【6】裸の王様




 その後――僕の、それまでは平々凡々(?)ではないかもしれないが、穏やかだった大学生活は、非常に意味不明な日々と化した。

 ゼミのメンバーをはじめとして、同じ民族学科の学生達に、僕は以前より話しかけられるようになった。それ自体は嬉しいことなのかもしれないが、問題は、彼らが揃って言う事だ。

『火朽くんの何が悪いの? ここだけでいいから、教えて!』

 大体は、こういう話だった。何が悪いかと言われても、存在しない人物に悪い部分はない。

 だが、ゼミのメンバーだけでなく、同じ学科の生徒達まで、火朽くんという編入生が存在しているかのように話しだした部分は、はっきりいって僕にとっては悪い出来事だ。

 鬱屈とした気分で、僕は約一週間を過ごし、『火朽くん存在ごっこ』が始まってから三回目となるゼミに向かった。あるいは、これは、何かの課題なのだろうかと考えて、配布されたプリント類や、メール送信されてきていた民族学科準備室からの連絡を一通り見たが、どこにも、火朽くんに関する課題などは無い。僕が見落としているとは考えられない。

 さて、この日も発表が終わった。

 だが、今日は教授室に移動するのではなく、そのままゼミの部屋に、先生も含めた全員で残る事になった。理由は、来週からは、二人ひと組あるいは三人ひと組で、共同発表を行う形式になるからという内容だった。

 ……ゼミのメンバーは六名なのだから、二人ひと組で良いと、僕は思うんだけど。


「二週間を準備期間として、各自で話し合ってもらう。班分けは、私側で決定させてもらったよ。七名全員の個人発表を見た結果からだ」

 夏瑪先生の言葉に、どう見回しても六名と先生しかいない教室で、僕は涙ぐみそうになった。以前から変わらず、僕は先生の講義は好きだし、機微に富んだ会話も好きだが、火朽くんなる存在しない人物に言及する所が、僕の心象を最近下降させているのは否めない。

「初回は、時岡くんと日之出くんと南方さん」

 先生がそう言って、班の発表を始めた。名前を呼ばれたメンバーが笑顔で返事をしている。

「二回目が、宮永くんと楠原さん」

 これを聞いた時、僕は目を見開いた。え。
 ――別に、女子と班が組めなかったからではない。

「最後の発表は、玲瓏院くんと火朽くんにお願いするよ」

 僕は硬直した。まず思ったのは、『一体どうやって!?』である。
 これは、僕に発表を一人で行なえという意味なのだろうか?
 それとも、僕もまた火朽くんがいるフリをして行動すべきだという暗黙の指示?

「それぞれ、来週のこの時間は、民族学科準備室脇の小会議室で打ち合わせをしてほしい。1から3までの部屋を既に抑えてあるから、初回組は1、二回目組は2、三回目組は3の小会議室で、打ち合わせをよろしくね。それ以外の時間に話し合う事も自由だから――今日は、これで解散しよう」

 微笑した夏瑪先生は、そう言うと教室を出て行った。


 それから一週間を、僕は憂鬱な気持ちで過ごした。

 も、もしかしたら、僕が偶然一度も見かけていないだけで、火朽くんはどこかにいるのかもしれないとも考えて、必死に周囲を視線で探したが、やはり一度も大学で見かけた事はない。

 どうやら皆が火朽くんと話しているらしき場面に遭遇したとしても、その中央はポッカリと無人である事が多いのだ。それこそ、人、一人分……。

 こうして翌週、打ち合わせの日がやってきた。

 いつものゼミの時間の十分前、僕は民族学科準備室脇の、小会議室3の扉を開けた。
 中には白いテーブルと、向かい合わせに椅子が一つずつある。

 左側の椅子は、誰かが座ったまま直さなかったのか、少しだけ傾いていたので、僕は誰も座っていない右側の椅子を引いた。事前に使用していた人々は、戸締りも忘れたのか、窓も空いている。しかしこれは、室内が暑いから、丁度良い。外の熱気も暑いが、空調をつけるよりは、まだ窓から空気を入れるだけでも、涼しくなる季節だ。

 嘆息しながら腰掛けて、僕は腕時計を一瞥した。
 丁度、チャイムが鳴る。ゼミの時間は、これから一時間半だ。

 果たして――火朽くんなる人物は、きちんと姿を現すのだろうか……?

 それから、一分、十分、十五分と、どんどん時計の針は進んでいった。
 秒針がいやに耳につく。
 しかし、時折閉まっている扉を見ても、開く気配はない。

 正面に視線を戻しても、入った時からの通り、誰も座っていない。

「……」

 僕は、何も言葉が出てこない。溜息だけは、何度も出てきたけど。
 これ、さ。
 火朽くんという人物が存在しない以上、僕だけ一人で発表するという事なのだろうか?

「……」

 そうだとすれば、打ち合わせの必要はないが、僕は二週間と、最後だからさらに与えられている二週間の猶予で、何か発表内容をひねり出して、資料などを作成しなければならない。

 気が重い。憂鬱すぎて、思わず目を細めた。

 しかも、難題がある。僕は、火朽くんが存在するかのように、パフォーマンスをする事を期待されているのかもしれない。しかし、されていないかもしれない。いない人物について、僕が話し始めたら、みんながやっとネタばらしをしてくれる可能性もあるが、爆笑するような気もする。何せ彼ら・彼女ら・先生は、僕をからかっているのだと考えられる。

 悩んでいる内に、あっさり一時間半が経過した。
 ゼミの終わりを告げるチャイムが鳴り響いたが、打ち合わせには終了時間は無い。

「……」

 もしかしたら、微レ存の可能性として、火朽くんなる人物が、遅刻しているという事もあり得る。僕は、彼の連絡先を知らないし、彼も知らないだろう。もう少しだけ、待ってみようか。

 そう考えて、僕はそれから三十分間ほど、僕以外無人の小会議室にいた。
 しかし、誰も来ない。
 もう、ダメだ。だって、火朽くんなんて人は、いないんだし。

「……」

 帰ろう。図書館にでも出かけて、何か発表用のアイディアを探そう。
 大きく溜息をついてから、僕は立ち上がった。
 扉を軋ませ外へと出てから、僕はまっすぐに夏瑪先生の教授室へと向かう。

『どうぞ』

 ノックをすると、夏瑪先生の声が帰ってきた。
 扉の前で小さく頷いてから、僕はノブを握る。

「失礼します」

 こうして、僕は教授室へと入った。




「やぁ、玲瓏院くん。どうかしたのかね?」

 いつも通りの柔和な笑顔で、先生が僕を見た。僕は内心ではモヤモヤしつつも、努めて無表情を心がけながら告げる。

「すっぽかされました」

 先生も、火朽くんがいる素振りなのだからと、僕は抗議の意味も込めて、さも存在するかのように言った。すると、夏瑪先生が、虚をつかれたような顔をした。

「あの火朽くんが、すっぽかした? 来なかったのかね?」
「ええ。この二時間、僕はずっと待っていましたが、誰も来ませんでした」
「それは奇妙だね、何かあったのかもしれない」
「――僕、帰って良いでしょうか?」
「ああ、私から連絡をしてみるが……」

 僕の声に、夏瑪先生は言いかけてから、不意に口を閉じた。
 そして、改めて僕を見る。

「玲瓏院くん、時に一つ聞いても良いかね?」
「なんですか?」
「君は、火朽桔音という人間について、どういう印象を抱いているんだい?」
「率直に言って――特に何も」
「人とは、他者に対して、多かれ少なかれ、何らかの感情を持つと、私は考えているが」
「火朽桔音という人間は存在しません」

 僕はムッとしながらそう告げた。いない人に対して、抱く感情などない。

 すると、夏瑪先生が、驚いた顔をした。

「確かに――火朽くんという人間は、存在しないね」

 続いた声に、今度は僕が息を飲む番だった。やはり、存在しなかったのだ。
 先生が、それを認めてくれた! やっぱり僕は、みんなにからかわれていたらしい。

「さすがは玲瓏院くん。しかしね、人間ではない相手だからといって、態度をあからさまに変えるのは、どうかと私は思うがね」
「どういう意味ですか? 僕にも、存在しない架空の対象を前に、さもいるかのように振舞えという意味ですか?」

 僕は率直に尋ねた。この回答により、発表時に火朽くんがいるふりをしながら発表するかどうかが決まる。

「――架空の対象? 確かに非科学的ではあるとは思うが、彼のような『現象』であっても、感情を持つ存在は、この世界には少なくはない」
「現象……? いない人をいるかのようにみんなで話しているだけじゃないですか」
「ん? なんだって? もう一度、言ってもらえるかね?」

 夏瑪先生は、まじまじと僕を見ている。

「だから、誰もいない所に向かって、みんなで話しかけて……僕には理解できません。裸の王様の見えない服を、みんなで見える見えるって言ってるのと、同じじゃないですか」

 悲しい気分になりながら、僕はそう続けた。すると、その場に奇妙な沈黙が降りた。

 それから、間を置いてから、先生が僕に言った。

「念のため、聞いて良いかね?」
「はい」
「玲瓏院くんは、この大学構内において、『火朽桔音』という”存在”を目撃した事はあるかね?」
「無いです。一回もありません!」

 はっきりと断言する。そんな僕を見て――先生が、小さく吹き出すように笑った。
 それから、お腹に手を当てて、少しだけ体を傾け、本格的に笑い始めた。
 いつもは微笑だから、こういう先生の姿は珍しい。

「うん。君は、さすがは玲瓏院家の人間だね」
「へ?」
「いいや、すごいのは君だ。やっぱりさすがだよ、玲瓏院紬くん」

 僕は馬鹿にされているのだと確信した。少しだけ頬を膨らませて、僕は半眼になる。
 そして、改めて言った。

「僕、帰ります」
「ああ――それと、来週もきちんと時刻通りに、小会議室には行く事を勧めるよ」
「え? 誰も来ないのにですか?」
「いいや、誰かが来るかもしれない。私は、それを期待している」

 そう言って悠然と笑った夏瑪先生を、しらっとした気分で眺めてから、僕は退室した。