【9】大学生活




 大学生活、初日。最後の講義は、必修のゼミだった。

 その後、担当教授の夏瑪先生の研究室で雑談した後、同じゼミの男子学生二名と居酒屋へと出かけてから、火朽は自宅へと戻った。そして、遅い夕食を準備する。

 もっとも食事は娯楽であるから、いくら遅くなろうとも、ローラや砂鳥が不満を漏らすわけではない。何より、まだ二人は、店舗スペース側の閉店作業中のようだった。



 三人で食事の席についたのは、午後十一時に近い頃となった。

 座るとすぐに、ローラが火朽を見る。

「――大学どうだったんだ?」
「ええ。皆、良い人でしたよ――……ただ」

 火朽は、日中の出来事を回想し、思わず溜息をこぼしそうになった。

「ただ? バレたのか? さすがに、日本屈指の霊能大学は違ったか?」

 そんな火朽の反応に、ローラが面白そうな瞳をした。
 火朽は、ゆっくりと瞬きをしながら、ローラから事前に聞いていた事を思い出す。

 霊能大学こと、霊泉学園大学――そこが、今回、火朽が編入した(事になっている)大学だ。

 ローラいわく、『霊能力者を養成する専門の大学』だという。
 夏瑪教授にも、同様の事を、火朽は聞いていた。

 ――この土地は、ある種の蠱毒だ。

 しかし、喰らい合うのは、虫や蛇では無い。微弱な妖魔、霊、そういった人ならざる存在が、お互いを捕食し合っている。火朽達三人のように、強い力を持つ者には、特に弊害は無いのだが、この土地がある盆地を囲むように、一度入ると微弱な存在では外に出られなくなる結界が存在しているのだ。

 それが、『玲瓏院結界』という名前をしている事も、火朽は聞いていた。

 古の昔――遡ると鎌倉時代に、この地域に霊を集めて、定期的に浄化を行うようになったらしい。その結界の維持をしている要たる存在が、玲瓏院家であり、この土地には、いくつかの分家も存在している。

 数多の妖魔が喰らい合う結界内部で生きてきた人々は、時代を経るごとに、心霊現象に対して耐性を身に付けるようになったらしい。それもあって、この土地の人間は、俗に言うオカルト現象にも好意的であるし、幽霊を信じている人間も多い。

 同様に、結界の存在を知っていても、知らなくても、高い霊能力を持っていると知られている玲瓏院家の人間やその縁者は、一目置かれている。

 だが、所詮、人間は人間だ。いくら強いとはいえ、本日もゼミで、玲瓏院紬という人物の横に座っていたが、別段、火朽の正体に気付いた様子など、まるでなかった。

 ――けれど。

 現在火朽を悩ませているのは、間違いなく玲瓏院家の人間、玲瓏院紬である。



 火朽は、すっと目を細めた。



 口元にだけは笑みを形作り、火朽がローラに言う。


「いえ。ごく普通の民族学科でしたが――……教授室に授業後、夏瑪先生のゼミのメンバーが集まるようで……僕も顔を出してきたんです。そうしたら、あからさまに、一人、僕を無視する人がいて……」


 実際には、ゼミの教室に紬が入ってきたのをみて、講義開始前に挨拶をした時から、無視されていた。自分の方を見てはいたから、緊張しているのかと思い、挨拶後は声をかけなかったが。

 ちなみに、そのゼミ開始直前は、他の学生が来てからも、紬は特に雑談に参加するでも無かった。だから、その時点では無視されているとは考えていなかった。


「無視?」

 ローラが不思議そうに首を傾げている。

「はい。一度も目も合わず、みんなが自己紹介してくれる中でも、無言で……僕を意識していて無視しているとかではなく、僕が存在していないかのような対応で……そもそも、最初の時点で、僕の分だけお茶を出してくれなくて……」

 他にも、色々と言いたい事はあったが、要約して火朽は述べた。
 するとローラが、あからさまに眉を顰めた。

「感じ悪いな」
「ですよね。僕以外には、悪い人ではなさそうだったんですが」

 自分以外の学生や、夏瑪教授には、玲瓏院紬は非常に丁寧だった。

 名だたる家の人間だからか、周囲は気を遣っているようだったが、本人には図に乗る様子もなく、名前以外はごくごく普通の、火朽が想像していたような大学生といった様子だったのだ。


「おう。俺なら許さない。俺は心が狭いからな」

 ローラがそう言ったので、我に帰り、火朽は唇で弧を描く。

「――僕も狭い方なので、明日から少し様子を見てはみますが、毅然とした対応で臨もうと思っていますよ」


 しかし火朽の瞳は、笑ってはいなかった。
 彼は、敵には容赦しない性格をしている。


 理由なく無視されるのは、はっきり言って気分が悪かった。

 こうして、火朽の大学生活初日は、幕を下ろしたのである。



 翌日、まず火朽は、それとなく玲瓏院紬を観察してみる事に決めた。

 無論、本分は大学生活を送って、人間の得ている知識を収集する事であるから、観察は片手間に過ぎない――はず、だった。

 火朽は、バスターミナルから構内に向かってくる学生の人波を一瞥し、その日の朝、一限の直前に、観察対象を発見した。”能力”の気配で、すぐにいるのは分かったし、あるいはそれがなくても、周囲が紬に対して、憧れや羨望の視線を向けているため、気づく事が可能だっただろう。ただ、明確な事実として、別段待っていたわけではない。

 無表情で歩いてくる紬は、どこか憂いを感じさせる眼差しで、時折嘆息している。
 そして彼は、火朽の前を通り過ぎようとした。
 だから、それとなく横に並ぶ。

「玲瓏院くん、おはようございます」

 笑顔を貼り付けてそう声をかけたのは、十一号館のエレベーターホールでの事だった。
 一限であるのも手伝って、その場には、二人きりだった。
 先程バスを下車した学生達の九割は、仏教学科の必修に出席予定らしい。

 事前に、夏瑪から『めったに受講者がいないけど面白いよ』と紹介された講義の教室に、火朽は向かう途中であり、そのために移動する中で、偶発的に紬と同じ空間に身を置く事になっただけだ。

「……」

 しかし気怠い表情の紬は、火朽に視線すら向けない。挨拶も返さない。
 ぼんやりと澄んだ瞳で、エレベーターが一階に到着するのを待っている。

「――あの?」
「……」
「玲瓏院くんは、もしかして低血圧なんですか?」

 努めてにこやかに火朽は聞いた。だが、紬に反応はない。
 その時エレベーターが到着した。すると紬はさっさと乗り込み顔を上げた。

「あ、僕も乗りま――」

 火朽がそう言いかけた時、目の前でエレベーターの扉が閉まり始めた。
 完全に、『閉』ボタンを、紬が押している。

 ……ちょっと待って頂きたい。これは、無視ではない。嫌がらせである。そう考えて、火朽は表情こそ笑顔だったが、心の中で激怒した。