【16】距離



 朝起きて、いつもの通りバスに乗りながら考えたのは――それなりに人がいるし、どうせゼミ以外で火朽くんと会う事なんてないだろう、という思いだった。

 ――だが。

「おはようございます、玲瓏院くん」

 バスターミナルを抜けてすぐ、教室に向かう途中で、昨日初めてきいた人の良さそうな穏やかな声を耳にした。毎朝の常だが、これまで、僕に朝の挨拶をするような学生は周囲にはいなかった。二つの意味で狼狽える。

「おはよう……ございます……」

 誰かに挨拶されたこと、及び、その声の主が火朽くんであること、だ。
 エレベーターを待ちながら、驚きを隠せないままで、僕は視線を向けた。
 そこには微笑している火朽くんがいた。

「敬語じゃなくて構いませんよ」
「あ……うん。僕も、あまり気にしないんだけど……」
「僕の敬語は癖のようなものなんです」
「あ、えっと、無理にとは――」
「代わりに、紬くんと呼んでも良いですか? 玲瓏院くんというのは、長いので」
「は、はい」

 そんなやりとりをしていると、エレベーターが開いた。

 二人で乗り込み、僕は開閉ボタンを押した。火朽くんは僕より少し遅れて乗りながら、僕が『開』ボタンを押す指を、ちらりと見た気がする。その時だけ、スッと目が細くなった気がしたが、目の前で扉が閉まるのを見ながら、僕は別のことに気を取られていた。

 距離が近い。

 物理的な意味合いではない。エレベーターの中だから、別に物理的にも遠くはないけど。
 朝の挨拶、名前で呼ばれる、そういった些細な人との距離の取り方だ。
 多分、火朽くんにとって――ではなく、多くの人びとにとって、普通の距離だ。

 しかし、僕には非常に、近い。付属の高校などから一緒の男子学生すら、僕にこういう距離感で話しかけてくることはないからだ。その点は、女子の方がまだましだ。

 エレベーターが動き出した時、僕は改めて火朽くんを見た。

「火朽くんも、次の講義――」
「ええ、紬くんと同じですよ」
「そうだったんだ。ごめんなさい、見えなくて……まさか、手品師が同じ講義にいるなんて」

 僕は、最後に『手品師』と付け足す事を忘れなかった。
 すると笑ってもらうという僕の目論見が成功したのか、小さく火朽くんが微笑した。

「ええ、散々無視されたように感じ辛い思いをしたので、お詫びに学食でお昼をおごって下さい」

 冗談めかしたその声に、僕は虚をつかれた。



 これも、二つの意味だ。僕はこれまで、誰かと昼食を食べたことがない。そして――火朽くんは、そんな僕の方が珍しく距離を作ろうと思案しているのに、僕を誘ってきた。

「ご、ごめん。僕、手品には疎くて……」

 しかし、傷つけてしまったのならば、何もしないのは申し訳ない。
 ――人間として扱う以上、僕は、誰かを傷つけたら、基本的にお詫びをしたい。

「じゃあ、今一限だし、終わってから待ち合わせを……?」
「二限も同じ講義でしたけど――急な連絡がある可能性もあるので、連絡先を教えて下さい」

 有無を言わせぬ笑顔で、火朽くんが言った。
 強引というか、積極的すぎる。コミュ障の僕の周囲には、これまでいなかったタイプだ。

「あ、う、うん」

 挙動不審になりながら答えた時、エレベーターが到着した。
 廊下を歩きながらトークアプリの連絡先を交換し、僕は必死に考える。

 一限も二限も同じだというが、あの人気のない、ほぼ僕だけに近かったり、僕を含めて少数の講義で、一緒……? これまでもそうだったということなのだとは思う。だけど、一体いつから? 狼狽えつつも、僕は同じ教室へと入った。

 実際、二限まで講義は同じで、担当の先生や周囲にも不審そうな様子はない。
 困惑したままだったから、あまり講義に身が入らなかった。
 するとあっさりと時間は過ぎていき、昼食の時間になった。

「何を食べる?」
「紬くんは?」
「今日は、冷やし坦々麺かな」
「では、僕も同じものをお願いします」

 こうして、僕は食券を二つ購入し、片方を火朽くんに渡した。
 ――大学三年目にして、初めて、ほぼ理由なく(?)人と学食でご飯を食べることになった。

 二人用の席に座り、僕は火朽くんが割り箸を手にするのを見ていた。

 怒っているようには見えない。おごれというのは、それで水に流すという意味なのか、あるいは距離を縮めるための提案だろう。

「今度はお礼に、僕が紬くんにごちそうします」
「気にしないで」
「――ごちそうついでに、そのお礼に、おすすめメニューを教えて下さい。この坦々麺も中々美味しいです。趣味が合うようで、何よりです。まだまだ僕は、この大学に不慣れですので」

 お礼のお礼を繰り返して言ったら、終わりがない。だが、今度……来週の今日という意味だろうか? しかし、不慣れな編入生――じゃなく、仮に人間生活に不慣れだとしても、困っている相手が目の前にいて、僕に手伝えることがあるならば、何かをしたいとは思う。その相手が、怖くない限りは。

 本日の火朽くんに、怖さはない。
 なお、翌日の火朽くんにも畏怖を感じることはなかった。
 ――翌々日も。

 僕がそれを知ったのは、見事に全ての講義が、火朽くんとかぶっていたからである。
 そのため僕達は、その日から、ほぼ毎日一緒に学食へと向かった。
 同じ講義で同じ時間に教室を出て、向かう食堂という先が同じだと、流れでご飯になる。

 今までだって、みんなとそうだったはずなのに、僕にとっては、この『流れ』が初めてだった。新入生ですら、既に経験済だろうに……。



 この日は、お互いにパスタを頼んだ。

 なお、別々に食券を買うようになったのだし、示し合わせたわけでもなく、僕は火朽くんが何を買うか見ていなかったし、あちらも見ていなかったのに、奇遇にもお互いに明太子パスタだった。実際に、僕達の食の好みは合うらしい。

 食だけじゃない。最近読んだ本だとか、好きな音楽だとか。

 もっとも、今までは、僕はこういう話をする友人が周囲にいなかったので、他の誰かと仮にあっていたとしても、分からないんだけどね。本日も講義の話や雑談をしつつ、僕は考えていた。

 ――距離を取るのが、難しい。何せ、向こうがアクティブだ。

 金曜日の本日、僕達は三限に講義を入れていない点まで同じだったので、食事を終えてからも、そのまま学食の席に残っている。

「僕は引っ越してきてからは、まだ服はネット以外では買っていないんです。どこにどんな店があるのか分からなくて」

 火朽くんの声で、僕は我に帰った。

「そうだ、紬くん。良かったら、街を案内してくれませんか? まだじっくり見ていないんです。もう夏になるというのに。この新南津市には、数多くの民俗学的資料となるような石碑や祠も多いと聞いています。それらにも興味がありますが、どこにどんなお店があるのかも知りたくて」

 その言葉に、僕は曖昧に頷いた。世間話なら、『今度』で良い。が、僕はそうならない気がした。

「では、明日よろしくお願いします。遺跡巡り。今日の帰りは、とりあえずお店を」

 ……非常に積極的な火朽くんは、必ず日時をすぐ決め、行動に移す。
 微笑しながらサクサクと決めていく火朽くんに、僕は何も言えない。

 こうして――僕は、距離を取ることはおろか、近づきつつある。この日も、二人で、ついに学外で遊ぶことになった。遊んだ経験がないので、そういう意味では新鮮で嬉しいのだが……。

 火朽くんが、人間でさえあったならば、いいや、そうでなくとも怖い本性を持っていなかったならば……良かったのになぁと僕は思った。

 そのまま二人でバスに乗り、僕達は大学の下に広がる街へと向かった。
 駅周辺に店が乱立していて、離れた場所にはホームセンターなどがある。
 あとは、人が比較的多い集落のそばには小さなスーパーがある。

 だが、基本的に駅の近くに全てがある。

 考えてみると、買い物をする場所が分からないというが、新南津市では駅周辺以外、栄えていない。僕にとっては、これは普通の事だった。

「火朽くんは、どんなお店に行きたいの?」
「特に明確には考えていなかったんですが――不思議ですね」
「何が?」
「なぜそれなりに広い新南津市なのに、この場所の駅ビルや、商店街に多くの店が密集しているんですか? もっと距離をおいて、建設すれば良いのでは?」

 その言葉に、僕は小さく首を捻った。

「僕は、新南津市からは修学旅行くらいでしか外に出た事が無いから分からないんだけど、ほかは違うの?」
「ええ。先日――……春に引越しをしてくる前に暮らしていた都心では、広い土地を有効活用しているようでしたよ」

 それは知らなかった。絆は、よく東京で撮影をしているから、今度聞いてみよう。

「まぁ田舎だからかもしれないけど、大体ここに全部あるよ」
「オススメのお店はありますか?」
「服だったら、僕はあそこの角の――」

 ブラブラと歩きながら、僕は火朽くんを案内した。道中でも、いくつかのお店の説明をする。僕が思い描いていたような、普通の友人同士の日常――それが、やってきた気分だった。

 到着したお店には、大きく、絆が(おそらく一方的に)ライバル視している兼貞さんのポスターが貼ってある。僕達は、新商品をまとっている彼のポスターを眺めて、無意識にそれらが並んでいる方向に足を運んだ。やはりどう考えても、絆よりイケメンだ。


 その後は、それぞれ見て回り、特に買うでもなくダラダラと過ごしてから、cafeに入った。
 すると火朽くんが、ケーキの並ぶショウケースを一瞥し、嘆息した。

「やはり――普通のcafeとは、こういう美味しそうなケーキなどが並んでいてしかるべきですよね」
「うん? まぁ、大体並んでいるか、メニューに載っているとは思うけど?」
「僕も、とあるcafeを知っているのですが、ほぼお客様が不在で」
「そうなんだ? バイトをしてるの?」
「え、ええ、まぁ。一応、そうなりますね」

 僕は何気なく頷いた。本日は、火朽くんが東京から来た事や、バイトをしているといった、プライベートな話をしている。学内では講義の話が多かったから新鮮だ。

 同時に――ボッチの僕には、こうした雑談が貴重すぎて、非常に楽しい。

「所で、明日は、火朽くんは、どんな所を見て回りたいの?」
「最終的には、この都市の全ての貴重な史跡を見たいですが、まずはそうですね……」

 僕が尋ねると、火朽くんがアイスティのストローをくわえながら、思案するような顔をした。

「――僕としては、御遼神社の敷地にある、要石を祀る祠や、その近所にあるという首無しの八地蔵、ムシオクリ資料館といったものに興味があります。ただ、神道の関連だと思うので、紬くんは玲瓏院家という名高い仏門の方ですし、やはり宗派が違うと問題がありますか?」

 その声に、僕は軽く首を振った。

「特に僕は気にしていないから、大丈夫だよ」
「そうですか。では、明日は、御遼神社の周辺を案内して下さい。よろしくお願いします」

 僕の返答に、火朽くんが微笑した。

 実際に構わないのだが――それよりも、休日に、僕になんの予定もないと確信している様子の火朽くんを見て、なんだか悲しくなった。実際に予定はゼロだけど、僕って暇そうなんだろうか?

 こうして行き先も無事に決まり、この日は別れた。