの力が、藍円寺さんの体に混じったからだ。人間の霊能力の中に、妖であるローラの力が混じったら、少なくとも妖怪は絶対に、そうでなくとも強い力を持つ人間は変化に気づくだろう。
藍円寺さんの霊能力が、中の下だとすると、一気に上の中くらいの力の空気に変わったのである。ローラは非常に力の強い吸血鬼だ。
――もし、このままさらにローラが力を混ぜ続ければ、藍円寺さんは死んでしまう。あるいは、力を受け入れる事ができれば、吸血鬼になる。だが、吸血鬼になった場合でも、ローラが存在する限り、永久的に『供給者』だ。そして、基本的に人間は、力を受け入れたりできないので、死ぬ。
まぁけれど、永遠に一緒にいたい場合に、吸血鬼が人間を相手に取る行動の一つでもある。だが同じくらいこれは、その人間を殺害するという意思表示でもある。どの道すぐに喰い殺すから刻印しても構わないという意味合いだ。
ただ、もっと単純な話として、これからは、誰がどう見ても、藍円寺さんがローラに吸われているのが分かるという事だ。この状態を、妖が見た場合、『俺のもの』という宣言に見えるし、『手を出したら殺す』とも見える。つまりは、酷い独占欲だ。
血に限定した話ではないから、今後藍円寺さんは他の誰とも、例えば性行為といったことは出来ない。だが、刻印をされると、それだけではなく――定期的にローラに、触れられないと体が熱くなるはずだ。
ローラにしか、渡すことが出来ないのというのは、出せないというのも含まれる。
これはもう肉体への暗示などというレベルではない。
「まぁ……適切といえば適切なのでしょうが……」
ポツリと火朽さんが呟いた。
「刻印をして、薔薇香で暗示を重ねれば、藍円寺享夜がどこかに除霊対応を依頼する事はなくなります――ですが……」
「藍円寺さんがしなくても、みんな藍円寺さんに何かがあったのは、分かっちゃいますよね?」
「ええ」
火朽さんはコーヒーを飲みながら、静かに天井を見上げた。
「ローラが自分の血を人間に直接あれほど混入した気配を、僕は一度も感じた事がありません」
「そうされた人間は、ローラ無しじゃいられなくなるんでしたっけ?」
「そのようですね。人間にとっては、ある種の媚薬に等しいと思いますよ」
そんなやり取りをしながら、僕らは朝を待った。
二人がいるのは、僕らの部屋があるのと同じ二階だから、自室に帰りにくかったのである。
それから藍円寺さんは――毎晩八時頃、絢樫Cafeに来るようになった。
最近、お店は開けていない。
毎日、ローラが藍円寺さんを待っているだけだ。
僕はといえば、奥の厨房で、最近――妖怪薬の勉強にはまっている。
基本的に作り方や使用方法は、人間の好む紅茶、フレイバーティによく似ている。
ローラが使用していたような、香りのみのものが本来なのだが、口を持つ妖怪や、本来は使わない人間などは、口から楽しむ事も可能だ。似ている事もあって、最近僕は、お茶の淹れ方の勉強もしている。
これは、火朽さんに趣味を探してはどうかと言われた事も理由の一つだ。
妖怪薬の効果があるお茶――それは例えば、憂鬱な気分の時に、飲むと元気が出るような品というのは、マッサージと称して除霊をして肩こりを取るのと同じくらい、人間にとっては効果的なんじゃないかなと考えている。
この日もお茶の勉強をして過ごしていたら――夜の八時になっても、藍円寺さんが来なかった。火朽さんから夕食の知らせがあったので、チラリとローラを見る。
「藍円寺さん、何かあったのかな?」
「知らねぇよ。興味がない」
「――慣れてる道とはいえ、考えてみると遅い時間だし、前と違って今は、藍円寺さん力も強くなってるから、何かと危ないんじゃない?」
「俺の血のおかげで、多少は有能な霊能力者になれたわけだ……だ、だから、他の微弱なやつらが手出しをするわけがない」
「ローラより強い存在なら、手出しできるんでしょう?」
「それは、まぁ……」
ローラが心配そうな顔をしている。だが、誰かに食べられる不安ではなさそうだった。
「ローラ?」
「……弱い存在であっても、確かに俺の刻印を打ち消すような術は使える」
そう言ってから、ローラがどこか苦しそうな顔をした。
「もしそうなれば、もう二度と、藍円寺はここには来ないだろうな」
寂しそうなその声を聞いてから、僕は食事に向かった。
その日の夜――日付が変わる直前に、藍円寺さんがやってきた。
すると、建物中に薔薇の香りが溢れかえった。
何事だろうかと透視してみると、扉の前でローラに抱きとめられている藍円寺さんが見えた。まさか怪我でもしたのだろうかと考えたが――すぐに違うと理解した。
藍円寺さんは、焦点が合わない瞳で、震えている。
ローラがその肌を撫でて、快楽を流し込んでいる。
そのままローラは藍円寺さんをベッドのある部屋へと促して、その日は抱き潰した。
僕はリビングで紅茶を飲んでいたのだが、何とも言えない気持ちだった。
火朽さんも、薔薇の香りに気付いたようで、二階から降りてきた。
「ローラは一体何をしているんですか?」
「んー……藍円寺さんを襲ってるんですけど……」
「この強度の香りの中で? そんな事をしたら、人間は快楽以外、考えられなくなってしまうと思いますが?」
「僕に言われても……」
「砂鳥くんは、最近、薔薇香などの勉強をしているんじゃなかったでしたっけ?」
「あ、はい!」
そこからは――普通の雑談をし、朝になると火朽さんは大学に行った。
なお、ローラは朝になっても出てこなかった。
「藍円寺、俺に抱かれたかったらなるべく早く来い」
ローラがそう言って、藍円寺さんを送り出したのは、午後の事だった。
僕は思わず、ローラを呼び止めた。
「ねぇ、ローラ?」
「ん?」
「あ、あのさ……ちょっと薔薇香を使いすぎなんじゃないの?」
「――あれだけ使えば、絶対に来るだろ?」
「え?」
耳を疑って、僕が聞き返すと、ローラが暗い瞳をした。
「最初は、俺を嫌って怖がって、もう二度とここに来ないなら、それはもう仕方がないと思ってたんだよ。ちゃんと理解してた。でも、今はもう、あいつが来なくなるなんて考えるだけで嫌なんだ」
それからローラは大きく吐息した。
その後は何も言わず、ローラはただ遠くを見るような目をしていた。
この日を境に、日増しに藍円寺さんが来る間隔が早くなった――というよりも、最早、絢樫Cafeに、基本的にいる。お祓いのバイトとその前にちょっと寺に帰るだけらしい。
僕と火朽さんは、困っていた。なにせ、同じ階に、藍円寺さんのお部屋と化した客室があるからだ。そこで、ある日火朽さんが言った。
「ローラ、甘ったるい香りがして勉強に集中できないので、部屋を変えて下さい」
「お前らが出て行け」
「ローラ、はっきり言わせて頂きますが、あのままあそこに藍円寺さんを置いておくつもりならば、当然、僕は出て行っても構いませんよ? ただしその際、僕は玲瓏院家に遊びに行って、親戚の藍円寺さんが大変な目にあっていると、紬くんのご家族の前で雑談してくる用意があります」
火朽さんの声に、ローラが口ごもった。
それから、恨めしそうに火朽さんを見た。
「なんで、お前は玲瓏院紬と、そんなに仲が良いんだよ? あ?」
「なんでと言われましても。そうですね、元々非常に趣味が合うので、紬くんの希望がわかるといいますか、してほしいことがわかるといいますか、気が合わない部分でも、見ている内に慣れてくると紬くんは分かりやすいので、何をしたら喜ぶかもすぐに想像がつくようになったといいますか――」
そこから、楽しそうに火朽さんが、紬くんについての談義を始めた。
僕も、何度か会った事がある。
僕から見ると、あんまり分かりやすい人物には思えなかったが、藍円寺さんほどではないだろう。なにせ藍円寺さんは、快楽でドロッドロにでもなっていない限り、眼光鋭く周囲の嫌なものを見下しているかのような顔をしている。