【11】明確な無視



 
「あの、玲瓏院くん、良かったら一緒に、お昼ご飯をどうですか?」

 すると――丁度扉から出ようとしていた紬が立ち止まり、静かに振り返った。
 自分の方に視線が向いたので、火朽は心の中で安堵する。
 しかしそのまま、何を言うでもなく、紬は再び歩みを再開して、出て行った。

「これは……きっと、YESですね! うん。ですよね!」

 火朽は非常に前向きな性格をしているので、慌てて紬の後を追いかけた。
 そのまま無言で、エレベーターに乗り込む。
 一階に到着するまでの間も、その後、学食へと向かう道中でも会話はゼロだった。

 だが、自分が隣を歩いている事に対し、紬は不満を言わないので、火朽はそれを進歩と捉える事に決めていた。

「冷やしたぬき蕎麦」

 食券を買って、紬が頼んだ。火朽は無難にカレーを頼んだ。
 すぐに出てきた料理のトレーを、紬が持って歩き出す。

 学食の列は流れ作業のようだったから、火朽も周囲の動きに合わせて受け取り、その後は紬を追いかけた。すると――紬は、どこからどう見ても、一人用の椅子に座った。ま、まぁ隣に座る事は不可能ではないと判断し、火朽はそこに腰を下ろす。

 すると、紬が唐突に、バシンとテーブルを叩いた。

「あのさ、鬱陶しすぎるんだよね。さっきからさ。本当、嫌になる。ご飯くらい、僕は静かに食べたいのに。なんていうか、イタイんだよ。動きがさ」

 そして不機嫌そうにそう言った。
 非常に小さな声であり、火朽以外には聞き取れないだろう声音だった。

「――僕は、何か気に障る事をしましたか?」
「……」
「玲瓏院くんは、僕の何が嫌なんですか?」
「……」
「食事をするのが嫌なようなので、僕はここから立ち去りますが、その条件として、ぜひお聞かせいただきたいんですけど」
「……」
「僕の行動が痛いって、どういう意味ですか?」

 火朽は一気に聞いた。口元には笑みを浮かべていたが、瞳は険しい。
 しかし、紬は何も答えず、蕎麦を食べ始めた……。

 そのまま――食べ終わるまでの間、なお言えば、三限が開始するまでの間、紬は何も言わなかった。奇しくも、三限も火朽と紬は同じ講義をとっていたが、そちらには学生がいっぱいいたため、火朽は頭を切り替えて、昼の出来事は忘れる事に決めた。


 こうして紬は、翌日からも火朽に観察される事になったのだが、本人は長らくその事実に気が付く事は無かった。

 火朽は翌週のゼミまでの一週間、『毎日』――紬の隣を歩いた。観察の優先順位が高くなったからではない。人混みで他の生徒の目がある時は笑顔だが、二人きりで歩く時など、最近の火朽は傍から見ても冷たい眼差しをしている。

 しかし、紬が何かを言う事は無い。表情の変化以前に、無視が継続中なのである。

 無視――火朽にはそう思える辛い日々の中にあって、常時であれば、彼はとっくに距離を作っていただろうが、今回はそれができない事情があった。

 玲瓏院紬の観察よりも優先度が高い一番上のもの、大学生として勉学に励む事……分かりやすく言うならば、これは『講義へ出席する』という行動だ。

 今は、ゼミの前の最後の講義、二限へと向かっている最中なのだが……紬の横を歩いているのは、やはり行き先が同じだからであるとしか言えない。

 時間割の決定は、操作して潜り込んでいるのは火朽であり、紬側は四月の履修登録時期に終わっていたはずである。なのに、見事にこの一週間、全ての講義が同じだったのだ。

 むしろ火朽側が紬と同じ講義を選択して後から時間を組んだ、と、言われたら皆が信じるだろう。全て同じだったのだから。しかし、そんな事実はない。

 学んでみたい学問――授業を選ぶにあたり、火朽は夏瑪教授の意見を一部参考にはしたが、基本的にはシラバスとにらめっこをして、彼は自分の興味が惹かれたものをひたすら選んでいった。紬がどういった理由で、それらの講義を選んだのかは、火朽には分からない。

 不真面目な大学生の大半は、単位取得が楽な講義の情報などを手にしているという。
 折角の学ぶ機会を潰す彼らの神経が、火朽には理解できないが。
 とはいえ、紬は――ここまでの全ての講義に、基本的に出席し、真面目に話を聞いている。

 思い出して火朽は立ち止まり、先に進んでいく紬を見据えた。

「ここまでかぶると、僕と彼の趣味――好奇心を満たしてくれる講義や、興味を持つ対象が同じとしか……かなり深い部分で、気が合う……いいえ、そんな事はありえませえんね」

 そしてそう呟いてから、後ろから来る二人の気配に振り返る。
 今度は笑顔をきちんと浮かべ、火朽は振り返った。

「おはよう、火朽」

 声をかけてきたのは、時岡という男子学生だ。隣では宮永も片手を上げている。

「おはようございます」

 その後火朽は、二人とともに、夏瑪教授が講義をする二限へと向かった。



 二限も、二人のそばの席に座り、火朽は講義を聞いていた。
 同じ列の窓側には紬がいる。しかし彼が、時岡と宮永に加わる様子は無い。

 それは昼食も同様だ。
 火朽は二人と共に移動し、この日は四人用のテーブル席を三人で使いながら首を傾げた。

「時岡くんと宮永くんは、いつもお二人なんですか?」
「今は火朽もいるだろ? これからタイミングあったら食おう」
「そーそー。ま、俺と時岡は約束しているわけじゃないけど、てきとーに、な」

 二人の声に、火朽は微笑した。玲瓏院紬以外の反応は、こういった好意的なものが多い。

 その後、本日のランチをそれぞれ食べた後、火朽にとっては二度目となる、ゼミへと向かう事になった。席が決まっている様子のため、近距離で紬の隣に座る事になる。初日から火朽は考えていたのだが、タイミングを見て、日之出という学生と席替えをしてもらおうと思っていた。

 オカルト(有能)とオカルト(趣味)として評判らしい、玲瓏院紬と日之出という学生が二人で座る方が、冷戦が続いている自分と紬が並んで座るより良いという判断である。

 ゼミ用の小さな教室に入ると、時岡が全体に挨拶をした。宮永もそうしたので、火朽も同じように挨拶をする。その時、既に座っていた紬は、顔を上げると、小さく会釈をした。火朽単独でなければ、このようにして反応が返ってくる。

 しかし、火朽が隣に荷物を置きながら座っても、紬は視線すら向けない。他の女子学生二名が、代わりに火朽へと声をかけた。談笑しながらがも、火朽はあからさまに冷たい紬の態度に苛立ちをこらえる事に必死になる。

 その後、夏瑪教授が入ってきて、ゼミが始まった。

 ――講義であれば、真面目な態度であるし、議論という名の会話が成立するだろうか?

 そう考えて、火朽はタイミングを見て、名指しで聞く事にした。

「玲瓏院くんは、どう思いますか?」

 すると、教室が沈黙した。全員の視線が、紬へと向く。皆が回答を待っている。他の誰かがこのように聞けば、名前を出されたものが答えるのは、暗黙の了解だ。他の誰かに名前を呼ばれれば、ここまでの間、紬もごく普通に意見を述べてきた。だが――。

「……」

 紬は何も言わない。火朽を見るでもなく、気怠そうな眼差しで、周囲を見回し、それからわずかに怪訝そうな顔をした後、夏瑪教授へと視線を向けた。

「僕が付け加えたい事は、特に何もないです」
「そ、そうかね。では、次の切り口として、私が提案したいのは――」

 心なしか夏瑪教授も頬をこわばらせたが、彼はそのまま話を変えた。
 紬は、講義であっても、明確に火朽を『無視』した。
 これには――周囲の学生達も唖然としている。皆が、オロオロとしている。



 ゼミの終了後まで、不可思議な空気は教室に残っていた。

 だがチャイムが鳴ってすぐに、本日も教授室へと行く事になり、真っ先に紬が出て行ってからは、室内の空気が弛緩した。誰ともなく、大きく吐息している。

「え、っと……火朽、玲瓏院と何かあったのか?」

 時岡が歩み寄り、ひきつった笑顔で聞いた。すると、すぐそばの席にいた祈梨が困ったような笑顔を浮かべた。

「う、うん。私もさ、紬くんがあからさまに、その、そのっていうか、うん。答えに詰まっていたようには見えなかったよ……?」
「祈梨、私もそう思うけど、あれは完全にスルーだけど、で、でも!」
「だって、まほろ、今まで紬くんのあんな姿、見たことがある?」
「ないけどさぁ!」

 まほろと祈梨がそう話していると、宮永もやってきた。

「火朽――玲瓏院自体は温厚だけどな、あいつを怒らせると、後ろについてる実家がやべぇから、あんまり揉めない方が良いぞ」
「宮永よ、俺も同じ意見だけどな、これまで玲瓏院が怒った所なんか、見たことあるか?」
「教室にゴキブリが出た時。あいつ、虫が嫌いらしい」

 二人の声を聞いていたらしい日之出が、そこに明るい声を上げた。

「つまりは玲瓏院くんの中で、火朽くんは、ゴキブリって事だねぇ」

 室内の空気が固まった。空気を読めよと人間の他の学生達は思ったが、表情を崩さないままで火朽は内心で、今ならばメロスに圧勝できる激怒っぷりであると、自己評価を下していた。


 その後、教授室へと移動すると、先週と同じように紬がお茶を用意していた。
 一つ、二つとグラスが置かれていく。
 そして――火朽の正面以外には、全てグラスが置かれた。

 火朽は笑顔をはり付けたままで、紬を一瞥する。
 紬はするりとその視線を交わすかのように、夏瑪教授の方へと顔を向けた。

 その二人の光景に、先週はフォローを入れた女子二名も、上手く動けない。
 時岡と宮永は顔を見合わせている。
 こういう時に強いのは――周囲の空気など気にせず生きている、日之出だった。

「玲瓏院くん。火朽くんのお茶はどこにあるんだろうねぇ?」

 誰もが聞けなかった事を、真っ赤な唇からあっさりと彼は放った。
 すると紬が目を細める。室内の温度が少し下がった気がした。

「火朽? 誰、それ」

 不愉快そうな眼差しの紬の声に、ビシッと室内が凍った。
 明らかに怒りや嫌悪が覗いている瞳は、普段の大人しい紬の姿とは違いすぎた。

「僕、帰るね。気分が悪い」

 そう言うと、ふてくされたような表情で、自分のお茶を飲んでから、紬が立ち上がった。

 そして、火朽の前に自分が飲み干したグラスを、少々乱暴に置くと、そのまま教授室を出て行く。残された面々は、呆然とするしかなかった。