【7】新生活の準備




「今はやっぱりさ、ほら、妖怪といえどなぁ」

 火朽桔音が階段を下りていると、一階のリビングから楽しそうな声が響いてきた。声の主は、分かっている。

 ――ローラだ。

 女性名を名乗っているが、彼は男性だ。妖怪にも、性別がある。

 彼は現在は、絢樫露嬉を名乗っているのだが、火朽も含めて、皆がローラと呼ぶ。その事を、長い付き合いの火朽は、よく知っていた。

 もう慣れたという方が、適切なのかもしれない。
 耳を傾けていると、ローラの明るい声が続いて聞こえてくる。

「働いて収入を得る時代だろ? 葉っぱを小判に変える時代は終わったんだ」

 果たして、吸血鬼であるローラが、狸のように、木の葉を小判に変化させた事があるのか、火朽には疑問だった。だが、さも当然だという風に響いてくるローラの声を耳にしていると、特に言葉を挟もうとは思わない。なので、静かに火朽は耳を澄ます。

 ローラが話している相手は、絢樫砂鳥という名前の、(外見は)少年だ。彼の名前にしろ、火朽の名前にしろ、命名したのは、ローラである。砂鳥は、『覚』という妖怪だ。実に安直な命名である。



 火朽は、己が初めてローラと出会った時の事を、漠然と思い出した。
 彼に拾われ、保護された直後の記憶だ。



「ふぅん。お前は、『狐火』か。直訳したら、『FOX FIRE』――朽ち果てるって意味だな。じゃ、今日からお前は、火朽桔音と名乗れ。俺はまだ、日本に来たばかりだから、この国で言う妖怪、その中でも、狐火みたいな『現象』については、詳しいとはお世辞にも言えない」


 出会ってすぐに、ローラが猫のような瞳に面白そうな色を宿して、そう言った。
 彼がニヤリと笑った事を、火朽はよく覚えている。

「それに人型をとって生きていく以上、名前があった方が、何かと楽だ」

 火朽は当時、その声に頷いた。それにしても――安易とはいえ、随分とキラキラした名前だなと、感じた記憶がある。

 その際、ローラに火朽は尋ねた。

「どうして貴方は、ローラと名乗っているんです?」

 するとローラは、僅かに茶色にも見える黒髪を揺らしながら、紫暗の瞳を細めて笑った。

「ん? ああ、俺は吸血鬼だからな。先日読んだ、吸血鬼が主題の小説に、そんな登場人物が出てきたから、拝借したんだ。苗字は、この国では、俺達のような存在を『あやかし』と言うんだろ? そこからもらった」

 ……ローラという登場人物は、吸血鬼の名前では無いように思ったが、その時、火朽は何も言わなかった。今でも、ローラは、気に入っているのか、その名前を用いている。



 ――そこへ砂鳥の声が響いてきたので、火朽は我に帰った。

「働くって今更……何するの?」
「ん? 喫茶店」

 何気ない様子で、ローラが答える。当然だと、そう言うような声音だった。実は火朽は、事前にこの話を聞いていた。その時も、非常に唐突ではあったのだが。



「なぁ、桔音」

 そう声をかけられたのは、昨夜の事だ。

「なんです?」
「お前さ、前に、人間のする『勉強』というものを、してみたいだのと、言っていたよな?」
「ええ、まぁ。なので僕は、相応に読書などをしていますよ」
「ほら! もっと、専門的に、勉強するっていうのはどうだ?」
「専門的?」
「大学生になる――楽しそうじゃないか? 大学に通え」

 ニヤリと笑ったローラを見て、火朽はこの時には、既にそれは決定であり、己が口を挟む余地は無いのだろうと、確信していた。実際、それは事実である。ローラの決定は、ほぼ絶対と言える。嘆息してから、火朽は改めてローラを見た。

「何故、大学なんです?」
「ん? 桔音の見た目が、まさに大学生だからだ」

 その声に、火朽は吹き出しそうになった。妖怪であるから、見た目を変える事は、そう困難では無い。ある種の暗示をかければ、人間は火朽の姿を、個々人の頭の中で、様々に認識するからだ。もっとも、確かに現在は固定して、二十代前半くらいの青年姿を、火朽はとっている。

 薄い茶色の髪色に、それよりは少しだけ暗い土色の瞳だ。
 大学生と聞いたとしても、誰も疑問を抱かないだろう。



 さて――その後も火朽は、階下から響いてくる、ローラと砂鳥のやり取りを聞いていた。

 最終的に、砂鳥はローラに言いくるめられていた。

 砂鳥の外見は、十代後半くらいに見えるのだが、彼は高校生になるわけではないそうだ。ローラが思いつきで始める事にしたらしき、喫茶店のバイトをするらしい。

「大学が無い日は、桔音も手伝ってくれるらしいしな」

 続いて放たれた声に、そんな約束をした覚えが無かったので、内心で火朽は苦笑した。

 このようにして、人間のする引越しというものを、妖怪である彼らも行う事になったのである。これからの新生活が、火朽は楽しみだった。



 さて、それから数日後の出来事である。



 新南津市のはずれ、合併により市に含まれる事になった、小さな村――集落が形成している住宅街の一角に、その日、新しいカフェがオープンしようとしていた。

 ただの喫茶店ではない。

 住民達すら、いつからそこに、その洋館風の店があったのかを記憶してはいないのだが、そういう意味合いではなく、看板に印字された店名が一風変わっていた。

 ――Cafe絢樫&マッサージ。

 最初にそれを見た時、火朽は買い物袋を抱えたまま、少しの間だけ立ち止まってしまった。


 過去にもローラが気まぐれに、引越しをした事はある。それは砂鳥が加わる前の話であるが、大抵の場合、こうした西洋風の家をローラは出現させる。今回は、看板が出ている側の店舗スペースと、その後方に居住スペースがあるらしい。

 昨日見た、今後の家の方は、火朽が過去にも見た事のある、ごく一般的な人間の住む家とさして差が無かった。だからこれまでの生活においても、妖怪は娯楽として、人間と同じ食事をするので、料理担当の火朽は、今後も己が担当するのだと考えて、現在は最寄りのスーパーに出かけてきた帰りである。

「……マッサージ?」

 まじまじと看板を見ながら呟いて、火朽は思った。
 相変わらず、ローラが何を考えているのかは、さっぱり理解できない。

 しかし、質問するだけ無駄だという事もよく知っていたので、彼は裏手にある、住居スペースに直通する扉へと向かう事にした。