【15】特技




 ――僕は本日の出来事を振り返っていた。


 僕が存在しないと確信していた、火朽桔音なる編入生がいきなり目の前に現れたからである。
 正直、焦った。

 不意に開いた扉を見て、扉もまた壊れてしまったのかと悩んでいたら、ふと人の気配を感じて視線を向けたら、正面の席に、暗い茶色の瞳の青年が、腕を組んで座っていたのである。

 ……僕は普段、お世辞にもテンションが高いとはいえない人間だ。

 そして、オカルト現象否定派でもある。

 が、小さい頃から僕は、信じてこそいないままながらも、周囲から『怪異への向き合い方』を教わって過ごしてきた。

 ここでいう怪異とは、本日を切り取って振り返るなら、存在しなかった人物がいきなり出現した事ではない。僕の正面、火朽くんの周囲には、赤にも青にも見える炎が揺らめいていたのである。


 僕は過去にも、同じ色彩の炎を見た事があった。
 数少ない僕の経験ある心霊現象――では、ない。

 あれは、墓地での事だった。享夜さんと昼威さんと共に、藍円寺の前住職御夫妻の三回忌に出かけた時の記憶が、最古だ。あの時、享夜さんは凍りついて僕に抱きつき、昼威さんは冷静に言った。

「人骨にはリンが含有されている。リンは、60度で発火するんだ。この墓地は、火葬が始まるのが非常に遅かったからな、夏にはよく、こういった発火現象――俗に言う狐火が見られる」

 それを聞いた時、享夜さんは大きく首を振り、僕ではダメだと思ったのか、僕の横に立っていた祖父の着物の裾もギュッと握りはじめた。

 すると祖父が呆れたように享夜さんを見ながら、大きく溜息をついた。

「火が見えたという事実や証言から、様々な推測をすることは可能じゃ。問題は、なぜ推測するのかであり、答えは簡単じゃ。理解できないものに対して、人間は恐怖する。よって理屈をつけて納得することで、恐怖を半減させるというわけじゃな」


 それから祖父は享夜さんの頭を軽く叩いた。

「しかし真の問題はそこではない。その現象が、わしらにとって『有害』か『無害』か、だ。享夜よ。確かに害の有無に問わず、強い力は同一のある種の畏怖をもたらすが、いくら怖くても無害であれば、問題はなかろう? わしらにとって、そこの狐火は別に無問題であるが、この墓場を飛んでいる蚊子は、非力ながらに非常に有害である、違うか? 刺されると痒い」

 僕は、祖父の声に、幼いながらに非常に納得した記憶がある。
 だからあの日の帰り道、祖父に尋ねた。

「ねぇ、お祖父ちゃん」
「うん?」
「有害な現象に遭遇した時に、それが蚊子と違って防虫スプレーでは撃退できないような、それこそ頭の中で理解して落ち着かいないといけないような存在だった時は、どうすればいいの?」

 すると祖父は、僕の声に優しい顔をした。

「笑い飛ばせば良い」
「え?」
「――そんな有害現象は存在しないと断言し、ひたすら元気よく、笑うのじゃ。実は蚊子を撃退するよりも、よほど簡単な事なのじゃよ。特にわしらのような、玲瓏院の人間にとってはのう。人間が『実在しない』と決めてしまえば、いかに有害な現象とて、存在証明が困難になる。よって、無視せよ」
「うん。次に狐火を見たら、それがもし悪いものだったら無視する」

 僕が頷くと、後部座席の隣に座る祖父は、僕の頭を優しく撫でた。
 それから少しだけ、真面目な顔をした。

「だがのう、もしそれでも消えないような怪異であるならば――あるいは、人の姿を形作る事が可能な程度の強い”魔”が相手ならば、別のもっと良い方策がある」

 祖父はそう言うと、小さく頷いてから続けた。

「気づかぬふりをする事じゃ。この時は逆に、その対象を、決して妖魔のたぐいと認めてはならない。先手を打って、『人間である』と断言し、以後は人間として扱い、決してこちらが疑っている事に気づかれてはならぬ。さすれば、多くの存在は、人間として振る舞い始める。人間として認識される限り、その者は自分の存在を証明するために、人間らしくする傾向が生まれるのじゃよ」



 この時の僕には、難しかったが――その後、民族学の本などを読む内になんとなく理解した気がする。ただ知識を得ても、結局の所、祖父の提案が適切だったという思いが強い。

 一言にするなら、『笑い飛ばす形で、あまり刺激せず、相手を人間として扱う』という事になる。そのために必要なのは、僕が嘘をついていないと信じてもらうための術だ。

 これに関しては――僕は、三つの理由で得意だった。

 一つは、幼い頃から玲瓏院家の修行の一環で、人間ならざる者を相手にする際に、心を読ませないようにするというものがあった。

 話によれば、”覚”という妖怪でも出現しない限り、僕の心は偽装可能らしい。偽装し、頭の中で、『明るい状態』の時の自分の感情を再現する結界を、いつでも想起可能な数珠を、僕は足首につけている。

 二つ目は、『さすがは玲瓏院家の人間だ』と言われながら、育ったからだ。
 それは僕が実力で得た評価ではない。たまたまそこに生まれただけだ。

 だけど――僕は、玲瓏院の人間として扱われる事に慣れ、同時に、玲瓏院家の人間らしい表情をする事も覚えていったから、他者の反応を見て、自分の言動を偽る事が可能だ。自分を取り繕っていない人間のほうが、僕は少ないと思う。

 ただし、重要なのは、三番目の理由だ。

 最後の理由――それは、僕がボッチであるという事実だ。

 いつも遠巻きにされ、教室に一人でいても、僕はそれでも……寂しさなど感じない顔をして生きてきた。僕は、兄の絆とは違った方向性で、プライドが非常に高いのだと思う。

 兄が求めるのは、社会的な評価や賞賛だ。
 僕が求めるのは、社会性の欠如を指摘されず、適応していると周囲に信じてもらう事。

 つまり、誰にも寂しいだなんて、思われたくは無かったのだ。
 友達が一人もいないとしても、僕は悲しいなんて知られたくはなかった。
 意図して距離を作っていると、みんなに考えて欲しかった。

 このように――僕は、大嘘つきである。

 そんな僕は、火朽くんを前にして……どうやって明るい方向で笑い飛ばすか、及び、人間扱いをするか考えた。僕が幼い頃にみた狐火……よりも、明らかに禍々しい炎が、その時、小会議室を埋め尽くしていたからだ。


 そもそも、見えなかった人間が、見えるようになったという出来事だけならば、その現象に説明をつけるのは、非常に簡単な事だ。嘗ての昼威さんのように科学的知識があるわけではない僕であっても、理屈抜きで理論化可能な言葉がある。

「手品!」

 そう、手法は不明だったが、目の前の現象は、手品だったのだ。
 そんなはずはないが、そうする事で、さらには笑い飛ばす方向にも繋がる。
 見抜けなかった滑稽な僕は、項垂れる。

 その後僕は、必死に、火朽くんに対して、手品の実験をしていたんだねと繰り返した。
 そうしながら、禍々しい炎の納め方を考えていた。
 思いつかない内は、存在しないものとして、扱うしかない。

 心を読まれないように気を配りながら、僕は必死に、怪訝そうな顔の火朽くんに対して、『手品』だとか、『火朽くんは人間だ』とか、頑張って繰り返した。そうしつつ、狐火への対応を考える。考えながら、なるべくツッコミどころ満載の発言を繰り返した。勿論、笑いを誘うためだ。

 だが、僕が何もしていない内に、次第に炎は見えなくなっていき、部屋には僕と火朽くん以外は、いつもと同じ風景が訪れた。火朽くんが僕を見て微笑したのは、その時だった。

「改めまして――僕は、火朽桔音といいます」

 この時、周囲に残っていた禍々しい炎も完全に消失した。

 その後僕は、他の多くの他者――人間に対するのと同じように、火朽くんへと、頑張って笑顔を向けて挨拶を返した。

 それまでの険しく冷たい顔が嘘だったかのように、火朽くんは穏やかな人物で、聴き心地の良い声音と、優しそうな瞳、良い人さが滲む唇を時折動かしながら、僕を見ていた。

 しかし僕は、彼が良い人だとは思わない。それは、人間ではないから、ではない。
 何せ僕が初対面だった先ほどの、冷ややかすぎるあの眼差しは、完全に怖い人だった。

 狐火といった有害な現象よりも、実在する性格が怖い人間の姿をしている相手の方が、蚊子に通じる、実害をもたらすといった意味での、良くない存在だ。

 なるべく関わらない方が良いだろう。今日のこの場だけは、笑顔で雑談を乗り切り、明日からはそれとなくそれとなくそれとなーく、刺激しないように距離を作っていき、関わらないようにしよう。

 僕はそう誓いながら、この日の打ち合わせ時間を乗り切り、時計を一瞥してから、雑談を打ち切って外へと出た。そしていつもならばバスに乗るのだが、一刻も早く安全地帯に避難したかったので、玲瓏院の車に迎えに来てもらい、後部座席へと乗り込んだ。



 後部座席に乗り込むと、緑色の紋付姿の縲が、僕を一瞥した。

「珍しいね、いつもは目立つからと言って車を呼ばないのに」

 父の声に、僕は俯いて大きく吐息した。兄という方がしっくりくる外見の若い縲ではあるが、それでも僕の中では、一応は頼りになる父親だ。実際の血縁関係は問題ではない。

「縲、聞いて。さっきね、狐火が出たんだ」
「狐火?」

 僕の声に、縲が首を傾げた。

「霊泉学園大の中に?」
「うん。民族学科準備室のそばの小会議室の中全部を埋め尽くすみたいに、ぶわって」

 今になって信じられない気持ちが浮かんできて、僕は吐き出すように、見たままを縲に語る。すると、父はスッと目を細めた。

「おかしいね」
「でしょう? 心霊現象なんてあるわけが……」

 僕が呟くと、いつもは笑顔の父が、真面目な顔で腕を組んだ。

「――うん。霊泉の構内には、玲瓏院で各所に結界を構築しているから、大学の中で心霊現象や怪奇現象が起こるなんて事は、基本的にはありえないね」

 それから縲は、改めて僕を見た。

「危険性が高いと感じたら、すぐに俺に連絡をするように」
「うん……だけどさ、縲」
「ん?」
「僕、縲がお祓いとかをしている姿、一度も見た事が無いんだけど」

 僕の言葉に、縲は顔を背けた。窓の外を見ながら、引きつった笑みを浮かべている。
 縲は、見えるや感じると語った事すら、一度もない。

 心霊協会の役員をしているのは、玲瓏院家の当主だからであり、入り婿である縲は、実を言えば、”一般人”だと囁かれているし、幼い頃から見てきた僕も、父は僕以上の一般人だと思う。

「ほ、ほら! 俺は顔が広いから」
「それは、接待で出かけた先のキャバクラ的な意味で?」
「た、確かに俺は本指名はしないから、沢山の夜の蝶の連絡先を知っているけど、それとこれとは話が……」

 僕の声に、縲が焦ったように言い訳をした。

「まぁ、近いうちに、新南津市全域の、本物の玲瓏院結界を構築し直す予定だから――一斉浄化の時期だからね。そうすれば、弱い妖魔は全て消滅するし、それでも生き残るような存在も、外に出るのは困難になるから、協会総出で、一体ずつ倒す事になるし。それまで、その『火朽くん』という存在が残っているようだったら、本格的に強制除霊すれば良いかな」

 縲の声に、僕は曖昧に頷いた。
 もうすぐ、四十九年に一度行われる、浄化の日が来るというのは、僕も聞いていた。

 僕には存在すら疑わしいが、嘘か誠か、市全域――この盆地を覆っているらしい結界を、修繕し、再構築し、張り直す作業を行うと聞いている。昔は玲瓏院家が単独でこの作業をしていたそうで、大昔に偉人が認めた理由であり、以後も続けるようにと指示したという経緯があるらしい。

 現在では、玲瓏院家に限らず、分家筋や、心霊協会に所属する人々総出で行っていると聞く。

 ただ――僕が知る日程だと、それはまだまだ先の話だ。

 なおこれは、ごく一部の人しか知らない事だし、決して家族外には話してはならないと言われている。問題は、それまでの間、僕がどうやって火朽くんと付き合っていくかという事だろう。

 その後帰宅し、僕は大学への明日からの持ち物の中に、これまでの人生ではあまり効果を感じた事はないが、玲瓏院ゆかりのいくつかの品を加える事に決めた。

 そしてゆっくりとお風呂に浸かって、眠った。