【18】人の輪(☆)



 その後――僕と火朽くんは、一緒に講義に出て、週に一度は発表の打ち合わせをし、週末には新南津市の各所を回るようになった。

 僕らが発表の題材に選んだのは、『行逢神』という、人に災いをなす怪異についてで、この新南津市に伝わる伝承と、全国……特に、四国地方の伝承と比較し、これまでのいくつかの研究文献を引用しつつ、僕達なりの意見を取り入れた。

 ディスカッションの後、夏瑪先生が、総括の時に静かに言った。

「――狐火も、その一種だと言われる事があるね」

 僕は小会議室で見た禍々しい炎を思い出したが、ちらりと火朽くんを見ても、既に彼は僕が見慣れてしまった微笑のまま、静かに頷いているだけだった。



 こうして――テスト期間が訪れた。七月の半ばから、八月の頭まで、僕達大学生は、非常に忙しくなる。この時ばかりは、普段はサボりがちな学生も、こぞって大学に顔を出すから、バスも構内も非常に混み合っていた。

「一緒に勉強をしませんか?」

 火朽くんがそう言ったのは、テスト前最後のゼミの後だった。
 僕に向かって口にしたわけではなく、近くにいた時岡や宮永との雑談中にそう言ったのだ。
 最近、僕は火朽くんが彼らを含めた周囲と雑談をする時も、隣にいる事が多い。

「お、いいね。いいっすね。ノートを見せてくれるフラグ?」
「時岡、お前最初から火朽のノートを狙っていただろ」
「いや? 俺の狙いはどっちかといえば……玲瓏院、見せて!」

 笑顔で声をかけられた。僕は、火朽くんの隣にいる内に、これまでも長い付き合いだったはずの周囲と、今までよりも打ち解ける事が出来るようになっていた。あんまりにも自然に、僕は人の輪の中に入る事が可能になっていた。

 そして――『流れ』で、僕らは学食へと向かい、混雑している中で、空いているテーブル席を見つけて、四人で勉強をした。時には、南方達女子が加わる事もあるし、日之出くんが顔を出す事もある。それ以外の、学科のみんなもだ。

 僕は大学三年生になって初めて、学校に友達という存在が出来つつある。
 嬉しくないと言ったら、嘘だった。

「全員のテストが終わったらさ、宮永のバイト先で、ゼミの奴らと打ち上げ飲みしよう。夏瑪先生も誘ってさ」

 時岡が、レポートを書きながら、そう言って笑った。
 すると宮永が頷く。

「予約なら任せろ。料理もサービスしてもらうからな。厨房にカノジョいるし」
「リア充羨まー」
「時岡だって、南方と良い感じなんじゃないの?」
「いや、おい、別に俺とまほろは、そういうんじゃ……そういうんですが……! うん。火朽、玲瓏院、黙ってろよ。内緒なんだよ、まだ、みんなには」

 雑談交じり、気軽なやり取り。

 少し前の僕だったら、こんな風に恋バナをされる事もなければ、内緒話をされる事も無かった。そちらの方が、ボッチだった僕には嬉しすぎるし、毎日が優しすぎる。最近では、火朽くんを怖いと思う日もないし、僕は大学生活に充実感を覚え始めていた。

 その後、時岡と宮永とは別れ、僕と火朽くんはバスに乗った。



 帰りの車内には、八月末に開催される、御遼神社の花火大会のポスターが貼ってあった。
 火朽くんが物珍しそうにそれを見ていたので、僕は思い出した。
 以前、無定形の文化にも興味があると聞いた気がする。

「毎年、結構盛大にお祭りがあるんだよ。盛大って言っても、この土地では、だけど」
「そうなんですね。ぜひ、一度行ってみたいです。一緒に行きませんか?」
「あ、うん」

 実を言えば、僕は昔享夜さんに連れて行ってもらったくらいで、ほとんど出かけた事が無い。一緒に行く相手がいないからだ。享夜さんも、毎年行くわけではないようだし、僕以外の――例えば、甥っ子の斗望くんを連れて出かける事も近年では多い。

 なんとなく、一人で行く気にはならない。
 大勢の中にいると、いつもより孤独感が増すからだ。
 だけど、そうか。今年は、僕にも友達が出来たのだ。

 そう考えると無性に嬉しい。

 ポスターにある開始日時を見て、その場でテキパキと火朽くんが待ち合わせ時刻を決めていく。本当にいつも段取りが良い。僕達は、まだだいぶ前だというのに、その場で、夏祭りの日には、夕方の五時に、鳥居の所で待ち合わせをする約束をした。



 それにしても……今はテスト期間だから、大学が混雑している。
 バスも例外に漏れない。翌朝、僕はため息を零した。
 いつもならばゆったりと座る僕も、最近は立っている。

 それでも三年生にもなれば最適な位置取りになれるから、僕は扉のそばの、比較的立ちやすい壁際に陣取った。窓の外を流れていく風景を見る。

 最近では、少し前まで見えなかった――火朽桔音という友人が見えるようになった。僕は、バスの中で、最近はずっと、火朽くんについて考えている。

 仲が良くなったと、僕は思う。
 少なくとも、火朽くんが現れてから、僕の毎日は楽しくなった。

 最初こそ怖かったはずで、距離を取ろうと考えていたはずなのに、最近の僕は、火朽くんに嫌われたくないとばかり考えている。僕は、火朽くんを相当意識しているみたいだ。

「っ、?」

 違和感がしたのは、その時の事だった。
 シャツの上から、両方の乳首を弾かれたような気がしたのだ。
 驚いて周囲を見渡す。

 混雑こそしているが、僕の背後には人はいない。少し距離を置いて、二人組の女子がいるだけだ。左右を見るが、そちらにもそれぞれ、手すりを掴んでいる男子が居るだけだ。

「ッ」

 その時、今度は、キュっと両方の乳首をつままれた気がした。え?
 狼狽えて、僕は硬直した。周囲には誰もいないし、視線を下げても何もない。
 だが、明らかに左右の乳首が、摘まれている感触がする。

「!」

 その見えない指先は、僕の乳頭を激しく擦り始めた。緊張のあまり硬直した僕は、何度も瞬きをする。

「ン」

 すると指の動きが緩急をつけたものに変化し、激しくこすっては、優しく弾くものだから、僕は声を漏らしそうになった。女の子じゃないのだから胸で感じるわけではないと思うのに、あまりにも巧みな指先の動きに、次第に腰から力が抜けそうになる。

 しかし――何度見ても、指など見えない。見えないのだから、痴漢ではないだろう……。

 その時、フッと耳の奥へと息を吹きかけられた。
 瞬間、ゾクリとした。

「あ」

 思わず声が出た。皮膚の内側を、何かが駆け巡ったのだ。鳥の羽がはばたくように、皮膚の内側に、快楽が一気に波打った。

「あ、あ、あ」

 また、息を吹きかけられた。するとゾクゾクゾクと、肌の内側で快楽が羽ばたく。弱く息を吹きかけられると小さい快楽が波のように広がり、大きく吹き込まれると全身が性感帯になってしまったかのように全身を強い快楽が襲った。

 どうしたらいいのか分からないでいる内に、バスが大学へとついた。すると胸への刺激も消えた。僕は、扉が開くと同時に、無我夢中で外へと出た。

 走るようにして構内を進むと、いつものベンチに火朽くんの姿が見て取れた。

「おはようございます、紬くん」
「お、おはよう……」

 挨拶をしながら、僕は体の熱を逃そうと、大きく吐息をした。

「行きましょうか。といっても、あのテストは、僕達以外いるのかどうか」

 火朽くんが苦笑するようにそう言うと、僕の肩にポンと手を置いた。
 その感触が――辛い。優しい火朽くんの手の温度だけで、僕の体はゾクリとした。

 二人でテストがある教室へと向かう。僕は昨日予習をしたはずなのに、体が熱すぎて、どのような解答をしたのか、あまり記憶にない。提出すれば退出して良いテストだったから、僕は早々にテスト用紙を提出した。




 その後、忙しないテスト期間が終了し、飲み会の日がやってきた。
 僕はこんな風に、みんなとお酒を飲むことすら初めてだった。
 ――何を飲んでいいのか分からない。

 どのお酒が強いのか、どのお酒がどんな味なのか、僕にはさっぱりだ。
 キャバクラで飲みなれているだろう父に、今度聞いてみよう。

 ただ、ビールが苦いというのは漠然とした印象があったので、僕は生絞りキウイサワーを頼んだ。火朽くんがそれを頼んでいたからだ。僕達は飲み物の趣味が合うから、多分大丈夫だろう。

 時岡とスミノフ、宮永はビール、南方はジャスミンハイ、楠原はカルーアミルク、日之出くんはジントニック、夏瑪先生はウイスキーを頼んでいた。運ばれてくる料理は、コース料理と、宮永のバイト先のご好意の品らしい。

 そうして雑談をした。夏瑪先生は、相変わらず、「私は吸血鬼でねぇ」という冗談を言って、みんなを笑わせている。すると、楠原が聞いた。

「吸血鬼って、コウモリに変身できるんでしたっけ?」
「――ああ。コウモリになる事も可能だけれどね、私はあまり、その姿は好かない。姿を変えるなら、私ならばもっと吸血しやすい生き物に姿を変える。その方が、合理的だからねぇ」

 僕も思わず吹き出した。みんなが笑っていた。
 その後、夏期休暇中も、ゼミのメンバーで、特別講義をしてもらう話になった。
 これは、そろそろ卒論の準備に入るからで、四年時を見据えて、他のゼミでも行うらしい。

 春からの講義が、三年生からは楽な分、休暇中にも大学に顔を出す機会が増加する。

 きっと以前までの僕ならば、億劫だと感じただろうけど、今は充実しているから、正直楽しみだった。