【10】積極的なアヤカシ





 これはもう、先程までのように、『低血圧』であるとか、昨日のように『春から編入してきたものの、まだゼミで顔を合わせた回数は十回にも満たない、ほぼ初対面の相手に緊張している』などといった、好意的な解釈は不可能であると、火朽は腸を煮え繰り返しながら考えた。

 扉が閉まる前に、体をすべり込ませる。
 すると優秀な扉はきちんと反応し、再度開いた。

「なんで開くんだよ。壊れてるのかな?」

 そして火朽が無事に乗り込んだ直後、無愛想にぼそっと紬が言った。火朽は笑顔で隣に立ったが、元々柔和な外見に反して、非常に沸点が低いのでブチッときていた。

 怒りから次の言葉が思いつかず、火朽は表情だけ笑顔を保ち、ずっと正面を見ていた。
 その後エレベーターは無事、講堂がある七階に到着した。

 扉が開くと、さっさと紬は出て行く。

 観察するには好都合であるが、嫌な現実として、火朽は気がついた。どうやら、自分達は同じ講義を取っているらしいという、薄々一階から気づいてはいた事実に。

 仕方がないので、正面を進む紬の背中を眺めながら、火朽も歩き始めた。
 誰も見ていないので、この時だけは笑みを消し、スッと目を細める。

 そして――考えた。

 そもそも、玲瓏院家が有名なのは、強い霊能力を持っているからだ。

 そうである以上――もしかしたら、夏瑪教授が何か失態を犯したか、あるいは己が迂闊な行動をしたために、玲瓏院紬は、『火朽桔音が人間ではない』という判断を下し、このような態度を取っているという可能性もある。

 火朽は怒りのスイッチがすぐに入る方だが、だからといって冷静さを失うタイプではない。
 それにまだ、大学生活二日目だ。
 もう少し、この激怒をそのままぶつける前に、様子を見た方が良いだろうと、彼は判断した。

 二人で大きな講堂に入ると――昔から設置されているのだろう黒板の前に、禿頭の教授がいるのみで、二百人前後入るその室内には、他に学生は誰もいなかった。

 時間はもうギリギリである。

 しかし誰も来ない。理由は簡単だ。出席確認がない上に、非常に簡単なレポート提出で単位がもらえるため、多くの学生が受講しているのに、テストにしか顔を出さない講義だという。

 だから面白さを知る学生が少ないのだと、夏瑪教授が話していた事を、火朽は思い出した。

 紬は、後ろから三列目を進んでいき、窓から少し距離を置いた場所に座った。
 何処に座るか迷ったが、火朽も同じ列の――三人分程度距離をあけた場所に陣取る。

 それから火朽は、チラリと紬を見た。

 玲瓏院と聞くと、真面目そうなイメージがある。が、その名前が無ければ、見る限り、紬はごくごく一般的な大学生に見える。それも無気力系であり、やる気が感じられず、ぼけっと無愛想な顔で、頬杖をつきながら正面を見ているのだ。

 不真面目そうではないが、キレ者には到底思えないし、勉強熱心にも見えない。
 そんな紬が、こうして誰もいない講義に顔を出しているのが、火朽には不思議だった。

 ――もしや、逆に自分が観察……監視されているのか?

 不意にそんな考えが頭をよぎる。しかし教授は、紬と火朽のそれぞれを見ると、ポツリといった。

「いつもの顔だなぁ」

 禿頭の教授は、火朽の正体に気づいている様子は無いし、紬がいるのも当然だという顔をしていた。だから、考えすぎだなと、火朽は内心で嘆息した。


 こうして一限が始まると、意外な事に、真面目に紬がルーズリーフにペンを走らせ始めた。それを見て、火朽も、まずは講義に集中する事に決める。

 気づくと、あっという間に、一時間半が経過していた。
 時間を五分ほどオーバーし、教授が講義を終えて出て行く。
 それを見てから、火朽は立ち上がった。

 紬の事も気になるが、己には二限の講義もあるからだ。
 折角の大学生活である、満喫しなければならない。
 そう考えながら火朽はエレベーターへと向かった。

 すると――紬もまた、その場にやってきた。
 エレベーターホールは各階に一箇所だから、当然の流れではある。
 しかし、帰るならば、下の階に行くエレベーターに乗るはずだ。

 火朽の次の講義は、この館の八階で行われる。一つ上だから、階段でも良い。
 だがエレベーターは、二つある。
 よって、上を押して待っている火朽は、階段を使う気にはならない。

 そもそも、自分を無視する相手に気を遣うという発想が無い。

 ただ……嫌な予感がしていた。紬は、隣のエレベーターの前には立たず、火朽の真横にいるのだ。上行きを、待っている様子だった。

「――あの、上に行きますけど?」

 念のため、火朽は尋ねた。勿論、表情は笑顔だ。にこやかに問いかけた。

 だが、『そんなのは見れば分かるけど、何か?』というような空気を醸し出しながら、紬がため息をついた。彼の視線は、エレベーターの『▲』を捉えている。上に行くと理解しているのが、傍から見ても分かる。

「……」

 そのまま紬が何も言わない内に、エレベーターは到着し、二人は上行きのその箱に乗り込んだ。火朽より一歩早く、紬が八階を押す。

 ……こうして、二限も二人は同じ講義に出席した。
 なおこちらには学生が数人いたのだが、やはり人気は少ない。
 人間には不人気な講義だという噂は、本当らしい。

 しかし、紬は真面目にノートを取っている。その部分だけは尊敬しつつも、これからずっとこの気まずい講義の時間を、毎週過ごすのかと思い、火朽は憂鬱な気分になった。

 いいや。ここはやはり、親交を深めるべきである。
 火朽は積極的なアヤカシなので、そう考えた。

 そこで、二限の終了後、改めて声をかける事に決めた。